コーヒーブレイク3



もくじ

《沖縄と信州》new!

《ひとミュージアム》

《経済学》

《詩》

《根付く》

《ツバメ騒動》

《地方紙》

《雨 蛙》

《コーヒーが正解》

《映画》

《清水まなぶ》

《手作り醤油》

《写真教室》

《非戦の舞台》

《祈りの中身》

《葷酒…》

《電磁波》

《観桜の宴》

《三点支持》

《テンポ》

《まめったくなえ》

《氷河を見に》

《実りの秋》

《フェイスブック》

《住めない…》

《スタンディング》

《民話の灯》

《バツ印》

《鬼やらい》

《新しい村で》

《うわぁ、虫が》

《草もみじ》

《ついに来たか!》

《Bouchon》

木洩れ日

墓地訪問

花が咲いた

薬草料理

マエストロ

デンドロビウム

オリジナル・カレンダー

ジャーナリストの目

適材適所

時 計

日本語を解する人

愛蔵の書

たかが雑草

案内状

除 染

年賀状

新 車

歳時記異変

マチルダと男爵

「絵具箱」

あんパンの天ぷら

オープン25周年

がんばったよね

花見の客

アンデパンダン展

ブラス・ジャンポリー





《沖縄と信州》

 1996年の4月に当時の首相であった橋本龍太郎氏と駐日アメリカ大使のモンデール氏が行った記者会見について、2月17日付の信濃毎日新聞一面のコラム「斜面」で触れています。

 “普天間飛行場を5年から7年以内に全面返還する、と明言した。(中略)発表の限りでは沖縄に新しい基地が出来るとは受け取れない” “それが、いつの間にか滑走路を持つ立派な飛行場が辺野古に建設されることになった。” 文頭に「羊頭狗肉」の四字熟語を充てています。

 同日付けの地方面には、この2月末、上田市の「信州沖縄塾」というグループが、およそ15年の活動を経て閉塾することになったという記事がありました。沖縄についていろいろと学習をしてきたグループで、塾長は沖縄出身の伊波敏男さん(75歳=作家)です。

 閉塾の要因の一つはなんといっても仲間たちの高齢化、活動を若者世代へ引き継ぐことが出来なかったこと、とのことです。伊波さんは沖縄に戻るそうですが、「いつまでもあなたたちの心と目を、沖縄とあなたの足元の信州に注いでください」と締めくくりの会で言われたそうです。

 冬の遠ざかって行くこの時期にふと思い出すのは、所沢の新明神社の境内にあった一本の緋寒桜の木。それほど大きくはなかったのですが、その紅い花は初めて沖縄を訪れたときに見た花と同じだと思いました。もう、ずいぶんと前のことです。あれは、もしかしたら沖縄緋寒桜だったのではないかしら。

 「足下」から「沖縄」を思う、個々の見つめた小さな点としての沖縄、それらを結ぶ細々とした線。点が多くなれば線も太くなるのでしょうね。

 この会報の原田みき子さんの連載、「沖縄通信」で現場での実態を知る私は、「足元の信州」という指摘を真摯に受け止めました。沖縄からは遠く離れてのどかに暮らしている村人には、辺野古の現実がどのように見えるでしょうか。自分を含め、日本が何を選択して何をしようとしているのか、考えるきっかけになればと、連載を紹介しています。

原 緑




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《ひとミュージアム》

 2016年に韓国の済州島に韓国海軍基地が建設されてからずっと、「基地がやがて島全体の軍事化につながるのでは」とゲート前でアピール行動をしている人がいます。

 長野市で開かれた憲法を考える集いで、日本の9条改憲に反対する人たちとの連帯を深めたいと来日したその人、姜さんから活動のお話を聞いた、と伝える新聞の小さな記事を見つけました。参加者は20人ほどの小人数でしたが、主催したのは「川中島9条の会」を中心とした「市民アクション川中島」です。地道な活動をつなげてゆきたいと、今後への期待を述べたのは共同代表の田島隆さん。

 武田信玄と上杉謙信が合戦をした“川中島”も時を経て、今では住宅街です。町の一角に「ひとミュージアム 上野誠版画館」という美術館があり、館長は前述の田島隆さんです。自宅の庭に彼が個人で建てたという美術館ですが、現在ではNPO法人が運営しています。

 上野誠は働く人々や女性、子ども、そして平和をテーマとした版画家で、作品は主にモノクロで、訴えるものをストレートに感じさせます。この美術館の2階には、ナチス・ドイツの時代を生きた女性版画家のケーテ・コルヴィッツの作品も展示されています。彼女もまた貧しい人々の生活や女性、母と子、そして平和を作品のテーマにしています。

 先日、この美術館で催されたアマチュアの美術愛好者たちの作品展で、館長と親しくお話をする機会を得たのですが、地元に残る歴史的言い伝えを素材にして館長が原案を作り、元教師の女性が文を担当した「北原の大仏様」という絵本を見せていただきました。どの頁も近くの児童センターの子どもたちが描いた絵で構成されていました。

 東京の五島・山種・ブリジストンなどの大手企業が運営する美術館の存在はとても貴重ですが、一地方で個人が志を持って立ち上げた美術館はさらに貴重です。しかし、所蔵作品がどんなに魅力的であっても訪れる人は少なく、入館料だけでは運営が難しそうです。なんと言っても館長のお人柄が良すぎて… 儲けは二の次とお見受けしました。長野市へお越しの際は是非お立ち寄りを。

原 緑




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《経済学》

 「あの人は丁寧な人で、郵便屋様、と敬語で呼んでいたねぇ」という話を聞きました。それは郵便局という官庁の仕事に携わる方への尊敬の念があったからだということです。かつての郵政省は今では日本郵便株式会社となりました。

 昨年、その郵便株式会社から営業の若者が訪れ、他の配送会社より安価だからと熱心に勧められて特約ゆうパックの契約をしました。

 りんごの5キロ・10キロ箱を多い日には15〜20個も集荷する、およそ3か月間にわたる連日の仕事です。最寄りの郵便局からは中年というか、もう少し上と思われる女性が軽自動車で来て積み込んで行きます。たぶん、彼女たちはパート職員でしょう。

 ところが、今年の春から郵送料が値上げされました。うちの呑気なりんご屋さんは各契約者へ個別に新料金表といったものが届くものと思い込み、それを手にすることもなかったために値上がりを失念し、りんごの送料を昨年同様で案内しました。

 シーズン初の「つがる」を発送した請求書を見てびっくり。ほとんど倍額ではないかという値上がりです。クロネコさんなどはすでに昨年値上げをしたのですが、郵便株式会社は企業としての競争のために価格を抑えていたのでしょう。

 値上げの原因は人件費の高騰? いえいえ、長野ではパートの最低賃金引上げというニュースは聞きません。アメリカのイラン制裁による原油の不買で輸送費がかさむから? いえいえ、それ以前の話でした。

 生産物の価格より送料の方が高い…これでは産直品を購入する人はなくなるでしょう。

 いったいどのような経済学が跋扈しているものやら。送料の値上げが引き起こす経済連鎖。うちでは「うっかりミス」だったので赤字を覚悟しましたが、農業をやろう、と都会を離れた若者たちが頑張って来た小規模営農も、軌道に乗ったところでつぶされるのではないかと心配です。

 この夏の猛暑を汗だくで耐えて彼らが育てた野菜の立派だったこと。今、棚田にはハサにかけられた金色のお米がきれいです。

原 緑




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《詩》

 山の絵描きさんと言われる中村好至惠さんの描く「浅間山」を表紙に用いた『谷川俊太郎 空を読み雲を歌い 北軽井沢・浅間高原詩篇 1949−2018』(正津勉編)という本を手にしました。こともあろうに、中村さんへ「私は、詩は好きではありません」と言わなくても良いことを言ってしまい、大後悔をしています。

 なぜそんなことを言ってしまったのかと言えば、この谷川俊太郎氏の「自作の朗読」を聞いて(見て)しまったからなのです。

 あれは武満徹さんの曲を聞いた演奏会でした。客席から、生成りで袋状のロングドレス(貫頭衣?)をまとった谷川さんが舞台へと上がり、作品を朗読しました。その姿と声に頭の中に×印が一杯並んでしまったのです。

 オデュセイアやイーリアス、あるいは神曲などの叙事詩は物語として楽しめるのですが、学校の授業でかじって手にした詩のほとんどは、私的な体験を詩的に表現した、しかもかなり赤裸々に表現した作品が多く、重たくてどうも負いきれないと常にそっと逃げ出すのがオチでした。

 好きではないと言いながら、本棚には詩集がたくさんあります。山を謳歌した往年の山屋さんの作品もありますが、定番の明治期の詩人の全集、社会問題を真正面から取り上げた作品、子どもを対象とする作品等々、外国のものも含めてペーパーバックからハードカバーのものまで、けっこうな冊数が並んでいます。

 先日、河口湖円形ホールでピアノの演奏を聞きました。ショパンの曲の中にポーランドのミツキエヴィッチの詩から霊感を得て作ったという「プレリュード」がありました。以前、この詩人の長編叙事詩「パン・タデウッシュ」の映画を見ていたので、その映像(A・ワイダ監督)の影響が大きかったのだと思うのですが、このプレリュードは透き通る光に映える若葉の色が見えるようでした。

 実はこの猛暑の中、やむなく松代の動物病院へ通い続けた道すがら、なんと「大島博光記念館」を見つけました。改めて訪問してみようと思います。

 詩は、好きではありません… ですかねぇ。

原 緑




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《根付く》

 この耐えがたい猛暑にすっかり打ちのめされていたのですが、思いがけなくノウゼンカヅラがたくさんの花を吊り下げ、30株ほどのヒオウギに蕾やあどけなくも上品な花を咲かせているのを発見、嬉しくなりました。

 ノウゼンカヅラは待つこと13年、ヒオウギは3年です。

 実は、植物を育てるのは苦手です。“千葉のおばちゃん”と呼ばれる訪問販売の人から、ジャスミンを買ったのを手初めに、白河のバラ園で求めた薔薇、贈られたシクラメン、近くの花屋さんで手に入れた鉢物と、すべて枯らしてしまったという「手腕」の持ち主です。

 土に植えればきっと自然が育ててくれるだろうと、転居の折にノウゼンカヅラはパーゴラの柱の近くに植え付け、ヒオウギの種はあちこちにばら蒔いて埋めました。

 その年、ノウゼンカヅラはひょろひょろと蔓を延ばしたものの、とても細くて貧弱でした。葉がたくさん出れば光合成も十分に出来るのに、やっぱりダメなのかな、と早くもあきらめの気分。さらに、ヒオウギと来たら芽の出る気配すらありませんでした。

 ノウゼンカヅラはもう10年以上も前に、夫の実家から掘り取ってきたものです。鉢植えに目印の棒を立てて庭に置いたのですが、何度も草刈機で刈られて、植え直したときには、根はあったものの、地上部はほとんどありませんでした。

 ヒオウギは、丹沢のゴルフ場整備で失われつつあるヒオウギを残そうと「西山を守る会」が種を取って育てる活動を始め、その真黒な種(ヌバタマ)をいただいたものです。蒔いた後にけっこう雨が降ったので、種は流されて定着できなかったものと思っていました。

 それでも2年目には、ノウゼンカヅラは這い上って葉を広げました。でも、花を咲かせません。ヒオウギはほんの2株だけが葉を出し、それぞれ一つの花を咲かせました。そして3年目。どうやらしっかりと大地に根付いたのでしょう。

 桜、杏、白花の山吹、ピンクの雪柳、紫式部、栴檀、桂、まだまだ小さい木のこれからが楽しみです。
原 緑




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《ツバメ騒動》

 ジュビージュビー、グチュグチュチュ。
玄関の外でツバメの鳴く声がしました。頻繁に飛び交う姿を目にしてはいましたが、ついに巣作りの場所を決めたのかもしれません。

 ツバメの来る家は縁起が良いなどと、誰が言い出したのでしょう。困ったな…巣を作ってほしくないのだけれど。

 ツバメは人の出入りの多い場所に巣をつくる習性があるそうです。まさに、玄関ドアの上。そこは船底天井になっている部分で、雨を避け風通しは良いと好条件です。

 外から回って見上げてみると、人が来ても怖がらないツバメのこと、壁に垂直にとまってじっとこちらを見ています。どうしたものかと腕組みをしていたのですが、立ち退きを迫る気迫に負けたのか、飛び去りました。良かった、これで鬼婆のように箒を持って追い回さずに済みました。

 戻ろうとすると足もとに「何か」があるのです。ひゃ〜、蛇。ツバメのいた上の方へ10センチばかり首をもたげて、こちらもじっとして動きません。蛇は周りに落ちていた小さな土の塊や細い草などから、巣を作り始めることに気づいていたようです。

 小川村の重粘土質の土は運ぶのに重たいでしょうに、ツバメは果敢にも仕事にかかったようです。2時間ほど経つと、壁には点々と泥の塊が塗りつけられていました。

 数十年も前のことですが、両目に水泡が出来るという鳩アレルギーを経験しました。それ以来、私にとって鳥は望遠鏡で楽しむもの、そばに寄って来てほしくない対象です。気の毒でしたが、壁に付いた泥の塊を取り除き、寒冷紗を張って通せんぼ。船底部分への出入りを禁止しました。

 翌々日、今度は洗面所の出入り口の上に巣を作り始めていました。無慈悲にもこれも取り除きました。それから毎朝、四方の壁をチェックしているのですが、今朝はドアを開けて履こうとしたサンダルのすぐ横に躰を3つにも折り曲げて蛇が…。もう、やだぁ! いくら風水では縁起が良いと言ってもねえ。

 もしかして、彼もまた、狙うべきものとしてツバメの巣をチェックしているのかしら。
原 緑



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《地方紙》

 こちらに定住してから、地方紙の信濃毎日新聞を読んでいます。

 井出孫六著『抵抗の新聞人 桐生悠々』(岩波新書)には、この新聞社は明治6年に創立されてから、錚々たる主筆が「筆政」をはって歴史を築いてきたとあります。

 特に山路愛山という主筆は「社説のほかに信州に埋もれた史実の発掘を精力的に行い、あわせて伊達騒動記、高山彦九郎、大塩平八郎など反官的な独特の史眼によって水準以上の連載を続け、県民に絶大な刺激を与えた」そうです。愛山に記者魂を揺さぶられた各部の記者もそれぞれに力のこもった探訪記事を寄せ、たとえば束松露香記者による《俳諧寺一茶》は、一茶を「通俗詩人から芭蕉、蕪村と並ぶ存在に引き上げる役割をさえ果たした」とありました。

 毎朝届けられる新聞には、一面下段、左隅に“けさの一句”という187文字分の囲みがあります。俳人、土肥あき子さんの選んだ俳句とその解説です。ある日、取り上げられた句を理解できないまま解説を読み、大きな衝撃を受けました。掲句はグラスの中で凍ってしまった水を見つめています。そこから、敗戦で送られたシベリアでの悲惨な生活を読み取っていたのです。その時、香月泰男さんの絵、シベリアシリーズを思い出しました。ほとんど黒で描かれた画面、見開かれた瞳、鉄条網のシルエット…。

 回を追うたびに解説者の教養の深さに驚かされます。古典文学・神話・おとぎばなしなどは洋の東西を問わず、また動・植物をはじめ気象、天体、海洋、医学、教育、歴史、政治等々に通じ、その日にふさわしい句を見つけ出すのも大変な仕事と思うのに、著名な俳人から無名(その道の人はご存知か)の同人まで、“けさ”提供すべき一句を抜き出して、少ない字数できちんと裏付けをした解説をしています。

 40頁もある新聞のたった187文字ですら、桐生悠々を主筆に招聘した地方新聞社の面目躍如? 読みでのある新聞です。
原 緑



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《雨 蛙》

 雑草が一面に花を咲かせています。クローバー・ヒメオドリコソウ・ホトケノザ・イヌフグリ・スミレ、そんなありふれた雑草でも群落となると本当に美しく、これを刈ってしまうのかとため息交じりで仕事にかかりました。すると点々と広がって行く何か不自然な動きが目に入りました。

 うわー、どうしたの。親指の爪ほどの大きさの雨蛙の集団が嬉々として遠出を試みていたのです。その数、18、19、もっと?

 「そんなに好き勝手に跳んで行ってしまったら、お家へ帰れなくなるでしょうに」と小言を言いながら、もしかして彼らは今、こんなに小さな体で大自然を相手に命を懸けた旅を始めたのかと、胸の痛んだことでした。

 雨蛙は体の色を自在に変えます。その完成度の高い技には言葉もありません。枯れ枝を燃やした灰の中からは白灰色の蛙、燃え残りの枝の下にいたのは黒いまだら模様があり、石ころの間にはその石と瓜二つの蛙。イヌフグリの水色の花むらから出てきたターコイスブルーの蛙にはびっくりさせられました。

 そして彼らは実に何処にでもいます。物干し竿を止めるクリップの隙間で3日も同じ姿勢で沈思黙考の蛙。毎日、夜になると居間で歌っていたのは、アルミサッシと鴨居の隙間で運よく難を逃れていました。一大ショックを受けたのは、玄関の柱との間でドアに押しつぶされたままカラカラに乾燥していた蛙です。目玉の抜けたその蛙は、2ミリほどの厚さの実物大。プラスチック製のキーホルダーみたいで、つい、『かっぱのめだま』という民話を思い出してしまいました。

 甲羅にお天道様を当てて三日か四日、もしかしたら十日くらい、頑張りぬいた暁には晴れて人間になれると商人に教えられたカッパ。しなびて乾いて、とうとう岩のくぼみに目玉だけとなってニカニカと笑っていたのです。

 この“乾燥雨蛙”のあまりにも見事な造形に手離しがたく、写真を撮ってから埋めました。写真は、ほらね、と人に見せる度に悪趣味だと言われ、《削除》と相成りました。
原 緑



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《コーヒーが正解》

 山の会の若い仲間に誘われて、運動不足を解消するために地元の大洞・飯縄山に行くことになりました。のんびりと行って戻って1時間半くらい、陽のあるうちに戻れるね、と彼女の仕事が終わったお昼過ぎに車で拾ってもらうことにしました。念のため、残雪の様子を見に行くと、雪の消えた登山道には落ちた杉の葉や小枝がむき出しとなっていて歩きにくそうです。「スノーシューは?ですね、私はツボ足にします」とメールで情報を送っておきました。

 ところで、彼女が車を止めたのは別の登山口。舗装された登山道入り口付近には溜まった雪があり、踏み込むと膝まで埋まってしまいます。ボスッ、ズボッ、あれ? とポール無しでよろけつつ楽しんでいたのですが、慎重派の彼女から「危険です、これは。ダメです」と雪山のラッセルもどきは即禁止で撤退命令。そして「もし時間があるようでしたら白馬にコーヒーを飲みに行きませんか?」

 という訳で、山歩きは数軒のコテージをぐるりと回り、西照寺という小さなお寺を覗いてみて駐車場に戻るという30分ほどの超ミニ・ハイキングに化け、おしゃれな喫茶店でこだわりのコーヒーを「ここは私に任せてください」とご馳走になった次第です。

 翌日になって、下見をした杉っ葉ばかりの鳥居からのコースだったら歩けたかもしれないと、そちらの登山口を示さなかった大失策に気づき、申し訳ないやら残念やら。

 さて、そのまた翌日です。庭で雪の下から出てきた枯れ枝やゴミを整理していると有線放送のチャイムが鳴りました。村の広報課からのお知らせで「今朝、成就下村から柏土にかけてクマの目撃情報がありました」ということです。そろそろとは思っていたのですが、クマの出歩く季節到来です。あの日、ツボ足が面白いからと彼女を引き連れて山に入り、そこでクマに出会っていたら、とても逃げる足場を確保することは出来なかったでしょう。彼女の「山」から「コーヒー」への判断は正解で、感謝した次第です。
原 緑



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《映画》

 映画館で映画を見たのは、小学生の頃にお隣の家族に誘われて行った「鞍馬天狗」が最初で、その次の記憶は高校2年生の時に学校から出かけた映画鑑賞会の「ベン・ハー」です。社会人になってからも映画館には足を運ぶことはなく、岩波ホールや読売ホールなどで上映されたものをいくつか見たくらい。

 過日、新聞の映画を紹介する欄で『プラハのモーツァルト』が取り上げられていました。当然、撮影はあのプラハ(チェコ共和国)で行われています。

 あの、と言ったのには訳があって、プラハは海外一人旅の唯一無二の地なのです。あの風景を再び目の前の大きなスクリーンで見られる、行かねば、と即決しました。

 映画は「ドン・ジョバンニ」のオペラとモーツァルトの身に降りかかった現実を重ねた愛憎の物語で、おおよその見当はつきます。それよりもプラハの街、劇場、オペラを見たいと、長野は善光寺の表参道から入る飲み屋街のアーケードをたどって行きました。

 今どき、こんなの有り?とその外観に少なからぬ衝撃を覚えた映画館は築120年を経た建物で、日本で一番古い映画館だそうです。座席は壁にA〜Nと手書きの紙を貼ったその1列が16席。暖房はむき出しのスチームの管で、上映中でも時々カンカンカンと音のするしろもの。観客といえばシニア割引対象者が7,8人のみ。こだわって選びたい作品(「被ばく牛と生きる」等も)を上映するという経営者の姿勢を垣間見た次第です。

 ところで、思い出の地プラハを目の当たりに楽しめたかと言うと、そうです、当時はLEDの街灯があったわけではなく、しかも映し出されるのはいつも夜の街。雪の降る冬とくればなんとも暗くてはっきりと見ることができません。それでも宮殿や劇場の中で繰り広げられる仮面舞踏会やオペラのシーンは明るく、建物の内部の隅々にまで施された美しい装飾も、プラハ市立フィルハーモニー管弦楽団の演奏も、それはそれはたっぷりと楽しませてもらいました。
原 緑



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《清水まなぶ》

 清水まなぶは長野市出身のシンガーソングライターで、黒い髪を肩までたらし、黒革のびったりとしたパンツルック、長いマフラーをコートの上からざっくりと掛け… 黒づくめの彼を何と言ったらよいのか、芸能界風ではあるお兄さんです。

 そんな若者が昨年の12月に第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞の奨励賞を受賞したのです。

 彼は2000年に小室哲哉、木根尚登のプロデュースでデビューして音楽活動をしているそうですが、07年にお祖父さんの満州での戦争体験をまとめた手記を基にしたCD「回想」をリリースしました。さらに15年からは1年半をかけて長野県内77市町村を巡って、およそ90人から戦中・戦後の体験談を聞きとる活動を続けました。聞きとりは『追いかけた77の記憶』という一冊の本となり、信濃毎日新聞社から出版されて受賞の運びとなったのです。

 12月8日の信毎には全面広告が出され、紙面の右上には「ご協賛企業・団体様からのご支援により長野県内全高校にこの本を寄贈する」旨の囲みがありました。下半分には協賛企業と団体の広告が載せられていて、桜井甘精堂会長、湯本上山田ホテル、HondaCars しなの、長野グランドシネマズ等々、長野東高校同窓会というのがあるのは彼の出身校でしょうか。下の大きなスペースを使って県教職員組合の「9条は世界の宝 子どもたちに戦争のない世界を」と日本国憲法第9条を添えた広告が電気自動車用急速充電器の販売代理店(株)矢花と2分しています。

 先日、入場無料で事前予約不要という出版記念報告会が信毎の本社でありました。執筆のきっかけや取材時のエピソード、戦争体験を取材して自身が感じたことなどを語り歌うという内容です。聞きに行きたかったのですが「駐車場がないので公共交通機関で」という添え書きが… この村から利用できるバスも電車もありません。信毎の向かいのパチンコ屋さんの駐車場を狙うべきだったかな。
原 緑



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《手作り醤油》

 善光寺の西に当たるこの村の土に適した大豆は西山大豆といわれ、村では奨励作物となっています。今年は長雨のせいか惨めな出来となりました。その大豆、昨秋は大豊作だったのです。そこで試みたのがお醤油づくり。

 1月末にもろみ屋さんに預けて酵母菌を付けていただいた35キロの大豆が3月末に手元に戻ってきました。届く1週間ほど前から90g用の樽(プラスチック製)に38gの水と10sの塩をなじませておきます。そこへ麹まみれですっかり姿を変えた大豆を仕込みました。初めの10日間は1日おきに擢を入れて全体が混ざるようにします。雑菌対策で、頭は豆絞りの手拭いで姉さん(婆さん?)かぶり、白い割烹着を着ていそいそと。作業は酸素との接触を抑えるように「おしとやか」に事を運びます。15〜20回、擢で静かに上下を混ぜた後は、豆に空気を触れさせないためにビニールシートで豆の面をびたりと覆い、樽にはティンパニのような音が出るくらいにびしっとビニールシートで内蓋を張り、その上に樽の蓋をし、その上にほこりなどを防ぐ目的で布をかぶせました。

 5月までは日が当たらない、雨の当たらない、外気温の影響を受けやすい、というややこしい条件付きの場所に設置。夏場は温度を高めて発酵を促すために直射を避けられるビニールハウスに置き換え、室内温度が40度くらいになるようにします。60日までは5日に1度、その後は再び元の場所に戻して7日に1度、混ぜ合わせます。温度が高いともろみの厚さが4〜5センチほどになります。この厚みが美味しさの決め手とか。

 ついにこの11月に絞りの作業にたどり着きました。お世話をして頂いたこの道の先輩のお宅の庭に釜をしつらえ、豆を絞って出て来たお醤油を82度くらいにあたためて殺菌をします。少し残しておいて火を通さない貴重な「生しぼり」を取りました。

 昧は「う〜む、我乍ら…」と感心する出来上がりでした。めてだし、めてだし!

 でも、40gも出来ちゃって、どうしよう。
原 緑



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《写真教室》

 延期に延期を重ねて手に入れた最高の山日和に、栂池から白馬乗鞍、小蓮華山へと出かけました。

 ロープウエイを利用して、標高1850mほどの高原を散策することのできる栂池自然園が登山の出発点です。山小屋は既に小屋じまいを迎える時期で紅葉は今が盛りとあれば、今日のこの日を逃すまいという登山者や観光客でにぎわっていました。

 その日は白馬大池に一泊し、翌朝、小屋に荷物を置いて空身で小蓮華山に。夜は天の川を、明ければ山と紅葉を撮影するという登頂以外の目的もあって、同行の二人は一眼レフカメラ持参。対する私は夫のお下がりのコンパクトカメラです。

 こんなに良い天気があるのかと思うほどの晴天。360度の大展望に圧倒され、被写体を選ぶとか構図を考えるなんておよそ無用といった自然の大盤振る舞いに、安易にシャッターを切るばかりでした。

 当然のことながら、写真の知識のない私はカメラが持っているいくつかの機能のなかの“オート”にお任せです。というわけで、出来上がった風景は「う〜ん、どうも違うなあ…」。感激のあの場面には及びません。それでも、現場に行かなければ手に入れられないという原則に則った貴重なショットです。ちょっと胸を張って、かっこよく撮れた写真に「本当はこういうことを狙ったはずですが」と言い訳を添え書してカメラに詳しい人ヘメールを送ると、嬉しいことにいろいろと貴重なノウハウを返信でご教示くださいました。

 夕日や朝日のオレンジ色はこうしたら、一面に広がる光景にはワンポイントを、大きすぎるサイズは小さくして、効果的な逆光は…等々、通信教育ならぬメール教室です。

 デジカメは考えずに撮ると批判されるのももちろんですが、初心者が試行錯誤をするためには便利です。いろいろと試してみて下さいとのエ一ルに嬉しくなって、少し勉強してみようと70の手習い。お笑いくださるな。

原 緑



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《非戦の舞台》

 戦後50年を迎えようとしていた頃、平和な50年の歴史達成をカウントダウンする気運が高まっていました。半世紀もの間、戦争という人類のもっとも恥ずべき行為をしないで人々は暮らすことが出来たのだ、という思いをかみしめて、もう世の中から戦≠ヘ無くなるのだろうと思ったものでした。

 当時、地人会の朗読劇『この子たちの夏』がいろいろな場所で演じられていました。あの戦争が子どもたちに何をもたらせたのか、観る者聞く者に「もう二度とこんな思いは!」と心に刻みつける舞台です。

 実は、山口で文庫活動をしている学校つながりのお母さんたちが公民館の舞台に上り、『この子たちの夏』を朗読したことがありました。台本を手に取って練習を始めてみると、とにかく涙、涙で大騒ぎ。知らなかった惨事の苦しみの細部までが見えてくるのです。

 しかし、地人会が地道に繰り広げてきたことの本意には今ごろ改めて、深く思い至った次第です。あの舞台は、心ある人々が苦しみながら呑み込まれていった戦争が、金輪際行われないのだと確認するための機会ではありませんでした。戦争のない50年を数える水面下で、折あらばと頭を持ち上げつつあった改憲派の並々ならない力を見抜いての非戦への訴えだったのでしょう。

 すぐにイラク戦争が起こり、自衛隊が参加する事態となりました。今度は非戦を選ぶ演劇人の会が『ピースリーディング』の展開を始めました。日々報道される現地の状況にリアルタイムでスポットライトを当てた構成で、戦地の今を知らされました。

 舞台の力は新聞の見出しの大きな活字やテレビで流れるキャスターたちの時に感情的に走りかねない伝え方とは違い、聞いた者はいったん内側で事の次第を受け止め、その後に自分との対話を経て「そうなのだ」と自己決定を促します。その思いは深くゆるぎないものになることを体験しました。

 が、残念なことに、舞台を観る人はなんとも少ないですね。

原 緑



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《祈りの中身》

 久々に姉から分厚い封書が届きました。「すっかりご無沙汰してしまいました」と姶まる手紙は、縦35a・横135aの和紙に書かれた超大型の絵手紙です。たわわな枇杷が迫力満点に右下に描かれ、中ほどにも2つばかり実をつけた小枝があります。その絵の隙間はびっしりと独特の文字で埋められ、およそ半年間の彼女の様子が伝えられていました。

 長い間の腕の痛みは頸椎の椎間板ヘルニアだったこと、愛犬の足腰が弱り老々介護をしていること、7月は都議選もあり井戸端会議の忙しさをかいくぐって(?)夫と姑の法事を予定していること、初めて沖縄に行くこと、相変わらずお芝居も旅行も食事会も楽しんでいる、ということでした。

 さて、その法事ですが、お坊さんを呼ばず、お経も上げず、ごく内輪(姉夫婦と次男夫婦、長男の嫁と孫と本人で7人)で会食をして思い出話をするという形式だそうです。

 先日、大江健三郎さんの「信仰の無い者の祈り」について触れた小説を読んだのですが、信仰の無い私は、実は「祈る」という事が出来ません。祈りの相手というのは当然神仏ですから、信仰を持たなければその行為は成り立たないのです。形骸化したポーズはかえって神仏に失礼のようにも思え気が進みません。

 夏は戦争に関わる慰霊祭が行われますし、毎年起こる自然災害や大きな事故現場には献花台が備えられ、そこで祈る人々の姿がテレビによって各家庭に送られてきます。頻繁に届く祈りの映像に、祈れない私はうしろめたいような気持ちにさえなって目をそらします。でも、なんか達う…。

 いつの頃からでしょう、何事にも祈りの場が設定され、ニュースとなり、放映されるようになったのは。復活した伝統芸能を思わせるように、あちこちで執り行われる祭礼もテレビは念入りに紹介してくれます。日本中で祈る国民のクローズアップ…。

 それが、どうも、何と言うのか、高めのトーンで「美しい日本」と呼ばわる声が画像の奥から聞こえて来るようで。

原 緑



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《葷酒…》

 畑の一隅に勝手に生える「ほうずき」ですが、求める人があるので一応気を遣って育てています。その実は要らないのですが、外側を真っ白なレース状の姿に変身させます。それを額に入れ、後ろにLEDの小さな灯りをつけると、なかなか素敵な飾り物になります。もちろん、作るのは専門家です。

 軽トラが止まってプップーとクラクションが鳴りました。お向かいの畑のYさんです。畑にいる時間の三分の一は通りかかった人を捕まえてはおしゃべりという御仁。「こんにちは。風邪が長引いてマスクをはずせないの」と挨拶。「だいたい風邪をひく人っちゅうのは、あれは食べないこれはダメと言う人が多いから、ほれ、野蒜もニンニクも嫌いなんて言ってないで…」と長話へのイントロが始まりました。

 実家ではニンニクを食べる習慣はありませんでしたので「代々、食べていません。葷酒山門にではないけれど、ニンニクの匂いが玄関をくぐったことはありませんでしたよ」というと「そのDNAが風邪に弱い体質を作っている」と。

 ニンニクは食べませんが、その子分のようならっきょうは毎年漬けます。昨年は手に入れそびれてYさんの畑のらっきょうを譲っていただきました。小粒でしたがけっこう上手にできたので、これに「U−mm我乍ら本舗」という手製のラベルを貼り、友人におすそ分けした次第です。今年は生協で早々に注文。2晩は塩漬け、そして3日目に甘酢に漬け込むという日程ですから、この3日間は家じゅうがらっきょう臭くなります。夜は窓も扉も少しずつ開けたままにして、明け方に閉めるという数日。朝の部屋の寒いこと。葷酒のせいで風邪は長引くのです。

 ちなみにラベルの「U−mm我乍ら本舗」のU−mmは「う〜む」と読みます。Yさんの奥さんが作っている日本ミツバチの蜂蜜のビンには「自画自賛本舗」というラベルが貼ってあります。

原 緑



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《電磁波》

 1週間も経てばワッと背丈を延ばす雑草を退治(!)するには、やはり手鎌ではなく動力を備えた草刈機のほうがはかどるのは言わずもがな。念願の私専用の草刈り機を買ってもらいました。

 ところが、この2サイクルでひもを引いてエンジンをかけるという、いわば「旧式」のスターターを御するのは至難の技で、何回も何回もひもを引き上げては失敗し、機械を使える状態にする迄に3〜40分を要しました。汗をかいて、くたくたになって、がっかりして、「もうこんな物、使うものか!」と半泣きになりながらなおトライし続け、やっとエンジンがかかって…。

 車はどのメーカーもキーレスエントリーという方法になり、ボタンを押すだけでエンジンはかかります。この方法をなぜ農業機器に採用しないのかと思うのです。農業人口の高齢化を見れば、商売としても成り立つではないですか。

 過日、キーをザックに入れたことを忘れたまま車のトランクルームに置き、目的地の駐車場で、あれ、こんなに離れた場所に置いてあったんだ、でもエンジンはかかるんだねと驚きました。そこで、同乗者と電磁波の話をしながら山に登った次第です。今や電磁波に取り囲まれている私たちに何の影響もないわけはないと。オウム真理教の事件で知らされた「ポア」という言葉も思い出しました。

 北欧などではもう何年も前から学校で子どもたちが使用するパソコンは部屋を指定してさらに有線とする、送電線の周囲150mの土地は電力会社が買い取って一般の使用に提供しない、家電のIH器具も消極的になっているなど、いろいろと対策が取られているそうです。

 日本でも今では電磁波アレルギーといえる症状が数多く認められ、医学界では問題提起がされているとか。自然破壊を無視して進められるリニア新幹線。自然だけではなく健康の面で、それが仕事という乗務員も大枚はたいて乗る乗客も、何とも怖い話です。

原 緑



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《観桜の宴》

 桜の便りが届くころ、こちらでは梅が咲き始めました。連日の天気予報で各地の花の様子がうきうきと伝えられ、いよいよ7分咲きといったあたりで、こちらの桜はやっと蕾が膨らみかけました。

 私が所属する小川山岳会では、昨年に引き続き、Mさん宅の見晴らし台となっている崖の上の庭で今年もこの日しか都合がつかないという一日、観桜の宴を催しました。

 宴会場は胴切りにした杉の丸太を人数分ならべて椅子とし、その中央にプラスチックのコンテナの上に適当な板を載せたテーブルを作って出来上がりです。夕方から天気が悪くなるというのに、昼間の日差しの強いこと。崖の上ゆえ風対策をと少々着込みすぎたのは災いで、所定の位置へと丸太を転がしては汗をかき、1枚また1枚と脱ぐ始末でした。

 水は天からもらい水という大きなタンクの水を使って野菜を洗いつつ、火を通すのだから大丈夫と、そこは山や、ワイルドです。そのタンクに「遊楽園」と墨書した額も掲げられました。

 お花見も「都合のついたこの日」ですので桜の都合は間に合わず、高台から代わり映えのしない村の景色を一瞥すると、花より団子で桜より鹿島槍と山に目が向いてしまうのは山やの悪いクセです。傾いた太陽が金色の雲の中に双耳峰の鹿島槍ヶ岳を浮き彫りにし、まるで“山のあなたの空遠く幸いすむ”の雰囲気にみんなで見とれておりました。

 宴は、冷えたビールを大きなピッチャーのコックをひねってジョッキに注ぐという、それが目玉で、あとはジンギスカンです。陽が沈み、眼下に町場の灯りが目立つ頃になると気温は下がり風も出てきました。どうやら天気は下り坂にかかったのでしょうか。今度はダルマストーブで薪を燃やして暖を取ります。

 何もかも吹き飛ばしそうな風と激しい雨の一夜が明けると、翌朝は穏やかな日差しが降りそそぎ、お昼頃には桜は3分咲き。村中が桜のピンクで染まるのも、もう秒読みです。

原 緑



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《三点支持》

 山に登る方はご存知の事と思いますが、三点支持という岩登りの基本技術があります。

 それは、手足の4点が岩をとらえた状態で、次の行動にはそのうちの1点だけを動かし、常に3つの点に手掛かりや足掛かりをしっかりと確保させて移動する、という方法です。動かさない3点を結んで出来る三角形の内側に重心を置くようにした態勢がもっとも安定する形、というわけです。

 最近、林の中からキツツキのドラミングの音が聞こえるようになりました。春ですね。繁殖期のサインだそうです。あわてて双眼鏡を目に当てたのですが、見つけることは出来ませんでした。幹に垂直にとまり、いそがしく隣で幹をつつくキツツキ。この嘴を打ち付ける激しい動作や、垂直に登る動きを、手を使わない彼らが2本の足だけでどうして支えることが出来るのだろうと、長い間不思議に思っていました。確かに足の爪はカシっと幹を掴んでいるのでしょうが、実は尻尾が強力な3点目として態勢を確保していることを図鑑で知りました。

 先日、庭に下りたホホジロが土の上の何かを一生懸命についばんでいました。落ちていた草の種でしょうか。そのうち、体をうんとそらせて、じ一っと空を見上げているではないですか。この朝の空は特別に青く、透き通るような光が濫れていました。人間もほれぼれと見上げていたい空でしたが、ホホジロは何を思って見上げていたのでしょう。その時に気づいたのです。ホホジロは両方の翼の先端を土の上に突くようにして立っていたのです。反り返るためのバランスを、翼の先を使って取っているのです。転ばぬ先の杖を連想させる姿に、「へえ〜、足と翼で4点確保!」と、感心するやらおかしいやら。うちには玄関、浴室、トイレに手摺が設置されています。転べば寝たきりと脅かされて不承不承「老人対策」を受け入れたのですが、今は使い慣れて無意識に三点支持で行動。事なきを得ています。

原 緑



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《テンポ》

 以前からテレビを見ない生活が続いています。それでも新聞のテレビ欄は繰り終わった順番で最後に目を通します。

 《相棒》という事件物が1日に2枠もあったり、インタビュー物が長者番組となって続いていたりするのに驚きながら、新しいドラマ《カルテット》が目を引きました。

 もう2、3年も前になるでしょうか、神業を隠し持つような風来坊的指揮者によって奇跡を起こす落ちこぼれ楽団の映画があり、またメッチャわけのわからない女子高生のブラスバンドの、さらに最近では思わせぶりな「オケ老人」という映画もできました。古くは失業中のトロンボーン奏者の娘が活躍する「オーケストラめ少女」を始め、イギリスの炭鉱労働者たちが作った楽団の「ブラス」など、貧しくつつましい、しかも身近な生活者たちが音楽を通して希望を見つけるという感動の映画はいくつもありました。

 いま、またなぜ?と思うのです。どうやら《カルテット》は、それぞれ音楽には似つかわしくない目的を持った4人がお互いを信じないまま組んだ、3人までが素人という弦楽四重奏団の話のようです。

 音楽には重要な要素としてテンポがあります。素人のアンサンブルはとにかく曲の全体像が見えるまでは大変ですが、やがて楽譜に記されたテンポに導かれて息があうようになります。そしてその結果、美しいものとの出会いがあるのですから、演奏は喜びのほかの何ものでもありません。

 音楽の営みが生きる力を確認することにつながる一そこに視聴者は共感するのでしょうか。たかがテレビ欄されど、で、大げさのようですが人間の歴史に音楽が必要だったという意味を改めて考えるヒントになりました。

 音楽の営みが生きる力を確認することにつながる一そこに視聴者は共感するのでしょうか。たかがテレビ欄されど、で、大げさのようですが人間の歴史に音楽が必要だったという意味を改めて考えるヒントになりました。

 それ故に軍靴のテンポの意味するものに慄然とし、それ故に、苦しさが先行して読めないでいる『強制収容所のバイオリニスト』という本があります。アウシュビッツの収容所で、仲間を労働へ送り出す軽快なマーチを演奏したバイ才リンニストの回想録です。

原 緑



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《まめったくなえ》

 今年の元日はうるう秒を挿入して1年の時間を例年より1秒分、長くしたそうです。この1秒を平和である時間が長くなったと喜ぶべきか、被難の時間が長くなったと悲しむべきか、年頭にそんな世界情勢を思わざるを得ませんでした。

 誰でも、特に、年が改たまる時にはこの1年を「つつがなく」過ごしたいと思います。正月にはそのような気持ちをお料理にも込められていることはご存知の通りです。

 善光寺平の西側にある小川村は近隣の村々とともに西山地区と呼ばれ、豆の生産に適しているそうです。特に大豆は「西山大豆」と言われ、村を挙げて作っています。

 うちでも自家製の黒豆(黒大豆)を、お節料理に加えています。黒豆はマメに働き、マメに暮らせるようにという思いが込められています。こちらの方言に「まめったい」という言葉があります。それは「まめである」という意味ですが、年の瀬には「来年もまめったくなえ」といった挨拶が聞かれました。来年もつつがなく過ごしてね、ということです。

 ところでこの数年、豆の収穫時期に雨の日が続くようになりました。からっとした日が戻って畑に行ってみれば、豆は虫に食われて無残な姿になっています。そんな豆でも収穫・脱穀をして食べられるものを選別します。少しずつ菓子箱のふたに取っては豆とにらめっこをしながらダメマメを取り除きます。結果的に捨てる豆の多いこと。大豆、黒豆、小豆、白インゲン、花豆と、それぞれの全体量は少なくても毎日毎晩飽きるほど続きました。

 昨年は村の政策により無料で配布されたナカセンナリという大豆を蒔きました。その大豆で今年は自家製のお醤油を作ろうと思っています。けっこう大掛かりなうえ長期間を要する作業となることが予想され、実は説明を聞いただけで既にひるんでもいるのですが。
 ともあれ初挑戦、まめったく行きたいものです。

原 緑



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《氷河を見に》

 「氷河を見に行ってきました」と言うと、ヒマラヤですかと聞かれそうですね。実は長野県、それもトトロの耳のような双耳峰が家から見える鹿島槍ヶ岳で見つかった氷河です。

 長い間、日本には氷河はないとされていましたが、富山県立山カルデラ砂防博物館による立山連峰の近年の氷河確認調査が行われ、2012年には富山県の立山で御前沢氷河、剣岳では三ノ窓氷河と小窓氷河が現役の氷河として確認されました。

 さらに一昨年は、長野県の鹿島槍ヶ岳のカクネ里雪渓を埋める万年雪の下に厚さが33m以上で長さは700mに及ぶ氷体がある事が分かりました。氷河の特徴であるクレバスも、水が落ち込むムーランという穴もあります。最も肝心な流動観測は積雪を貫通して氷体に達する穴をあけ、そこに5mほどのポールを埋め込み、高精度のGPSで動きの有無を測定。流動量は年間2.5mと突き止めました。その他、積年の調査結果を照らし合わせて、今年、この氷の層は現役の氷河であることが確認されたのです。

 白馬五竜スキー場のゴンドラでアルプス平に上り、積雪5pの道を地蔵の頭・一ノ瀬髪・ニノ瀬髪へ、さらに小遠見山まで2時間歩きました。ここで鹿島槍ヶ岳の北峰が垂直の北壁をこちらに向けて聳えているのを目の前に見ながら講義を受けました。詳しり説明をされたのは、カクネ里雪渓(氷河)学術読査団の飯田肇さん。立山カルデラ砂防博物館の学芸課長です。

 「カクネ里の他にも氷河がありそうだと思われる場所がこの近くにあるのですが、スポンサーが見つからないので…」と、さらなる氷河発見の期待と調査の困難さもポツリ。

 飯田さん、政府が提供する「軍学共同研究」に乗せられないでくださいね。この貴重で楽しい体験は、北アルプス山岳ガイド協会主催の【鹿島槍ヶ岳カクネ里氷河探訪ツアー】に応募して得たものです。

原 緑



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《実りの秋》

 今月から小川村産の新米を食べています。ぷりぷりしていてつやつやで、おいしい!といっても、稲作をしているわけではありません。実はほんの数日、稲刈りと脱穀の時だけお手伝いをして、お米をゲットしています。

 今年は稲が穂を垂れたころに次々と台風がやってきて、本当によく雨が降りました。せっかく実ったのに刈り取るチャンスが得られません。待って、待って、どうやら2日ほど晴天という天気予報。1日目は稲を乾かし2日目に一気に刈ると、田んぼのオーナーから電話がありました。

 助っ人は私たち夫婦のほかに、80歳を超えているご近所の女性、70歳代半ばのオーナーの義弟。高齢者だけです。とにかくこの5人で、休む間も惜しんで日が暮れる寸前まで頑張って刈り終えました。刈った稲はハサにかけて自然乾燥をします。

 ところが翌日からまた容赦ない雨。稲は乾くどころか濡れそぼっています。それでも大丈夫、大丈夫と言い聞かせて待ち、また2日ほどの貴重な晴れ予報。今度は脱穀です。

 田んぼに残る雨氷に足をとられる状況でしたが、ハサにかけた稲のそばに脱穀機を移動させつつ、手際よく脱穀をしてゆきました。籾は自動的に袋に入りますが、一杯になると水気を貰わないように田んぼに積んだ藁束のベッドに「よいしょ」と人力で置きます。1袋の重さは約30〜34キロ。運搬車であちこちに置かれた袋を集めて軽トラに載せ、オ一ナーの自宅に運んで倉庫に収容します。

 「なんとか終わって良かったね」と、ねぎらう頃には日が暮れていました。

 それからまたずっと雨の白が続きました。

 秋祭りが終わったというのに、まだハサにかけられたままの稲を目にします。

 今年、日本全国で台風による農産物の被害は半端ではありませんでした。食料自給率も考えずにTPP批准を急ぐ政府。農業を他国に依存して良しとする愚かさ。車と原発が売れればということ? で、誰が幸せになるの?

原 緑



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《フェイスブック》

 フェイスブックに参加してくれれば、連絡が一発で終わるんだけれどな〜、と言われました。フェイスブックなど、生活には全く必要がないのですが、お手数をかけさせているのであれば申し訳ないからと、思い切って最先端の世界へ乗り込もうとしたのです。

 ところが、本人確認のために携帯電話の番号が必要だというではありませんか。携帯電話を持っていない私としては、何とかそれをしないで次に進みたいのですが、どうしてもダメなのです。

 ネットを見ると同じような問題で質問をしている人が結構いたのですが、これと言った解決策に行き当たりません。や〜めた、とパソコンを閉じました。完了しないで閉じると2〜3日もしたら形跡はなくなるものと思っていたのですが、翌日パソコンを立てると「アカウントの認証をして完了させてください」というフェイスブックからのメールがありました。しかも、完了していないはずなのに3人の人から「お友だちに…」というメールも入っていたのです。

 驚きつつ、最後の砦!と、PCレスキューの「さすりや塾」塾長さんにSOS。さっそく拡張機能を使った解決策を教えていただきました。でも、不安なんですよね、とかくパソコンをあれこれと操作するのって。そこで若い人の応援を得て再度トライしてみたのですが…応援に来てくれた彼女いわく「この黒メガネのサイト、開けたくないです」。

 結局、フェイスブックは使わないことにして、私一人のためにお手数をおかけ願うことにしました。

 今や携帯電話(今はそう言わない?)を持たない人は「文明」に受け入れられないということが分かりました。いわゆる“ガラパゴス”です。

 このすったもんだの最中に野田知祐さんの本を読んでいたのですが、文明を後戻りするようなカヌーでの川下りの月日って、とても魅力的ですけれどねえ。

(原 緑)



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《住めない…》

 栃木県那須町にある小さな家が、5年前の東日本大震災で事故を起こした東電の福島第1原子力発電所から放出された放射能のホットスポットとなったことは、以前にもこのコラムで触れました。町役場では各所にモニタリングポストを設置して毎週セシウムの線量を公表し、除染も終えて2年が経ちました。

 線量は毎年一桁くらいずつ下がり続けていましたが、このところ0.09マイクロシーベルトにまで下がったので、ちょっと様子を見に出かけてきました。ちょっと、と言っても上信越道→関越道→北関東道→東北道と乗り継いでの道中です。便利と言えば便利になったものですが…。

 さて、現地では車を道の舗装されている部分に止めて、廃棄しても良い仕事着に着替えて長靴を履き、マスクとゴム手袋と、一応の身支度をして、まずは舗装道路で線量の計測です。0.149。

 そこから建物まで10mほどの未舗装の道を、通る部分だけ雑草を刈りはらいながら移動して途中の草の上で計ると0.391。モニタリングポストの値とは違うだろうとは予想していましたが、これほどとは!

 さらに値は庭の南側で0.427を示し、東側で0.412。玄関の内側は少しばかりの期待を持って測ったのですが0.204。これで住むのは…たとえ季節の一時的な滞在でも、利用することは考えられません。

 長居は無用と引き返しましたが、定年退職後に洒落た家を新築して定住された2軒のお宅は雨戸が閉められて長期不在の様子でしたし、戦後の入植以来、酪農を続けてこられたお宅の牛舎には牛の姿はありませんでした。別荘地と銘打って開発されて40年、実際に家を建てた人は少なく、周辺は初めから投機目当で放置されたままでしたが、道路も宅地もほとんど朽ち果てた森という感じの荒み様で、1区画は廃車捨て場となっていました。

 避難解除となった福島県の町村の実態を思うと、暗澹たる気持ちです。


(原 緑)



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《スタンディング》

 東京では国会の前で若者たちがボードをかかげて「戦争はしない!」と毎週、行動をしているようですが、NHKのニュースではほとんど伝わってきません。この小さな村ではなおさらのこと、世の中で今何が起こっているのかが見えにくいのです。

 ところで、この小川村でもいわゆる「スタンディング」という意思表示をする人たちがいるのです。県外からの転入者、つまりIターンと言われる女性が、手書きのボードを持って10分間だけ立ちましょう、と何人かに呼びかけて、「道の駅」の駐車場の県道に沿う歩道に立っています。彼女は慣れない農業の合間に手書きのチラシを作り、自分でコピーをし、賛同してくれそうな人に手渡しながら一緒に立ちませんかと声をかけていました。

p> スタンディングというのは無言でただ紙を持って立つものと思い込んでいた私、なんとなくバツの悪い感じがして参加をしておりませんでした。先日、「暑くなってきたし、立つ人も減って、めげそう…」という彼女の言葉を聞いてしまい、やっぱり私も立たなければと思いました。ただし無言でつくねんと、というスタイルには抵抗があり、音を出してもいい?と確かめて、ボードに文字の訴えという形に代えて、フルートで音楽の訴えという形にさせてもらいました。そしてスタンディングにデヴュー。

 初回は米大統領オバマさんの広島訪問、というニュースに合わせて「ヒロシマのある国で」という曲を選びました。そして残り時間のためにもう1曲、「島の歌」。長野一白馬を結ぶ県道31号を行き交う車にたった10分間のスタンディングが目に留まったでしょうか。それでもちょうど歩いて通りかかったこの村唯一のタクシー会社の運転手さんが、横断幕を持って立っている二人に話しかけて下さいました。

 来月は「死んだ男の残したものは」を予定しています。ハイドンやモーツァルトとは違うこのような楽譜、手に入れるのが難しそう。
(原 緑)



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《民話の灯》

 昔々、あるところに… 小さいころに誰もが聞いた昔ばなしは、心地良いものでした。あの「まんが日本音ばなし」の市原悦子さんの個性的な語りを覚えている方も多いのではないでしょうか。もう、ずいぶんと前になりますが、一大ブームを起こしました。

 テレビや漫画は別として、「民話」はいくつもの出版社から本当に良い絵本となって、実にたくさん出版されました。私は子育ての時期に、子どもと一緒にその民話の絵本に見入ったものです。

 民話といえば聞き取り・再話・出版といった大きな仕事をされた松谷みよ子さんが思い浮かびますし、児童文学の分野で活躍した斎藤隆介さんの一連の民話風ものがたりや、木下順二さんの日本を代表するオペラとなった「夕鶴」なども思い浮かびます。

 その作家たちも、次々と亡くなってしまいました。昨年の2月に松谷みよ子さんの訃報で気づけば、この分野で後に続いて活躍している作家も作品もありませんでした。

 ところで、その“どん尻に控えて”いた創作民話界の巨匠、あるいは重鎮といわれ、「無睾の民衆を前提とする創作民話と対峙して、誤りも犯せば条理にも反する等身大の」エネルギッシュな民衆像を描いていた作家、さねとう・あきらさんをご存知でしょうか。

 氏は所沢市にお住まいて教育委員をされましたが、その後狭山市に転居されました。私は公私共に大変お世話になりました。今年預いた年賀状には「昨年、松谷みよ子先生を失ってから、創作民話界もずいぶん寂しくなりました。結果として私がアンカーマンとなってしまいましたが、現場に戻りましたら、創作民話の充実に力を尽くし、その職責を全うしたいと考えております」とありました。そのアノカーマン、さねとうさんは昨年来体調を崩し、この3月に亡くなられました。

 対「神話」という視点で「民の話」を書いた作家たちの、仕事の灯を消してしまってはならないのです

(原 緑)



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《バツ印》

 3月はいろいろなことが変わる季節です。雑木林では、茶色のカサカサの幹の思わぬところで、伸びるタイミングを待っている小さな新しい芽が目につくようになりました。人間の社会では一般的に年度末で、部署や人事の交代があります。放送の番組交代も大きな問題を含みながら、各社で足並みをそろえて準備がなされているようです。

 過日、学士会の新しい代議員の候補者一覧を見ていた夫が「お、籾井だ。籾井がいるぞ、×をつけなきゃ」と騒いでおりました。

 とうとう学士会にまで乗り込んで“正しい判断をする学者の世界”に安倍路線を敷こうというのでしょうか。たしかにルールに則った立候補で、これもヒトラーもどきのやり方なのかと気分の悪いこと。

 「あいつ何処を出たんだろう?ふう〜ん、九大の経済か」、「学士会の人というのは教養があるのでしょ。まさか彼に投票する人がいるとは思えないけれど。なんせ、良識を覆す騒ぎで新聞をにぎわせたし」、「そんなことはないぜ」

 専門馬鹿(失礼!)という言葉もあるように、自分の研究以外のことは知る必要がないと思っている学者先生もいるのでしょうか。

 「番号を間違えないようにね」「他の候補者の冤罪になったらまずいからな」などと冗談をかわしながら、黒いボールペンで丁寧に×印を書きました。

 ところが、その後で「あ!」と落ちが付いたのです。該当する選挙区以外の人に印をつけた場合は無効です、と書かれてあるではないですか。籾井氏の判断は九州大学を出た人のみに与えられた権利だったのです。

 修正液の出番かと思いきや「いい、このままで。意思表示だ。他の候補者で×をつけなくてはならない様な人もなさそうだから、無効でもとにかく籾井には×」と一件落着。

 野次馬根性ではありますが、結果を知りたいと思います。
(原 緑)



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《鬼やらい》

 雪が降り止み、日中の気温が高くなると屋根に残っていた雪がすさまじい音とともに落ちて、家の周りは雪で垣根ができたようになります。夜になって皓々と月がさえわたると気温はとても低くなり、雪垣根に阻まれて空気が動かないのか、翌朝は壁に霜が張り付いています。

 「この窓からしか私は、世界を見たことがないの」という歌詞がありますが、私も朝食の時に自分の席から東の世界を見るのには小さな窓が一つあるばかりです。その窓に白いもやもやしたものが…。煙? あわててドアを開けて窓の下を点検したのですが煙の原因となるものはありません。でも、白いものは現れたり消えたりしています。よく見ると壁にできた倉庫の影が太陽の位置を証明するかのように移動しながら、日の当たった部分の霜を溶かしているのです。そこから水蒸気が立ち上っていました。これは寺田虎彦の「茶碗の湯」に外ならないと、膝を打ちながら老いてなお学ぶ楽しさを感じた次第です。

 ところで2月に入るとすぐに立春。そして立春といえば宮沢賢治の優しい雪童子のお話、「水仙月の四日」を思い出します。我が家ではこの季節に、恒例の鬼やらいのお飾りというものをします。

 沖縄のミンサー織りの赤い小さな敷物に、三春のデコ屋敷で見つけた張り子の赤鬼の顔(見ると笑いたくなるような、底抜けに人の良い笑顔なのです)と、どこで手に入れたのか全く記憶がないのですが、珍しく筒状をした赤鬼の土鈴。そこに、鎌倉の瑞泉寺で手に入れた水仙の花の浮き出た素朴な土鈴も添えます。今年は藤原絢子さんの布絵の「干物」を背景に置いて雰囲気を出しました。世間一般で行われるヒイラギで刺した「鰯の頭」より、仕上がりはずっと上品…と自画自賛。

 用いた「布絵」は以前、会で作った絵ハガキの中の一枚です。御入用の方はご一報を!
(原 緑)



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《新しい村で》

 1月4日の深夜、澄み渡った北の空から音もなく、一つの星がオリオンの帯のあたりへと流れて消えてゆきました。今日がピークと言われていた「しぶんぎ座」の流星だったのでしょう。とにかく、星のきれいな村です。

 申し遅れましたが、10年近く行ったり来たりの生活を続けていた長野県の小川村へ、昨年末に転居しました。2016年の新しい年は、この新しい土地で迎えたのです。

 この村は平成の大合併では独立派の村長を選び、長野市への吸収を退けて「村」を貫いています。「にほんの里100選」にも選ばれ、昔ながらの養蚕家屋と棚田の連なる風景が残されている、もしかしたら取り残された地域と言われ兼ねない村、かもしれません。

 人口は3000人を下回り、言わずもがなで、高齢者はごく普通に現役で活躍しています。どこへ行くのも坂を上り下るという山村で、基本産業は農業。長野市の善光寺を中心にして西側にある地域を西山地域と言い、大豆が良く採れるので有名ですが、小川村も「昧大豆(あじまめ)」という地名があるほどで、昔から大豆の産地です。素人農家の私たちもビールのおつまみ用の枝豆やお正月用の黒豆、花豆、白いんげんに小豆と、豆は自給自足で楽しんでいます。

 村では、若い人向けの村営住宅や手の入れられない林を宅地として整備するなど、外部からの人の誘致に余念がありません。

 こんな小さな村にも、驚くなかれ、大日方悦夫氏(松代大本営の保存をすすめる会)のお話を聞く会があれば、水道工事やさんが「夜はお酒を飲まない」理由として、若月先生(元佐久総合病院長)の「どんな往診も断らない」という一言に、高齢者の村で緊急の対応をできるよう自らを重ねているという、文化的一面を垣間見ることが出来ます。

 何よりも毎月1度、「道の駅」で10分間、戦争法は認めませんと手作りカードをかかげてスタンディンクで訴える人たちがいます。
(原 緑)



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《うわぁ、虫が》

 たまたま取りだした紙袋の底に、ひからびた小さな虫がばらばらと落ちていました。あたりに目をやると、この紙袋を置いてあった部屋の隅に、同じようにひからびた虫が点々と散らばっています。この見覚えのある虫はにっくき小豆ゾウムシに違いありません。紙袋の中の小豆を入れておいたビニール製保存袋を恐る恐る取り出してみると、あの小さな小豆に、ひどいものでは二つも三つもの穴があけられ、小豆の間にはまだ生きて動いているのやもう死んで動かないものや、とにかく、もう、虫が一杯!

 「うわあ…」目にした時のショックはかなり強烈でした。しかもけっこう分厚いビニール袋なのに、あちこちには豆にあいた穴と同じような円形の穴があけられ、夏の暑さで息絶え絶えの連中が、新鮮な空気を吸うためにやっとの思いで潜り抜けたのかと思わせるありさまでした。

 このアズキゾウムシはとても繁殖力が旺盛で、一粒の小豆の中で世代交代までするということです。異常発生と受け止めたのはこちらの取り方で、虫にしてみればごく正常に生きていたのかもしれません。

 これは夏の話。今また、新たに豆類を収穫する時期が来ました。中でも黒豆の枝豆の美味しいこと。乾燥させる前の黒豆です。採れたての豆は短時間で苑で上がるし、豆そのもののふくよかな甘みもあって、ビールに欠かせません。でも、すぐにお腹がいっばいになってしまうので困ります。

 ところで、無農薬で野菜を作るということはこのような虫の害はさけられず、商品としてのリスクを背負い込むことになります。こだわって頑張っている生産者は、農薬を散布する畑より何倍もの労力を要しますが、もちろん彼らの人件費はどこからも出できません。生産物の価格そのものだけしか要求できない農業にTPPは…などと、頭の中には雑多な思いが解決策を見いだせずに駆け巡ります。

(原 緑)



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《草もみじ》

 上信越道を走りながら、いつもの悪い癖で90キロのスピードが出ているにもかかわらず、右へ左へと過ぎ去る景色をきょろきょろと眺めて楽しんでおりました。

 下仁田町に入ると左側に「肉まん山」、その右隣にチョキの二本の指先をねじった様な岩峰が目に入ります。肉まん山というのは私が勝手に名付けました。ふっくらとした低い山で、ちょうど横から見た肉まんのように絞られた形の三つのピークが山頂を形作っているからです。

 そしてすぐに真っ平らな荒船山が見えてきます。経塚山という少し高くなった部分から艫岩といわれる断崖絶壁の縁までは本当に平らな甲板のような形をしています。

 ここを過ぎると日本三大奇景の一つ、妙義山のあの独特なギザギザの山。この日はすっかり霞がかかって鋭さはありません。やがて、右側に浅間山。ここも雲が低くたれて山頂を覆い、煙の筋も見えません。それでも、ほとんど真横を通過する場所からは山腹が色づいていることが分かりました。

 そう言えば昨年のこの時期、ちょうどこの辺りで見た浅間山は言葉にできないほど素晴らしい草もみじの最中でした。雲間から降る陽の光を浴びたところの色とりどりの鮮やかな色彩と、雲が光を消したところのくすんだ色彩のコントラストは絵のようでした。どこかに車を止めて写真を撮りたいと思ったのですが、高速道路ではそれもかないません。

 ところで、私は1年に1度、山口地区文化祭で一般募集をするその時にあわせて俳句を作ります。指を折りながら作る言わずもがなの内容ですが、今年の季語に「草もみじ」というのがありました。すぐに頭に浮かんだのは、数年前に北アルプスの立山から五色ヶ原へ行く途中、一の越という峠を越えたときに眼前に開けた景色でした。

《乗っ越せば一幅の絵の草もみじ》

(原 緑)



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《ついに来たか!》

 「俺、絶句。言葉が無かったね。これだ、ついに来たかって」そんな話に大笑いをしました。

 話というのはこうです。彼はこの数週間というもの、いくつか抱えている結構面倒な仕事を同時進行で処理しなければならず、ずいぶんと切羽詰って過ごしていたそうです。その日も朝からばたばたと追われ、それでも「どうやら目途がついた、午後にはもう終えられる」と思ったときに、その流れの勢いで「おい、昼飯はどうする」と奥さんに聞いたそうです。すると「あら、お父さん、お昼はさっき食べました」という返事。そこで絶句、「ついに来たか!」です。

 済ませた食事の事を忘れる、ということはいわゆるボケの第一歩として良く知られています。古いことは覚えていても新しい情報は忘れてしまうということも、ほとんどの人は知識として受け止めています。そして他人事のうちは笑ってその場が収まります。

 その話を聞いた数日後、なんと私は友人との待ち合わせの日を間違えたのです。決められた時間に決められた場所で友人の車を待つこと15分。携帯電話を持たない私はそのままもう少し待ちました。待ちながらふと、あれ、今日は何日だったかしらと疑問符が頭の中で点滅したのです。そういえば今日はゴミ出しを気にしなくてもよい日、…ということは水曜日。金曜日には先約があるのでと決めた日程は、…そう木曜日でした。急いで家に戻りカレンダーを確認すると約束の前日ではないですか。ああ、ついに来たか!

 確かにいろいろな用件が目いっぱいの毎日の隙間に、取り急ぎ組み込んだ新たな約束ではありました。朝からその気で外出用の服を着て、待ち合わせの場所に出向いたその“てっきり”という確信的な思い込み。こうして老いの混乱は音もなく近づいてくるのかなあ。

 私もか、と目の前は一瞬暗くなりましたが、一つ学んだと思うことにしましょう。
(原 緑)



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《Bouchon》

 Bouchon(ブション)というのはコルクで出来ているワインの壜の栓のことです。

 「はなのすきな牛」という子どもの本をご存知でしょうか。めっぽう体格の良い牛の《ふえるじなんど》は体に似合わず、コルク樫の木の下で花の香りをかいでいるのが好きな牛でした。私はこの絵の頁がとても好きです。でも、そこは絵本、実際にはこの絵のようにブションが木の枝に鈴なりに生っているわけではありません。

 ところでそのブションですが、ひとつひとつに製造場所や何年に作られたかといった情報が印字されています。例えば、これはMEDOC2008 Mis en Blle au Chateau VIGNOBRE POITEVINでしょうか。或はMis en Bouteille dans nos Cave、また、文字は何も書かれずに5本の矢のたばねられたところに素敵なRのデザイン文字が書いてあったり、ぶどうの葉と実と蔓の絵だけだったりというのもありますね。

 “ありますね”と言ったのは、今、見ているからです。コレクションするほど希少価値を求めている訳ではありませんし、いずれまた手に入るものなので捨てればよいのに、この雰囲気が既にバラードなんですよね。行ったことも見たこともない産地のはちみつ色の夕暮れ時、淡い光の中の田園風景なども頭に浮かんできたりして…。

 また、お酒売り場を通り過ぎる時には、その壜に貼られているラベルのデザインを見て歩きます。ワインやウィスキーに限らず日本酒でも焼酎でも、それらは如実にお酒の「人格」を語っていると思えるのです。

 最近はブションの代わりに金属製の蓋が着いていたり、ラベルも実に簡素なデザインになっていたりして、ワイン造りの手塩にかけた仕事の痕跡さえも見失われがちです。飲み終わったら捨てられてしまうような物に力を注ぐのは経済的効率が悪いと、昧はともかく、素っ気は無しということですか。
(原 緑)



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木洩れ日

 ミシュランが三ツ星観光地に指定したことで、まるで銀座の歩行者天国のような高尾山ですが、その人出を嫌って静かな道を歩きたいのならとNHKが紹介した裏高尾は、今や中高年の登山者で賑わっています。

 高尾山(599m/東京都)は、古くから修験の山としての歴史を持ち、その“千年の森”には独特な植生も多く数えられる貴重な山です。周辺道路の渋滞緩和を図るために、その山に圏央道を通すことで起こされた天狗裁判には全国が注目しました。

 過日、友人に誘われて「静かな」と言われるコースの裏高尾を歩いてきました。日陰沢という名の通り、直射日光を程よくさえぎる道から入り、ずっと木洩れ日の道をたどりました。一休みをした時に、ふと足もとの黒い土の上に太陽の輪がいくつも描かれているのが目に入りました。まあるい光がステンドグラスの模様のように置かれています。見上げれば、爽やかな風に揺れる緑の葉の間に澄み切った空が透けて…。ここも東京。いっとき、日常から切り離されるためにと、訪れる人が多い訳も分かりました。

 木洩れ日は、地面に出来る光の形が太陽と同じ丸い形をしています。どんなに入り組んだ枝と枝の間をすり抜けて降ってきても、その葉が作る隙間の形にはなりません。部分日食のときには欠けた太陽そのままの形だったり三日月の形が地面に映し出されます。なんだか不思議ですね。

 この「木洩れ日」という言葉には、文字で見ても音を聞いても、居心地の良い椅子に深く収まったような心地よさを覚えます。外国語辞典でこの言葉を引いた記憶が無いような気がしたのですが、森の多い日本の文化が生んだ言葉なのでしょうか。

 こんなことを気にした人は他にもいて、ネットには外国語で該当する表現の一覧を載せているプログがありました。さすがに森林圏の北欧には単語そのものがあるようです。
(原 緑)



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墓地訪問

 ある人のお墓を案内していただくために、北野にお住まいのKさんを訪ねました。

 築150年は超えたと思われる養蚕農家の“サロン”はいまだに土間のままで、周囲には繭で作ったシルクフラワー、わら細工の羊、真っ赤な鷹の爪を縄に編み込んだ魔除け、どんぐりのトトロ等々、どれ一つとっても目を瞠る作品がところ狭しと飾られています。

 見上げるほど高い梁の下の垂れ壁には書や絵などの額が、これもずらりとかかっています。その中の一つ、油絵をじっと見ていたら「それ、玄洋さんの桜島」ということでした。

 高橋玄洋さんは、この桜島を見ながら戦争末期の絶望的な日々を特攻隊の基地で過ごされたという、特別な思いのある山だそうです。梅崎春生の『桜島』に描かれた敗戦直前の死の覚悟と生への執着、たぶん玄洋さんも同じような思いで生きていたのでしょう。

 では、お墓に、と言われて表に出ると、なんと納屋の中からこちらを見ている馬がいたのです。鉄骨で骨組みをして、肉体の部分は全て稲わらを編んだり組んだりして精巧に作られた等身大の馬。しっかりと立つ姿の“馬らしさ”はさることながら、眼差しはものを言うかのようで、つい、たてがみをなでて話しかけてしまいました。「ちゃんと寸法を取って作ったのよ、乗ってみる?」残念ながら、この日はスカートをはいていたのです。

 これも鎌倉道の一つだったという細い坂道を上りながら、お墓まで5分もかからない距離の間に、この辺りに山の神山エイカン寺というお寺があってとか、板碑がたくさん出たとか、はてはリヤカーで棺を運んだ葬列の話を身振り手振りで。同じK姓の一族の共同墓地というそこには、入り口に回ると遠いからと石囲いの隙間から入って行きました。北側に遮るものはなく、遥かに上州の山々。墓地からの眺めはとても贅沢でした。
(原 緑)



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薬草料理

 和田はつ子の『藩医 宮坂涼庵』という小説を、ずいぶん前に読んだ。「救荒草木図」という章で、どこにでもあるような雑草が食べられることを知った。それ以来、目にする雑草に興味を持っている。

 最近、小岱山薬草の会が発行している「薬草料理レシピ読本」という冊子を貰った。それには薬草の効能と38の料理が紹介されている。

 効能は、【クズ】血流促進・血糖値低下、【タラの芽】喘息・血糖値低下、【ウコギ】血糖値低下、【タンポポ】健胃・整腸、【ノビル】強壮、【メナモミ】高血圧、【イノコズチ】血液浄化・リュウマチ・関節痛・利尿、【ヤブカンゾウ】利尿・腫物、【ベニバナボロギク】胃腸の働きを促進、等々。

 料理は、簡単そうで酒のつまみに好評というのがタンポポのベーコン巻。タンポポの葉っぱ2枚ほどを、スライスしたベーコンにぐるぐると巻いて楊枝で止め、強火のフライパンで焼き、塩・コショウで味を調える。イノコズチの天ぷらというのも簡単そうだ。洗って水気を振り落した葉に薄力粉を薄くまぶして揚げる。みじん切りにした生のハコベをすり鉢ですってペースト状にし、塩を加え、電子レンジで水分を飛ばして天日乾燥させて“ハコベ塩”を作っておき、これを振りかけて食べれば高級料理屋の一品と言えようか。ナズナのお浸しはもっと簡単で、それこそ湯がいて鰹節にお醤油、だそうだ。

 ところで、タンポポの葉は誰にでも見つけられると思うが、イノコズチは御存じだろうか。秋になると穂先に付けた逆針のとげがズボンや袖にくっついてなかなか取れない、あれである。ナズナはぺんぺん草。

 いずれも春先の葉を利用するのでこれからが薬草料理のシーズン。願わくは排気ガスを浴びていない葉を摘みたいものだ。
(2015.2.3 原 緑)



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マエストロ

 コーヒーブレイク連載の初めに、父に買ってもらったバイオリンについて書いた。結局、私のものというより父が楽しむための楽器になったのだが、死後、それもかなり経ってから、やはり私が預かるのが順当だろうと所沢に持って来た。その後日談である。

 持ち帰ったバイオリンはそのまま押し入れの奥にしまわれた。ふと思い立ってケースを取り出してみたときには、蝶番が錆びついて蓋を開けるのに一苦労するほどだった。弓を取り出したら、とたんにバサッと一気に毛が落ちた。弓は毛を張り替えて使うということすら知らなかったので、ケースも弓も「破砕ゴミ」に出してしまった。

 バイオリンを弾く友人がいる。父の手を離れてから20年近いこのバイオリンを、かなうことなら音の出る楽器に戻したいと話をしたら、工房を紹介された。

 工房は高田馬場。修業を積んだイタリアには今でも毎年出かけて腕を磨いているマエストロは、中村幹雄さんという。まずは弓を買わねばならない。「この年齢でご趣味として」の範疇ならこの程度の弓で十分と、6000円の弓を4000円にしてくれた。それからバイオリンをためつすがめつして作業に入った。この駒は…、このニスは…、この調整ネジは…、この弦は…と、本来のバイオリンの正しい状態がどういうものであるかを説明してくれながら、最後に「他の人が取り替えて不要となったものですが」と顎当てを取り付けてくれた。それからマエストロは慣れた手つきで新しい弓に松脂を塗って調弦をしたのだが、弾きこまれた楽器のように良い響きだった。

 マエストロの魔法の手でよみがえったバイオリン、2時間に及ぶメンテナンスなのに、新しい弓と松脂の代金だけしか求められなかった。
(2015.1.17 M・O)



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デンドロビウム


 今年の初め、久しぶりに会った友人からデンドロビウムの小さな鉢をいただいた。エンジェル・ベイビー《グリーン・愛》という名前を付けられた花は3センチくらいの小ささで、萼と花の中央部の緑色が花全体を少しだけ緑色の勝った純白にみせて、清楚である。通り過ぎた時などにふと香るのも、遠慮がちな甘い香りで好もしい。

 植物の管理は苦手だが、一応昼間はカーテン越しに、夜は冷え過ぎない高さの棚の上に置いてみた。それが功を奏したのかもともと勢いがあったのか、日に日に花の数が増して鉢は花に埋もれた。

 やがて花の時期も終わった。十二分に楽しんだのに、ここで欲が出た。こんなにたくさん花をつけるのだから株分けをして鉢の数を増やしたらと、昔ばなしの欲張り爺さんよろしく、NHKの「趣味の園芸」という古い雑誌を頼りに4つの鉢に分けてみた。夏場の暑さと乾燥の対策はそれでも何とかできたかなと思ったが、急な温度の変化には悩まされた。

 今、鉢の中に頼りなげに納まったデンドロビウムは、たった一つ、花を咲かせてくれている。どうやら株が幼くて、まだ分けてはいけなかったようだ。何とか世話をして行くつもりだが、来年の春は咲いてくれるだろうか。
(M・O)



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オリジナル・カレンダー


 所沢市の公民館では毎年秋に文化祭という行事がある。今年、まだ結成後1年を経ないパソコン学習サークルの一員として参加した。どのようなことかといえば、パソコンを駆使してメンバーそれぞれがオリジナルのカレンダーを作って展示するというものだ。インターネットで無料ソフトを検索し、気に入ったものをダウンロードして自分の考えた形に加工して作り直すというパソコン術である。

 講師はパソコンを使えば実に簡単と言っていたが、パソコンを「駆使」するという字には「苦使」と当てたくなる作業だった。画面を見つめながらどこをどうすれば何がどうなるのかと微妙な調整をし続け、目も腕も疲れた挙句に思う結果は得られず、気力が萎えてしまう。失敗を繰り返しながらなんとか12枚を作り終えるのに2か月も要した。

 ダウンロードという体験をすることに意味があると考えて試みたが、どうも他人の作ったモデルを拝借して作るより、はじめから自分の思い通りに作ったほうが簡単ではないかと、2作目を作ってみた。こちらはエクセルで1年分の日にちを表にするためにパソコンを利用したが、あとは工作とでもいおうか、思い出の山行の写真を持ち出して切ったり貼ったりして【山に遊んだ日々】という卓上カレンダーが出来上がった。100円ショップで見つけた木製のおもちゃのイーゼルを購入して作品を載せてみると、うん、行ける行ける。

 文化祭では「野の花」「所沢の風景」「羊のイラスト」といった写真やイラストをメインとしたもの、3か月を1枚で見る家族スケジュール・カレンダー、2か月ごとのハガキ大の卓上カレンダー等、メンバーの力作が出そろった。 “ご自由にお持ちください”としたひと月ごとの栞型「野鳥」のカレンダーは、あっという間に品切れとなった。
(M・O)



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ジャーナリストの目


 恵比寿ガーデンプレイスに東京都写真美術館がある。展示会場だけではなく図書室や創作室を備え、一階ホールでは上映作品を扱うという、写真を専門とする美術館だ。改修のため2016年秋まで閉鎖という数日前、おのぼりさんよろしく恵比寿駅から動く歩道に乗って行った。目的は3階の《all about life and death 生きること死ぬことのすべて》と題する報道写真家「岡村昭彦」の写真展である。

 ーー暁にヴェトコン部隊の襲撃をうけたトイビンの陣地からはまだ白い煙が細々と上がっています。完全に焼かれた陣地の焼け跡には、50体ほどの黒焦げの死体が並べられ、まだ、バラバラになった足や手が掘り出されています。私は30本ほどのカラーフィルムを瞬く間に撮影してしまいました。汗が流れてカメラの上にしたたり落ちます。/その時、一人の老兵士が、私の腕を引いて、すでに筵に包まれている小さな死体の前に連れてゆきました。彼は筵にくくられた死体認識票の荷札を指さしながら、「わたしの子どもが死んでしまった。チョーヨイ! 死んでしまったんだよ。どうか写真に写しておくれ!」と、喘ぐように言いました。(中略)/その後、副パイロットのG大尉に私は会いました。彼は私の写真を特集した『ライフ』誌の「醜いヴェトナム戦争」のページをめくりながら「この二つの悲しみは、戦争に臨む南ヴェトナム政府軍兵士の宿命なのだ。よくこれを撮ってくれた」といって、私の手をかたく握りしめてくれたのでした。南ヴェトナムでは、絶望的な戦闘が今日も続き、国土がすべて戦場になっています。兵士たちは、妻子を連れて砲火の下をさまよっているのです。ーー(『南ヴェトナム戦争従軍記』あとがきより)

 アングルは真正面、風景も物も人物も私情を挟まない。それなのに、人間として持つ彼の目は、ファインダーに収めた現実に多くを語らせる。「二度と武器を持つまいときめた」彼の唯一の武器、小さなカメラが、世界中に「戦争」を知らせたのは40年以上も前だったのに、今、安倍内閣は!! 
(M・O)



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適材適所


 焼き物にちょっと首を突っ込んだ。趣味の陶芸入門、という正しいスタンスではない。なんか出来るかもしれない、といったアウトサイダー的なそれであった。マンツーマン指導ではあるが、先生は「経験して分かったことは教えられるけれど後は本を見て」とかつてご自分が学んだ本をくださった。先生のもとで成形まではするが、焼くのも釉をかけるのも日の出町にある窯元にお任せである。

 ふつう、コーヒーカップを作りたいとか、壺を、あるいはお皿、と実用的な目標を持つらしいが、最初に作ったのは常夜灯を覆うプレートである。15センチ×20センチほどの陶板に過ぎない。麺棒で小麦粉を伸す要領で均等な5ミリほどの板をつくり、さすがにそれだけでは作陶といえないだろうと、オリオン座の7つの星をかたどった穴をあけてから筋を付けたり波立たせたりしてみた。

 数回捏ねていると、なすべきことは少しずつ反映できるようになってくるものだ。小さな器を数点作ったのち額縁を作ってみた。こんなものを作る人はめったにない。例がないので試みとなる。つまり出来上がってみなければなんとも…である。結果、縁は焼いているうちに垂れるわゆがむわ、さらにお任せの絵付けは私の意図とは全く違い、4枚まとめてガッシャーン、と叩き付けたい気分だった。

 参ったな、と腕組みをしてじっと額を眺めているうちに、もしかしてあの“絵葉書”なら収まるか、とかすかな希望が見えた。大家の絵というのはどんな環境にも安寧をもたらす力があるということだろうか。シャガールの版画を2点、田島征三のリトグラフを1点、そしてなかでもこれはまあいいかな、と思える最上の額には父の絵の写真を入れた。
 なかなかどうして、である。
(M・O)



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時 計


 サイドボードの上に時計が三つある。いずれも高価なものではない。

 真ん中にあるのは直径が15〜6センチの孟宗竹を輪切りにしたもので、和紙を用いてオリジナルのこだわりを全面的に見せている手作りの時計。これは所沢市の野老澤町造商店「まちぞう」に出入りしていた方の作られたもので、ちょっとした関係があって頂いたものだ。

 右寄りの奥には、厚さ5ミリほどの陶製で、縦横18センチくらいの四角い時計がある。手作風を感じさせるが、裏に登録商標だろうか、へちもん信楽MARUIと印刷された小さなシールが貼ってある。 これは新所沢のリサイクル店でシンプルなデザインに一目ぼれして買い求めたものだ。

 その前にあるのは、クマのぬいぐるみコレクターの家人が、クマのイラストが可愛いといって求めた安物の目覚まし時計で、秒針が取れてしまったのにちゃんと働いている。

 この三つは特に意味もなくそこにある。時々目をやると三つが三つ、似たようなその黒い針を同じ角度にしている。当たり前なので気にも留めなかったが、同じ角度を示す三つの時計の針を何回も見ているうちに「どこかで見た…」「なにかを訴える光景があったような…」、そんな気がしてきた。

 そうだ、止まった時計だ。広島で、原爆投下の8:15を示したまま止まった時計。長崎で、11:02分を示して止まった時計。宮城県の閖上中学校には、3年前の東日本大震災で津波が押し寄せた2:46を刻んだまま止まった時計が残されている。

 一つだけなら気にもならなかったその時の時刻なのに、こうして三つ並ぶと訴えてくる何ものかがあった。1945年8月15日、きっと時の天皇の時間はあの日に止まったに違いない。それから70年近く、平和な時間を動かし続けて来たのは私たちなのだ。
(M・O)



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日本語を解する人


 いわゆる国の要人といわれる人たちの言動で、またしてもマスコミは賑わった。昔から演説にヤジはつきものだったが、その質的な差は実になげかわしい。個人的な人格の欠如もさることながら、彼らの多くは日本語をよく知らないのだろうとも思う。言葉は、歴史や社会問題などを背負って微妙な違いを含みつつ複雑に発展してきた。そういうことに無頓着な彼らはいきおい、流行のツイッターの言語を用いて用は済むと考えているのだろう。

 過日、「泉鏡花短編集」を読んだ。作家、中島敦は「日本人に生まれながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、せっかくの日本人たる特権を放棄しているようなものだ」といっている。彼の「山月記」から推察して、中島が鏡花に共鳴することはうなずける。一方、巷では、鏡花の作風は幻想的でどこか異様なものをことさらに描いていると解釈されていないだろうか。ところが、そうではないのだ。

 鏡花の目は実に詳しく、だからかなり科学的に、しかも情緒を持って物事を観察している。『二、三羽ーー十二、三羽』という作品は、庭の敷石のあたりで「ちょこちょこというよりはふよふよと」歩いていたまだ飛べない子雀が、母鳥に励まされていつの間にか飛んで見えなくなるまでを、「真綿を黄に染めたような、あの翼が、こう速やかに飛ぶのに馴れるか。かつ感じつつ、私たちは飽かずに視めた。」と、それはおよそ1日半の“自立と子育て記録”とでもいうべきものだ。もちろん、この作品の後半では妙な「雀のお宿」へ紛れ込むのだが…。

 「日本語を解しながら」という指摘で痛感するのは、改憲を閣議で決めてしまおうとする政府のやり方を覆し得ないペンの弱さだ。同時に、権力の使う「甘言」を抵抗もなく受け入れる素直な日本人の多さだ。
(M・O)



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愛蔵の書


 部屋の西側の壁一面が書棚で、その書棚には本がずらりと並べられている。「まるで図書館!」と目を見張った忘れられない光景がある。それは小学校6年生のときに垣間見た、黒沢明監督宅の長男の部屋なのだ。並んでいた本は圧倒的に岩波少年少女文庫で、他にも当時出版されていた少年向けの本はすべて揃えられていたのではないだろうか。

 戦後の貧しい生活をしていた時期に、父は私に文庫本を買って帰ることがあった。本の影響力は大きかった。岩波の幼年文庫「アルプスのきょうだい」は、私を山好きに向かわせた源だと思っている。小さい頃から揃えてもらったそれらの本を、何が原因したのか今では理由も定かではないのだが、高校生の時に新聞の投書欄を経て全国の欲しいという人に送った。この経験が「本を手放すということ!」を私に学ばせた。

 過日、ぜひとも手に入れたい本を見つけた。文庫版でありながら、価格はなんと2000円ノ。悩んだ末に清水の舞台から飛び降りた。それは『張さんのキリギリス』という山室眞二さんの本である。

 厚さは1.5センチくらいで、166頁の手のひらに乗るサイズ。画・文・装丁のすべてをご本人が手掛け、シンジュサン工房という、注文先の住所からみてたぶんご自宅ではないかと思う工房で制作された、限定200部のうちの一冊がサイン入りで届いた。

 知る人ぞ知る山室氏は、建設省勤務を経て現在はシンジュサン(樗蚕=大型のヤママユ蛾になる)工房を主宰する造本家である。エッセーに添えられる野鳥や草花、蝶や山の絵はジャガイモによる芋版で、そのやわらかい色調とシンプルな構図にお人柄が表れている。貴重品として飾られる豪華本とは縁遠いこの本、決して手放せない愛蔵の書となった。
(M・O)



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たかが雑草


 大雪でどうなる事かと心配していた椿が真っ赤な花をたくさん咲かせたら、次から次へと町中が花だらけになった。甘い香りに辺りを見回すと、藤や桐の花。足元に落ちている花から頭上に高く枝を張っているのが栴檀であることも知った。

 点々と残されている市街地の畑の縁に生えている雑草も、生き生きとして見事と言いたいほどの花をつけている。何とも気の毒な名前を持つヤブジラミも、その蕾の先にわずか紅色を見せ始めていた。がやがて小さな白い花となる。毛に覆われているのでヤブジラミ(藪の虱)と言いたくもなるが、蕾も花もあどけなくて愛らしい。

 よく雑草にはイヌやらタヌキやらカラスといった名前が付けられるが、おそらく似てはいるものの食料としては役に立たないといった意味を持つのだろう。その仲間のカラスノエンドウの花がきれいだ。

 カラスノエンドウとともに取り上げられるのがスズメノエンドウである。ところがもう一つ、ちょうどその中間の大きさでとても似ている花があった。勝手に交配されてこんな花を咲かせたのかと思ったが、3つを並べてみるとそれぞれはっきりとした違いがある。図鑑を調べてみると、それはカスマグサというれっきとした名前を持っていた。カラスとスズメの中間の大きさなので「カ」と「ス」の間で「カスマグサ」という。なんだかいい加減、という気がしないでもない。

 カラスノエンドウは5〜7ミリほどの紅紫色の花を2、3個つける。スズメノエンドウは2〜3ミリほどの淡紫色の花が5、6個で、カスマグサは3〜5ミリの青紫色の花が2つ、対になって咲く。

 たかが雑草されど雑草で、調べてみると名前の付け方や渡来の方法などが面白い。かつて野原を飛び回っていたらしい男どもが、きれいな写真やイラスト入りの雑草図鑑をたくさん出している。
(M・O)



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案内状


 さあ春だ、とばかりに催し物の案内状が何通も届いた。

 娘が初めてピアノに触れてから大学卒業までずっとお世話になった先生のサロンコンサート。大学受験で付け焼刃のお世話になった声楽の先生が率いるグループによる、オペラのガラコンサート。渡辺小百合さんという、もとは山本安英の会の女優さんの朗読の会。山の絵描きさんとして知る人ぞ知る中村好至惠さんの個展。もう何年も前になるが『野に生きる鳥たち』という写真集を出した所沢市の職員からは、その友人の“ギャラリー喫茶オンブル”開店のお祝い写真展。こぶし町在住の十滝・日々ご夫妻から入間アリットでのグループ展。AKIHIKOの会からは夏に催される岡村昭彦写真展。経済学の先生からは思いがけなくご自身の写真展のお知らせも。それに、地元の男声コーラスのメンバーからグループ結成10周年のソロとデュオの演奏会、ずっと続けている間に高齢者が多くなってしまったと笑う女声合唱団からも。

 それぞれに、自分の積み上げてきたものを公開する機会をつくり、多くの人へ日常を少し離れた時間を提供して下さる。プロではあってもいつもライトの当たる舞台上にいるわけではなく、自然な光を浴びての催しものも大切にしている人たちだ。会場で出会えば親しく会話が弾み、得難い逸話なども聞くことができるし、なんといっても気軽く本物に触れることができるのはありがたい。

 これらの案内状は本当に細々と続いている音信の賜物で、ああ忘れずにいてくれたのかと、ポストから取り出したときにほんわりと幸せを感じる。

 ところで、私の1年に1度のフルートを発表する会があった。でも、とても人様へ案内状を出す勇気はなかった。
(M・O)



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除 染


 昨年末に那須町役場から敷地の除染について連絡があった。

 東電の福島第1原発事故当時、風が那須町方面に流れていたため、別荘地として売られた山林には帯状にホットスポットが作られた。隣接地には戦後、開拓農家として入植した酪農家が住んでいる。

 年が明けて現地で業者との打ち合わせをすることになった。東北道を降りて白河方面に走るに従い、車の中の線量が微妙に上がっていく。まずは町役場に行って除染の説明を受けた。それは耳を疑うほどお粗末で、放射能を取り除くということは不可能、国によるパフォーマンスに過ぎない、とすぐに判断した。

 福島県では線量が0.23µシーベルト/時以上で敷地の全体を対象とする除染作業も、白河市から車で15分ほどのここでは、栃木県という線引きで線量が同じでも除染の内容が違う。特に線量の高い軒下は軒に沿って左右50センチ幅に10〜30センチの土壌を入れ替える。敷地は落ち葉だけが対象で袋に詰めて敷地内に埋設する、というものだ。その埋設場所を決めるのが当日の業者との打ち合わせだった。

 建物から一番遠いところにしたいと誰もが思うが、ここは木が多くて重機を入れられない、ここだけでは全部の袋を埋めきれないと、二転三転して業者に譲った。彼らだって、好んでする仕事ではないはずだ。

 その後作業はどうなったのか、役場から終了したという連絡はない。

 ちなみに数か所を測った線量は、軒下の地上0m(地面)で3.3〜5.9µシーベルト/時、庭が0.59〜1.23µシーベルト、道路を挟んだ山裾の水がたまる場所では5.891µシーベルトを示す場所もあった。

 3年の間訪れていなかったが、冬枯れのせいもあるとはいえ、一帯はすっかり寂れた感じを否めなかった。
(M・O)



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年賀状


 毎年のことだが、何とか元日に届けてもらえる日までに投函しなければと、暮れも押し詰まったギリギリの時点で年賀状を書き始める。小さいとはいえ木版を彫って刷るので、字を書く前のひと仕事がある。12月に入ったころには出来上がり予想図をああでもないこうでもないとひねってみるのだが、今回は3年先までをシリーズ化するという、デザインのエコ化を図った。

 出す側のエコ化という事情、これを老化による手抜きといってしまえばそれまでだが… もあるが、受け取ってみると年ごとに老化の話題が増えているのも現実だ。

 「登り歩き始めて1時間くらい、急に腰から足にしびれが走り全く力が入らなくなり這う這うの体で下山した」とか、「深酒で倒れ、慢性硬膜下血腫と診断されて断酒」とか、「医者通いが主体の生活」とか、「やっとやっと体力も80%戻ってきた」等々。

 それが年賀状ということでもある。近況を知らせあい、お互い様だと苦笑して自覚を促す。それでも結語は必ず新しいことへの参入と期待で結ばれているのが嬉しい。

 年の初めに政治の非を訴える内容は少ないが、「落とし前をつけよう」とか、「ABEの暴走を止める力は有りや」とか、「問われているのは憲法に強い国民的主体の形成です」等々、決意を促すものもある。

 ところでこの年賀状、出かけた先で家族の分を含めて100枚ほどを購入したのだが、帰宅する道中で出先に置いてきてしまったことを思い出す始末。改めて買う悔しさ。それにもまして年が明けて大量に取り替える恥ずかしさ。その手間の面倒くささ。

 うっかりしたと言いながら、実は本物のボケへ移行中ということかと心中穏やかではない。
(M・O)



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新 車


 157031……とうとう15万キロを超えた。走行距離数である。

 この間メカには何の問題もなく、修理を要したのは小さいものではワイパーブレイド、大きくても運転席の窓ガラスのモーターくらいだろうか。以前、出先から高崎駅へ人を送った時に、どうやら工事中の駅前で釘を拾ったようだったが、家までの高速道も何の問題もなく走り、パンクに気づいたのは3日後だったというくらいタフだった。

 還暦を目前にした頃、あとどれくらい車に乗れるのだろう、乗れる間は車で登山口まで行きたいものだと、車検を機にそれまで乗っていた市街地向きの乗用車から4WDに乗り換えた。

 お蔭さまで北アルプスの扇沢や、上高地の沢渡。八ヶ岳の美濃戸口や観音平。南アルプスの夜叉神峠へ、中央アルプスの菅の台へと、実に気軽く運んでもらったものだ。

 さすがに15万キロを超えると外観の衰えも見えてくる。ドアノブのパッキングがボロボロになっている。ボンネットにはピンホール状に塗装の剥げもある。来年の3月には車検だし、新車を考えるタイミングかもしれないが、それこそ、あと何年乗り回すことができるのか。年金暮らしの身には毎年の保険代や維持費はかなり堪える。

 そこで考えたのが軽自動車。それも、リースで。

 友人の車屋さんに相談してパンフを見ながら検討した。驚いたことにエコカー対応で重量税も取得税も免税、その分販売価格はぐんと引き下げられる。不況下に自動車の売り上げが伸びた理由はこういうことだったのか。エコを推進するという国策で企業は優遇措置を受けられるのだ。だが、この先に待っているのは高速道路の値上げと下げられないガソリン税、そしてやっぱり軽の自動車税を上げようという目論見だ。
(M・O)



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歳時記異変


 3日も続けば天気は変わるものと思っていた。1週間も耐えたのにいつまで30度以上の日が続くのかと、この夏もへとへとになった。一気に気温が下がった時の体の動きのスムーズなことと言ったら。ただ暑いだけで精神的にも肉体的にもすっかりダメになっていたことに驚いた。

 昭和62年(1987)に出版した『京都 お天気歳時記』という本を読み返したら「初めに」というところで“ここ数十年、つまり今世紀いっぱいは、日本の平均気温はゆっくりと上昇し、地域により、極端な天候が現れることが予想され、年々の天候は変動が大きく、異常気象が発生しやすい”と「異常気象レポート84」(気象庁)が述べていると書いてある。さらに、社会の天候に対する脆弱性は増大するというのが内外の気候専門家の大方の見解です、と筆者が言っていた。

 刊行された年から見ると今世紀というのは2000年まで、今年は2013年で26年目となるが、本当にその通りになっている。先日の伊豆大島の土砂崩れに『火山灰地』を思い起こした。過去にあった大災害の様子は記録や小説や演劇にさえなって巷間に伝えられているのに、政府は自国の気象庁が発表するレポートに目を通して打つ手を考えておかないのだろうか。それとも、こういう災害は戦争と同じくらい経済復興の手段となると手をこまねいているのだろうか。

 大雨で流された町、地震で崩れた家々、津波に飲まれた村、竜巻に飛ばされた屋根、なんといっても解決の糸口さえ見つけられない原発。軍備に止めようもない予算を注ぎ込む余裕がどこにあるというのだろう。

 いつもなら紅葉前線を追う目の前に、秘密保護法が出た。私たち「日本国民は国政の最高決定権を持つ主権者である」ことを改めて自覚し、戦争へ道を開こうとする勢力に対抗して燃え上がる時なのだ。
(M・O)



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マチルダと男爵


 田舎育ちで、朴訥で、しかしその豊かな感性は彼女の存在を男爵に気づかせるにはあまりあるマチルダと、何となく田舎娘のサクセス・ストーリーのような表題だが、いやいや、これはジャガイモの話。

 源吾さんという隠れ蕎麦屋がいる。本職は大工だが、趣味が高じて自宅に隣接する店を構えてしまった。

 蕎麦は信州そばの二・八。打ちたてのコシはなかなかで、それだけで満足するのだが、おもてなし料理となるとまずは六つの前菜が並ぶ。亭主自らが、これはわらび、これはこごみ、これがきゃらぶきなどと、いつ採って来ただのどこに行けば見つけられるだの、その説明は実に嬉しそうだ。なかでも一番の得意は放し飼いの鶏の有精卵の厚焼きだった。次に出されるのは具だくさんの汁物。これも季節によって違うそうで、秋ともなればお椀の中は茸でいっぱいだ。

 「このところ降り続いた雨が止んだら出るだろうと思って、ちょうど昨日採りに行ったのよ。今日はしょう油で仕立ててみたけど、どう?」と、これもまた嬉しそうだ。それから天ぷらが出る。いずれも自家製の野菜や山菜で、つまり蕎麦をはじめすべて食材は自前ということだ。そこに蕎麦が出されるのだが、お替りは自由、もう一枚どう?と勧められても女性はもうおなかには入りません、となる。デザートは栗の渋皮煮と蕎麦の寒天ゼリー。さてお会計にして(これで一人前1500円)帰ろうとしたら、奥からごそごそとなにかを持ってきた。

 「マチルダ、これ食べてみて。すぐに煮えるから便利だよ。でも男爵が好きな人の口にはどうかな、ポテトチップにはいいんだ。植えるんだったら種をあげるよ。え、なに、男爵が好きなのお、ダメかあ」

 マチルダは淡白で、ジャガイモ、というあの味がしなかった。
(M・O)



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「絵具箱」


 「絵具箱」と題する縦11センチ、横14センチほどの版画を手に入れた。絵描きさんのアトリエで見かける、絵具のチューブや何やらが雑多に転がっている1カットである。作者は十滝歌喜さん。ご存知の方も多いと思う。

 数年前に、氏の個展でこの版画を観たとき、ふと父の部屋の油絵の具のにおいを思い出した。明治生まれの父は趣味を超えるものではなかったが絵を描いていて、「一度でいいから、盗まれるような絵を描きたいなあ」と言って笑っていた。

 ふた月ほど前になるが、南千住で催された十滝さんの個展でその作品に再会した。欲しいと思った。が、どうも版画の紙に黄ばんだシミがあり気になる。ご本人に「この版はご自宅にありますか」などと不躾な質問をして、改めて刷りなおしたものを購入することにした。

 出来上がったというのでいただきに出向くと、実は前の版を刷ってみたところ、出展していた作品とは違っていたという。なぜか版の一部分を削り取ったらしく、刷り上がった絵のその部分は空白だったそうだ。そこでもう一度新しい版を作りなおしたものの、今度は彫った線が細すぎた。これではないとさらにもう一度、別の刃で彫ったのがこの作品だと、それぞれ三つの版までも興味深く見せていただいた。

 ところで過日、父の書棚の古い本を整理していたら、本の間に挟まれた葉書を見つけた。葉書にはFさんの字で「傳言」とあり、“O氏(父のこと)の「浜通り」は賣約となり、2万円はFが受領済。希望された方は近所の人とのことで、芳名録を見てください”とあった。1978年の秋、銀座6丁目の「美術サロンはまのや」で催された第16回東京黒百合会展の案内はがきだった。
(M・O)



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あんパンの天ぷら


 久しぶりに所沢に戻ってきた長野県在住の友人と食文化の話をした。

 彼のいる村は人口3000人で、ご多分にもれず、ほとんどが高齢者だという。この春、村の「たけのこ祭り」のグループに所属する隣人から、藪を刈ったので採って来たと筍をいただいたそうだ。筍は太くても直径が5センチほどのハチク(淡竹)という竹である。

 毎年「たけのこ祭り」が行われ、指定された日には竹藪に入って採ることができる。棚田で米作りをする村なので竹藪も急斜面なのに、自分で採るのが楽しいと常連さんの車が急ごしらえの駐車場に並ぶという。

 村から車で30分ほど走れば、長野市や大町市の大型スーパーで買い物はできるのだが、なにせ「おれはセカンド以上に入れて走ったことがない」なんていう高齢者が車を運転している。食べ物は他所に買いに行くのではなく、畑で作るもの以外にも春の山菜、秋の茸など、自前が当たり前という生活をずっと続けていて、旬を味わった後は保存食として調理する。と言ってもそこは現代、保存には皆さん冷凍庫を活用しているという。

 村には“ハレの日”がまだあるし、人が集まる機会は少なくない。集まればご馳走が出る。少々敬遠したくなるような濃い醤油色をした煮物の中に季節外れのタケノコが出てきたり、いつでも山栗のおこわがふるまわれたり、取って置きの(というか、残っていたというのか)珍しい材料を使った食べ物が机に並べられる。

 中でも彼が驚いたのはあんパンの天ぷら。彼のことだから遠慮なく大きな声で言ったそうだ。「なぁにぃこーれー!」。よく見るとあんパンだけではない、小さめのどら焼きの天ぷらや食パンの天ぷらまでもある。「このあたりではこうするんだよ」と言われて、彼はこれを食の「文化」というのだろうかと頭を抱えたそうだ。
(M・O)



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オープン25周年


 ずいぶん前になるが、一人で初めて白馬にスキーに行った。3泊もして白馬五竜のスキー場をくまなく、いや、一つどうしても敬遠したこぶだらけの急斜面、エキスパートコースを除いての話だが、滑った。

 宿泊先は新聞の広告欄を見ていくつかピックアップしてからネットで検索し、「一人でも歓迎」とあった神城のペンション樹里家に決めた。関西なまりのあるオーナーは私と同じ年で、脱サラをしてペンションをオープンしたという。以来、毎年のようにお世話になってきたそのペンションが、5月25日に25周年を迎えた。

 この春宿泊されたKさんとオーナーが、二人とも元NTT勤務ということが分かり、Kさんは東京勤務でオーナーは大阪勤務と、そこは違うものの同時代人で、うたごえ、平和(ベトナム戦争・安保)、会社や御用組合からご丁寧なる扱い??を受けたこと、などが共通すると笑いあったそうだ。そこから実は25年、それなら記念パーティーをと、Kさんの人脈で新宿ともしびのヤギさんを中心とする出前歌声喫茶でお祝いの交流会が企画された。

 当日はマンションの総会のために駆けつけることが出来ず、祝電を打つだけでおいしいワインも逃したが、先方からメールでその日の様子を知らせてくれた。

 参加者延べ110名、宿泊者延べ96名。もちろんオーナーは地域のペンションとのつながりを大事にしているので、近隣に宿泊を依頼し、界隈には久しぶりに賑やかなお客の声が響いたことだろう。意外にも所沢から3つのうたごえグループ、21名が参加したそうだ。あちらに行っていたら知っている顔に出会えたか、と残念だ。

 この会でも、白馬周辺の観光やハイキングなどを企画し、ペンション樹里家に宿泊できるといいなあ・・・。
(M・O)



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がんばったよね


 「実際に世の中で起こっていることと、憲法に書いてあることに差が出てきている。憲法は所詮絵そらごとだ、となってくるほうが、よほど不誠実だ」?? これが憲法を守る義務を課せられた大臣の言葉か! 6月2日のNHK日曜討論での石破茂自民党幹事長の発言だ。まったく我慢ならない。そもそも、これは憲法に対する侮辱であり名誉毀損であり、日本国民はもとより世界の人々への背徳であり、弾劾すべき暴言にも等しいのではないだろうか、と、憤るのは私ばかりではないと思う。

 今月の都議選の結果について世田谷で頑張った姉に電話を入れた。できるかぎりのことをして頑張ったということだが、どう頑張ったのか。

 いずこも同じ、みんな高齢者となって頑張りようも限られるものの、改憲派の人たちが本当に狙っているのはどういうことなのか、それを許してしまうことがどういう将来をもたらすのか、ということをしっかりと訴えるビラを大勢で何回も駅頭で撒いたり、各戸のポストへ入れたりしたという。「真剣さが伝わったのかしら。この東京でよ?、おばさんたちがんばったよね」と言っていた。

 憲法は所詮絵そらごとだ、などと人々の口に上せたい石破氏のお得意の誘導尋問に乗らず、それこそ国民に対するその不誠実さには、きちんと失礼だと言わなければならない。時の流行というような軽さで笑ってすむものではない。聞き流さずに、発言の意味するところを真摯に問いなおしてゆくことは大事だと思う。

 市民として世論を握る私たちは黙っていてはいけない。世界的な経済の落ち込みも災害からの復興も、解決する道は決して戦争への道にあるのではないことを井戸端会議でも話題にして、世論を高めなければ。
(M・O)



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花見の客


 毎年4月の第1土曜日はお花見と決めて、来る人は拒まずとオープン・ハウスの1日を設けている友人がいる。居間の南面は某研究所の広い敷地で桜の園だ。すでに花は終わり荒天が報じられたその日、電車を乗り継いで出かけた。

 ご本人がご本人だけに集まる人は文化人を始め俳優や芸能関係者が多い。石牟礼さんの肩に手をかけて笑顔を見せる時枝さんのスナップ写真を見て「え、亡くなったの。誰も教えてくれなかった!」とZ氏。そんな会話が普通なのだ。が、私のように初対面の者でも話しに加われる雰囲気は、さすがに洗練された彼らである。

 ロンドンで公演したラフカディオ・ハーンの芝居から漱石の芝居の話になった。その芝居を書いた人の話から、俳句の話へ移った。定年を迎えるに当たって、かつてかじった俳句の世界に身を置くことにしたという「ふしぎ発見!」などの元ディレクターA氏、俳優のZ氏、私の三人。一品持ちよりの皿数も少なくなりだいぶアルコールも回っている。

 そこに漱石の「菫程な小さきものに生まれたし」が出てきた。A氏いわく、これは子規が「ふるさとに小さき菫ねづきたり」と漱石の帰国に際して詠んだものの返しだ、と。ウソだ、と私は言わなかった。子規は漱石の帰国を待たずに亡くなっている。

 さっそく岩波の『漱石・子規往復書簡集』を終わりのほうから読んでみたが、子規からの手紙は「僕ハモーダメニナッテシマッタ」で有名なそれが最後で、明治35年11月。そこに句などは無い。漱石の「菫ほどな」は明治30年2月、熊本から送られた40句の中にある。ディレクター氏、どこから引っ張ってきたのやら、出所が知りたいなぁ。

 それにしても、漱石と子規の書簡は面白い。質のよい落語のようだ。
(M・O)



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アンデパンダン展


 六本木の国立新美術館で第66回日本アンデパンダン展を見てきた。1階の4棟分を使って、1100点を超す作品が28のコーナーに分かれて飾られている。途中で腰掛けることもなく、ひととおり見終えるのに3時間以上かかったのではないだろうか。疲れた。が、十分に楽しませてもらった。

 アンデパンダン展は、1884年にフランスのパリで誕生した展覧会である。Independantsは英語のインデペンデント(独立した?)の意味で、その趣旨は無審査・無賞・自由出品。時の権力、画壇や会派などの色眼鏡などに左右されず、自分の表現したいものを自分の流儀で製作して持ち込む、という形だ。

 日本では1947年に、フランスでの精神を受け継いで第1回を開催し、時を同じくして誕生した日本国憲法の理念を会の基本に据えて、今日まで続けられている。当然、「表現の自由」は可能なかぎり「展示」されるので、ときには「?」と向き合うことにもなり、見る側はそこで作家と無言のやりとりをする。音のある作品、動いている作品もある。

 なんと表現の幅の、あるいは奥行きの広く深いことか。いつも同じ方向から正解を求めるものの見方をしていることに気づかされたり、型をはずすことが崩れることとは限らないと知らされたりする。どのコーナーでも一つ一つそれぞれに製作者の存在感が旺盛だ。

 今年も展示されていた真っ黒でボロボロの鉄を用いた作品群、銃口をくわえ引き金に足の指をかけた「自決する兵士」などの前では、戦争のリアルさに息をのみ足が止まる。一方で金色の彫金、あどけない少女とブナの森に鳥が遊ぶ「九条を巨木のように」(岡部昭さん(当会会員)の作品)の前では、ほっと息をはいて足を止めた。
(M・O)



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ブラス・ジャンポリー


 横浜の大桟橋ホール入り口には、それぞれ楽器を持った老若男女が長蛇の列を作っていた。バンド仲間と、友だちと、あるいは親子で、年齢の垣根も上手下手の垣根もないブラスのイベントである。冷たい風に襟をかきたてて受付を待つ誰の顔にも、屈託のない笑みがあふれていた。

 遅まきながらトランペットを吹き始めた娘が、この垣根のない場を私にも体験させたいと誘ってくれたので、「うかつにも」初体験に及んだ。

 受付を済ませ、自分の楽器のパート譜を集める。なんと8曲もある。耳に覚えのある曲はラデッキー行進曲、ハロードリー、見上げてごらん夜の星を、の3曲だけだ。12時半から4時まで、2回の休憩を挟んでリハーサルがあった。

 まずはラデッキー行進曲から始める。曽我大介という関西訛りのある著名な若手指揮者がタクトを下ろすと、冒頭のタタタ、タタタ、タッタッタターラ、タラタラタンタンタのメロディーが驚く速さで始まった。いやあ、手も足も出ない! しかし言い訳は誰も聞いてくれない。「やるっきゃないの世界」、ブラス・バンド部は体育会系といわれる所以だ。

 中学校の吹奏楽部で定番といわれるサンバ「宝島」、テレビでお馴染の「踊る大捜査線」から「危機一髪」、東日本大震災から生まれた「花は咲く」などと、ジョークを交えた貴重なコメントをもらいながら練習が続く。600人の管楽器と打楽器の音の迫力は、もう、なんと言おうか。リハーサルだけで疲れきってしまった。

 その後でちゃんと本番があった。結果として、全体の1割ちょっとは乗れただろうか。白髪の目立つ中高年の男性たちが、楽器を抱えていきいきと演奏している姿は好もしかった。皆さん、実に上手い。

 これを戦争のなかった70年近くの時が育んだ文化と位置づけるのは早計かもしれないが、音楽をすなおに楽しめる環境、つまり平和を、堅持したいとつくずくと思った一日だった。
(M・O)


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