機関紙105号 (2014年12月3日発行)



もくじ

さあ、総選挙だ! 秘密保護法、集団的自衛権行使容認を白紙に戻そう
沖縄県知事選で問われたこと
   梅田正巳(書籍編集者)

それでも政権の暴挙が続く

自公政権をつぶす絶好の機会
   北村 肇(『週刊金曜日』発行人)

鈴木彰の「失政の雲散霧消が始まった」

太郎の部屋のほっとたいむ 26
   普通の人々の喜劇
   鈴木太郎(詩人・演劇ライター)

日本国憲法秘話
   「第九条を第一条に」起草班困らせたマ元帥
   林 茂雄(元東京新聞アメリカ総局長)

“戦後ジャーナリズム最大の危機”
   安倍暴走政権にどう立ち向かうか

藤田博司氏の死を悼む
   大事な時に、大事な人を失った 藤田さんと私のこと
   丸山重威(元共同通信編集局次長)
会員の訃報

紹 介
   ●映画「約束」所沢で上映
 




さあ、総選挙だ! 秘密保護法、集団的自衛権行使容認を白紙に戻そう

沖縄県知事選で問われたこと

梅田正巳(書籍編集者)

 さる11月16日投票の沖縄知事選は前代未聞の結果だった。なにしろ前回の知事選では仲井真候補の選対本部長だった翁長氏が、今回は対立候補となり、圧勝したのだ(得票数比率は6対4)。

 しかも翁長氏は、自民党沖縄県連幹事長もつとめた保守のエースだった。その翁長氏を、共産党を含む革新陣営が支持、「オール沖縄」を合い言葉に現職の仲井真候補に立ち向かったのだった。

 つまり今回の知事選は、復帰前1968年の初の首席公選の選挙以来、半世紀近く続いてきた〈保守対革新〉という対立軸が転換した最初の知事選となったのだ。

 では、新しく対立軸となったのは何だったか。「基地」と「本土(政府)」との関係である。

◆イデオロギーよりもアイデンティティー

 翁長陣営が今回かかげたキャッチフレーズは「イデオロギーよりもアイデンティティー」だった。ここでのイデオロギーとは〈保守対革新〉の構図をさす。アイデンティティーには適切な日本語がないが「自分が確かに自分であるという自己証明」のことだ。

 では、沖縄のアイデンティティーの問題とは何か。それが、いま政府が建設に強硬着手している辺野古での海兵隊基地にかかわる選択だった。

 日本への復帰からすでに42年、しかし沖縄の「軍事植民地」状態は微動だにしない。その上、貴重なサンゴとジュゴンの海を破壊して半永久的な新基地の建設を認める。それではたして沖縄の尊厳と誇り=アイデンティティーを守れるのかという問いかけだった。

◆尊厳を取り戻した

 昨年1月、沖縄の全41市町村長と議長は翁長・那覇市長を先頭に、政府に対する基地負担軽減を求める「建白書」をたずさえて上京した。一県の全市町村長そろっての請願はまさに空前のことだった。しかしそれに対して安倍首相が面会に割いた時間はたったの4分間だった。

 また昨年暮れには、前回の選挙で普天間基地について少なくとも「県外移設」を公約した仲井真知事が、政府による振興予算の割り増しと引きかえに「県内(辺野古)移設」を承認した。あわせて全員「県外移設」を公約していた沖縄出身の自民党国会議員5名が、石破幹事長の説得(桐喝?)に屈して、そろって「承認」へと寝返った。

 こうした政府の対応に加えて、本土メディアの沖縄の現実に対する軽視・無視、その結果としての国民の無関心。こうした本土(沖縄ではヤマトという)への失望の堆積が、沖縄県民のアイデンティティー意識を刺激して、今回の劇的な選挙結果を生んだのである。結果を報じた琉球新報の17日の社説に次の一節があった。「失われかけた尊厳を県民自らの意志で取り戻した」。



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それでも政権の暴挙が続く

 沖縄県名護市辺野古への米軍新基地建設を最大の争点にした沖縄県知事選が16日投開票され、基地建設反対を掲げた翁長雄志氏が得票率50%を超す36万820票を獲得し歴史的圧勝を果たした。

 私は午後7時過ぎに翁長候補の選挙事務所にいた。投票箱のふたが閉まった直後の8時1分に地元テレビは当確を報じた。瞬間、支援者の歓喜と興奮が一気に爆発した。

 その後、那覇市長の域間氏の当確も決まると、夜遅く詰めかけた約70人の支持者は、手に手をとり、肩を抱き合い三線が奏でる琉球民謡の祝い歌「唐船ドーイ」に乗ってカチャーシーを踊り、歴史的な勝利に酔った。

 投票率が3・25ポイント上回ったにもかかわらず、得票を前回から7万票以上も減らした仲井真氏は、安倍政権とともに新基地建設を推進してきた県民への裏切り行為に対する厳しい審判を受けたことになる。保革の枠組みに関係なく、辺野古の基地建設に反対する県民が多かったことを明確に示し、その純度はより高い、率直な民意が示された。この意味は軽くないが、政府は辺野古建設を「粛々と進めていく」と明言した。読売新聞は「選挙結果にかかわらず基地建設を進めよ」と沖縄の民意を無視した暴挙が続く。仲井真氏は記者団に「なぜ私が落ちたか理由がわからない」と迷言を吐いた。総選挙でも沖縄に続きたいものだ。(葛西)



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自公政権をつぶす絶好の機会

北村 肇(『週刊金曜日』発行人)

意味不明解散

 まさかと思っていました。常識的には、このタイミングでの解散はありえませんから。ところが、あれよあれよという間に師走選挙に突入してしまいました。このばかげた解散に命名すれば「意味不明解散」、あるいは「ごまかし解散」です。

 自公政権は衆議院で合わせて300以上の議席をもっています。この圧倒的な勢力をもとに好き放題な国会運営をしてきました。さらには、次世代の党というお友だち政党も生まれました。どう考えても余程のことがない限り、自公政権はあと2年間は安泰です。いまの段階で議席を減らす危険性をおかす必要はどこにもありません。

 閣僚をめぐるスキャンダルなどで支持率が下がったのは事実です。だから、「負けを最小限にとどめるために解散した」という説があります。でも、任期半分の時点でそんなことを考えるでしようか。そもそもまだ安倍政権の支持率は40%台です。

 「消費税アップ見送りに合わせて民意を問う」は建て前にすぎません。確かにこの点が争点になれば、大半の有権者は消費税増税に反対ですから野党はたたかいにくい。自民党がそれを見越しているのは容易に想像できます。とはいっても、自民党が現有議席を確保できる根拠はないのです。

 選挙に強い議員は別にして、大半の議員にはいい迷惑でしょう。

暗雲を払うため暴走

 要は、これまでの常識を逸脱した解散なのです。では、だれが何のために仕掛けたのか。永田町では「安倍晋三首相のひとりよがり」という説がささやかれています。この間、自民党内でも半ば公然と「ポスト安倍」が語られていました。経済政策の失敗、健康問題、歴史認識をめぐる米国とのあつれき一一。支持率が30%台になれば、いつ「安倍降ろし」が起きても不思議ではありませんでした。あと2年はいまの政権の枠組みでいき、トップだけを代えようという雰囲気が漂いはじめていたのです。そうした、安倍氏にとっての“暗雲”を振り払うために“暴走”したというわけです。

 一方で、公明党仕掛け説も飛び交っています。同党が来年4月の統一地方選挙と国政選挙の時期をできるだけ離したいと考えているのは確かです。しかし自公の力関係を考えたとき、同党が安倍氏に解散を決断させたとの見立てはいささか強引な気がします。

政策の失敗を隠蔽

 結局のところ、現時点で「本当の仕掛け人」の実像はわかりません。ただ、「意味不明解散」の一つの目的が、「もろもろをごまかす」ことにあるのは確かでしょう。沖縄県知事選の敗北がもたらす影響を薄める。特定秘密保護法施行への反対を目立たせない。年明けに延びた日米ガイドラインの危険性を話題からそらす。もちろん、アベノミクスの失敗を隠蔽することも含まれます。

 

 それでもなお、私の頭の中は疑問符だらけです。もっともっと隠された事実があるような気がしてならないのです。とりわけ米国の思惑に関心があります。残念ながら、この国では米国におうかがいをたてなければ解散・総選挙もできっこないのです。仮に安倍氏が「解散をさせてほしい」とオバマ大統領に頼んだとします。オバマ氏はどう答えるのか。一つは「中国、韓国との関係改善を図れ」、そしてこちらのほうが肝心ですが「TPPで譲歩しろ」でしょう。

解散に意味をもたせよう

 あれだけ虚仮にされても無理矢理中国に頼み込んだ日中首脳会談をみれば、前者への“回答”がみえてきます。もし、TPPに反対の自民党議員がばたばたと落選するようなら、さらに私の憶測が憶測ではなくなってきます。

 いずれにしても、「意味不明解散」に意味をもたせるためには自公政権をつぶさなくてはなりません。民主勢力を結集して、むしろ絶好の機会ととらえ勝利をめざしましょう。



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鈴木彰の「失政の雲散霧消が始まった」




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太郎の部屋のほっとたいむ 26

普通の人々の喜劇

鈴木太郎(詩人・演劇ライター 中新井在住)

 喜劇を売り物にしている劇団がある。テアトル・エコーである。今回は「ラッパ屋」を主宰する鈴木聡の書き下ろしに挑戦。演出は喜劇に定評のある永井寛孝。タイトルは「遭難姉妹と毒キノコ」(11月18日〜30日、恵比寿・エコー劇場=20日所見)。普通の人々の喜劇を生み出したいという意欲的な作品に仕上がっていた。

 山で遭難した三人の姉妹が毒キノコを食べたことによって幻覚症状におちいっでしまう。その場面では、三人三様につきあっている人たちとの関係性が表出してくる。表層的でなく、本質的なものが浮かび上がってくる仕掛けが、たしかな面白さになっていく。せりふのかけひきや、あてがきに近い親近感が浮かび上がってくるからである。熊倉一雄のひょうきんさが自然な笑いを呼び起こすのは役とくである。

 熊倉が演じるのは山中繁の兄、登の遺骨を山頂に散骨するというのだ。登の長女・岳子(重田千穂子)、次女・空子(岡のりこ)、三女・森子(安達忍)を中心に物語は展開していく。山でもっとも遭難する状況というものがあり、その設定に工夫がこらされたらしい。登山していく姿が舞台上を行き来していく。セツトがピカソの抽象画のようなイメージで効果的であった。山岳仲間として登場する落合弘治、南風桂子、熊倉の長男役の藤原賢一などが役の雰囲気をうまく醸し出していた。




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日本国憲法秘話

「第九条を第一条に」起草班困らせたマ元帥

林 茂雄(元東京新聞アメリカ総局長)

 日本国憲法は戦後の米軍占領時代に@天皇象徴と主権在民A戦争放棄と戦力不保持B封建制度の廃止一一を定めた「マッカーサー三原則」を基本に作成された。だが、提出されたGHQ(連合国軍最高司令部)原案を手にした元帥が「戦争放棄を第一条にせよ」と言い出して起草班を困惑させたエピソードは意外と知られていない。筆者は1994年に起草班長(民生局次長)として携わったチャールス・ケーディス氏をマサチューセッツ州の自宅に訪ねてGHQ案起草のいきさつを聞いたことがある。同氏は「元帥は長い軍歴の中で戦争の悲惨さを身に染みて感じて、自分の権限で理想の平和憲法を造りたかったのではないか」と語った。

 日本がポツダム宣言を受託して占領軍政が決まった時、元帥は参謀本部に日本統治の行政幹部として@連邦政府で働いた経験があるA欧州戦線で戦った大佐以上の民間人(当時米国は戦時徴兵制)の推薦を要請した。

 白羽の矢が立ったのがハーバード大で法律を学び、弁護士資格を持ち、陸軍省民生部に勤務していたケーディス陸軍大佐だった。

 同氏は自然な成り行きで憲法起草班長に任命された。これより以前に、GHQは日本政府に憲法改正原案の提出を求めた。

 提示された政府案(松本蒸治試案)が天皇大権の明治憲法の部分的修正であることに限界を感じた元帥は民主主義のモデル憲法の作成に踏み切った。GHQ内の法律家が総動員されてわずか二週間で造り上げた。

 「戦争放棄を第一条に」と命じられた同氏は@形式的には明治憲法の改定であるA世界各国の憲法はいずれも国の政治体制から書かれていると、法律家の視点から不可能と説得、元帥はしぶしぶ納得したと言う。

 ケーディス氏によると、起草班は項目担当者が案文を書き、班全員の全体会議で討議後に決定したが、「第九条」だけは全体会議の討議はしなかった。

 戦力不保持が自衛権の放棄を意味するかで収拾が付かなくなる恐れが予想されだからという。結局、第九条だけは同氏自らが法律文に直して元帥の承認を受けた。元帥は何としても日本軍国主義の復活を封じたかったのだ。

 後に朝鮮戦争で国運軍司令官に任命された元帥は、日本の治安維持のために「警察予備隊」(後の自衛隊)を発足させたが、これは日本の戦力を『警察力』以下に抑えたかったためだ。

 「元帥の『戦争放棄』の熱意は憲法前文に十分に反映されている。GHQ原案の90%は憲法に採用されたが、起草班全員が占領終了後には再改定されると感じていた。それが半世紀以上も維持されているのは、憲法の内容に時代を先取りした平和思想があるからでしょう。私はこの憲法の起草に関わったことを誇りに思います」と語った。

 ケーディス氏は会見から2年後の1996年に死去した。(名古屋外国語大学名誉教授)



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“戦後ジャーナリズム最大の危機”

安倍暴走政権にどう立ち向かうか

 従軍慰安婦・原発事故の「誤報」を認めた朝日新聞社に言論史上、例をみないバッシングが続いています。もはやメディア同士の論争ではありません。このままでは、独立的で自由な戦後ジャーナリズムは自壊し、政府の国家権力を煽る野望に利用されてしまうことになります。

 「安倍暴走政権にどう立ち向かうか」と題した討論集会が10月31日、文京区民センターで開かれました。

 「戦争をする国」ゴメンシリーズの一環として、日本ジャーナリスト会議とマスコミ九条の会が主催し、「マスコミ・文化九条の会所沢」などの共催で開かれ、220人が参加しました。マスコミ九条の会の呼びかけ人の一人、桂敬一氏が司会を務め、第一部では次の3人の講師が問題提起を行いました。

一流紙にあるまじき行為

 元共同通信主幹の原寿雄さんは、「権力が隠したいもの、政府が隠したいものが隠されてしまっている。書かれたもの、放送されたものは誰でも批判できるが、放送すべきものが放送されない、報道されるべきものが報道されない。

 これどうしますか。批判の対象になりません。それが一番の問題です。東京新聞6月30日付けで、04年から08年にかけて、自衛隊がイラクに派遣され、サマワの陸上自衛隊基地ではロケット攻撃が13回、22発受けたといいます。航空自衛隊機がバクダッド空港到着直前に陸上からミサイル攻撃を受けているのです。陸上自衛隊から20人、航空自衛隊から8人の人が自殺をしていると報じました。私は自殺は怪しいと睨んでいます。

 自衛隊は紛争地には行かない前提ですから、戦死の規定がありません。いったい、どんな葬式をしたのか。弔慰金はいくら出たのか、この記事を追っかけた新聞、放送はありませんでした。4月16日にNHKのクローズアップ現代で、この問題を取り上げましたが、それでも記事にしたのは東京新聞だけでした。自殺で片付けるのは疑問があります。

 朝日の誤報問題はそもそも保守的な人とそうでない人が衝突するテ一マです。取り消したことは大きな事件です。

 読売や産経を先頭に、週刊誌も含めた朝日バッシング。特に週刊誌、節操がないというのか、私は新聞が書かないことを書く週刊誌を評価してきたのですが、いまは悪い面が出ています。国賊、売国奴などジャーナリズムが書いたり、放送したりする言葉ではありません。『反日朝日は50年前に返れ』は阪神支局が右翼テロに会ったとき、通信社に送られた犯行声明に書かれていた言葉です。あの時から50年前とは南京攻略の時代です。その時の朝日は陸軍を応援し、戦争を推進していました。その時に返れというのです。とんでもないことが起き始めていると思います。

 ウソの報道は取り消すのが当然です。それが朝日では遅すぎたのです。朝日バッシングは新聞がやるべきことではありません。読売は“千載一遇のチャンス”として、朝日新聞読者切り崩しに躍起になっていますが、一流紙にあるまじき品のない行為に走っているとの印象です。『読売は日本を代表する新聞になりたい』と渡邊主筆は言ってきました。それが、彼の夢なのです。読売新聞は安倍政権のサポーターだから、読売の読者には安倍政権に賛成する人が多いはずです。それが、サポーターを辞めて安倍政権を批判する新聞になれるのでしょうか、それが試されているのです。地方紙には読売、産経のような朝日バッシングは見当たりません。東京の人は、読売、産経、週刊誌の論調が主流と思い込みがちだが、それは誤解です。60年安保時の反対運動並の一大国民運動を展開する時期にきています」と提起しました。

メディアの役割は犬きい

 元NHKディレクターで武蔵大教授の永田浩三さんは、「10月15日にバッシングとジャーナリズムの危機と題して、この会場で大きな集会が開かれ、お話をさせて頂きました。朝日の現役の記者が3人登壇されて、力強いお話をされました。29日に、亡くなられた加藤周一さんの映画の上映会がありました。加藤さんの生前のインタビューを中心に編集した映画ですが、会場は立ち見が出て、数十人にお断りをする事態になりました。午前中は岡山でNHKがおかしい、何があるのかを知りたいとの要望でお話をしました。

 今年の1月25日です、NHKの会長が新しくなりました。その日の記者会見で籾弁会長は問題のある発言を繰り返しました。

 毎日新聞記者が質問した中に、慰安婦間題についてどう考えるかがありました。籾弁会長は戦争中にどこにでも慰安所があったと発言しました。国際放送では政府が右という時に左とは言えないと発言しました。どちらもひどい発言だったと思います。メディアの根本的役割である政府の暴走を監視することを放棄することです。公共放送のトップが発言したことを機会にNHKのOBが籾井さん辞めてほしいと立ち上がりました。籾井さんがなぜ選ばれたのかですが、去年の11月にNHKの最高意思決定機関である経営委員会のメンバーが入れ替わりました。安倍さんのお友達という方が5人入りました。過半数ありますので、安倍さんの意向がなんでも反映されるというNHKに変わってしまったのです。これをうけて籾井さんの一連のことがいまも続いています。

 原さんのお話にサマワの自衛隊員の自殺がありましたが、NHKの現場は戦争の傷跡には関心が高く、できるだけ伝えたいとの思いがあり、続けてきました。

 今年は14年、100年前に第一次世界大戦が始まり、この時、塹壕の中で兵士たちの異変がおきました。戦争神経症という病名が付きました。戦争の中で心が病んで、バランスを崩して、社会復帰が出来ない若者たちが、増えていきました。これを映像で記録していた人が様々おり、兵士たちの悪夢というNHKスペシャルがあります。少し長いバージョンにして衛星放送でも特集として放送しました。

 人が人を役割として殺すということは、非常に不自然なことです。そのことを国家によって無理矢理やらせることが、そもそもおかしいことです。人が人を殺すことには無理がある。私たちはそのことをよく知り、メディアはそのことをきちんと伝え続けなくてはならないと思います。

 安倍さんが議員になったのは93年と記憶しています。93年は河野官房長官談話が出された年です。2年前に韓国のキム・バクソンさんが実名で名乗り出ました。ここから世界が慰安婦問題を知ることになります。問題の吉田証言は80年前半です。私が慰安婦問題に取り組んだ90年前半には、すでに吉田証言は古証言なっていて、番組でも吉田証言を取り上げたことはまったくありません。私がNHKを追われた、改編事件の続きがいまなされていると思います。経営委員や予算は内閣が案を作って、国会で承認されます。時の政権に弱みを握られているのがNHKです。その中でも気骨のある番組やニュースが作られていきました。

 加藤周一さんは68年のプラハの春で、『プラハの市民の言動はソ連の戦車を追い返すには無力であったが、戦車の意味を明らかにするのに、言葉は有効だった』と言います。政府は沢山の情報を握っている、その中に、わずかに漏れ出しているものを掴んで、市民に伝える。政府、市民、メディアの関係において情報を持っているのは圧倒的に政府の方が多いが、その意義を読み解く力において政府が勝っているとは言えない、と加藤さんは話しています。情報を沢山持っている側が勝てなかった例をベトナム戦争で知ることができます。メディアの役割はまだまだ大きなものがあります」と語りました。

秘密保護法に萎縮するな

 産経・文春出身のフリージャーナリスト、斉藤貴男さんは、「安倍政権は常に戦時体制を必要としている。アベノミクスはグローバルな軍事力と自由貿易体制を維持し、広義の国益を追求する帝国主義の体質があります。

 暴走政権に対抗、秘密保護法に萎縮することなく、権力による逮捕者1号には1億円の賞金を出すなど一法ではないか。シャーナリスト一人ひとりが地道にきちんとした仕事を積み重ねていくことだ」と話しました。




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藤田博司氏の死を悼む

大事な時に、大事な人を失った 藤田さんと私のこと

丸山重威(元共同通信編集局次長)

 分厚い本、『ジャーナリズムとメディア批評の15年 1999年−2014年』が届いた翌日、藤田博司さんが亡くなったことを知った。「メディア展望」で読んでいたが、改めて読んでみようと思ったところへの訃報だった。講師に予定されていたJCJ出版部会の「朝日問題」集会もあったので、久しぶりにそこで会えるかな、と思ってもいた。

 

 1961年共同通信入社の藤田さんには、64年入社の私は3年後輩になる。研修の外信部の職場で、最初の泊まり勤務が初めての出会いだつた。春に大阪勤務から外信に来たばかりの藤田さんは、仕事の合間に地方取材の実際を話してくれた。それから、ざっと50数年。彼は外信、私は社会部で、一緒に取材をしたことはなかったが、いくつかの場面で交錯し、共同卒業後もいろいろ教えてもらった先輩だった。

 東京五輪が終わって、私が配属されたのも偶然大阪社会部。尼崎担当だったが、そこでも2代前の担当が藤田さんだったと知った。Kさんという捜査二課担当の刑事さんは、藤田さんが「開拓」した大事なソースだった。69年夏、私は東京に戻り、翌年、労働組合の新研部長や役員に引っ張り出された。その結果、いつだったか、組合の役員に推薦された藤田さんを委員長に、と説得して丁寧に断られたことがある。同様のことは何度もあったと思うが、ベトナム取材などの経験を知る外信以外の職場からの支持が高かった。

 ずっと経って、共同から出るニュースの最終関門の整理部長を一緒に勤めた。完全に時間で交代するので、並んで仕事をすることはなかったが、新聞を対象にしていた共同の出稿体制を、いろんなメディアに対応するようにする整理本部の改革案作りを一緒にやった。藤田さんはその後、論説副委員長に出て、私は局デスクに。岩波新書『アメリカのジャーナリズム』の出版は、その頃かと思う。新しい話が書かれていて、随分教えられた。

 まもなく、藤田さんは上智大学へ。上智の「時事問題研究」の講義のゲストに呼んでくれたこともあったし、日本記者クラブの「土曜サロン」では、あまり出席がよくない私にも丹念にメールしてくれていた。書いたものを送ると、必ず葉書をくれた。

 藤田さんは誰しも認める通り、「紳士」だった。結構「無頼派」的な先輩にも会ってきた私から言えば、「これが欧米スタイルなのかな」というハイカラな感じもあった。それが、つい自分の意見が先に出る私などとは違って、彼の「公正さ」を保証していた。社会部のOB会のとき、原寿雄さんと3人で話した。原さんが藤田さんの「マスコミ・文化九条の会所沢」での活動などを知って、「君がそういう時事問題にどんどん発言する人だとは思っていなかったよ」と、話していたのを思い出す。葬儀で佐藤信行さん、中田協さんの弔辞を聞いて、「昔からそうだったんだ」と、改めてわかった気がした。

 NHKを手中にした(?)政権とその支援勢力が、「こんどは、新聞だ」とばかりに、執拗な「朝日攻撃」をかけている。秘密保護法、集団的自衛権の容認、原発再稼働…といった強引な「改憲政策」の中で、ジャーナリズムをどう守り、国民の自由な発言を保障していくのか。みんなで闘わないと間に合わない大事なときに、大事な人を失った。

 心から、ご冥福をお祈りします。




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会員の訃報

藤家式次さん(所沢市中新井5丁目、90歳)が10月30日死去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。




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紹 介

●映画「約束」所沢で上映

「約束」は、1961年に三重県名張市で起きた「名張毒ぶどう酒事件」において死刑判決を受け、獄中生活を余儀なくされている奥西勝さんを描いた映画です。
 奥西さんは過酷な取り調べの中で自白を強要されたが、裁判では一貫して無実を叫び、判決確定後も獄中から幾度となく再審請求を行ってきました。奥西さんは現在、87歳の高齢となり、獄中で寝たきり生活となられています。
 司法権力の非道さを世に暴こうと、「約束」が作られました。
 奥西勝役を仲代達矢さん、その母・タツノ役を樹木希林さんら現代を代表する役者が演じています。
日 時:2月1日(日)午後2時〜4時
会 場:ミューズ中ホール
入場料:大人1000円 小中高500円
主 催:上映実行委員会
チケットは 市川治彦090−2537−1374 畑中繁080−1304−2232 大山茂樹080−2335−1987まで




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