機関紙11号(2006年3月10日発行)
増田れい子さんを迎えて熱気あふれる集会となった「結成の集い」から一年。この間、「講演会」をはじめさまざまな取り組みをおこなってきました。憲法九条をまもり、この所沢で「文化のかおり」がする運動をしたいという私たちの思いは、少しずつ実現し、運動のひろがりを実感できるようになりました。
とりわけ、今年に入って新たに60名の方が会に入ってくださり、現在、220名を超えるまでになったことは大変うれしいことです。さらに多くの方に呼びかけ、早期に300名を実現したいものです。
こうした運動をひろげていくうえで大きな原動力になっているのが、毎月発行している「ニュース」です。憲法をめぐる状況をいちはやくお知らせするためにマスコミ関連の著名な方がたに寄稿していただくと同時に、会員のみなさんの戦争体験や憲法に寄せる思いを縦横に語っていただき、毎回充実した紙面をお届けすることができています。そして、今回、四人の市議会議員の方から憲法への思いをメッセージにして寄せていただきましたが、今後の運動にとって大きな励みとなるものです。さらに会員のみなさんをはじめ多くの方に声を寄せていただき、もっともっと元気のでる紙面にしていきたいと思います。
昨年7月9日から新所沢駅頭で始めた「9の日行動」も定着してきました。チラシやニュースを配布し「九条の会」アピールの賛同署名をお願いしていますが、先日は高校生と約30分間、憲法や安全保障のことで意見を交わす場面がありました。九条は私たちの力だけで守ることはできません。多くの市民のみなさんといっしょに九条をもつ意義を考え、ひろげていくために、ぜひ多くの方が参されるよう訴えます。
「映画上映」「うたごえ喫茶」「九条連凧揚げ」など、会員のみなさんの提案で実現したイベントも多くありました。これからも、もっともっと「文化のかおり」がする手づくりの企画を実現していきたいと思います。元気に楽しく運動をしていきましょう。
機関紙11 もくじへ(編集部からお願いしました。到着順に掲載します。)
脇 晴代 (所沢市議会議員・共生・無所属)
戦争はしてはいけないのです。世界中の人たちがお互いを尊重し、理解して暮らしていくことが大切です。まずは個人の権利が大切にされなければなりません。基本的人権と、戦争の放棄をうたっている憲法を大切に守りたいです。現在の社会情勢を憲法の理念に合わせていく努力をしたいです。
母がなくなって、遺品を片付けていたら、私の妊産婦手帳が出てきました。ぽろぽろのわら半紙一枚ぐらいの大きさで八つおりになっていました。妊婦の心得に「立派ナ子ヲ生ミオ国ニツクシマセウ」とあり、〔物品購入表]の欄には焼麩、味噌五ケ月、牛乳一日一合一ケ月、オムツにするさらしも配給、などとあります。私の生年月日は昭和19年9月26日です。母は大きなおなかで防空壕に避難するのはほんとにいやだった、といっていました。敗戦になって、これで夜も明るくしていられるとおもって、本当にうれしかったといっていました。いろいろな思い出話をたくさんしてくれた母でしたが、この妊産婦手帳のことは見せてもくれず、話もしてくれませんでした。思い出したくなかったのでしょうか?お国のための子育てナンテおもっていた自分がはらだたしかったのかしら。想像するしかありません。
平井明美 (所沢市議会議員・日本共産党)
先日、ナチに抵抗し処刑された大学生ゾフィーの半生を描いた「白バラの祈り」という映画を見ました。主人公のゾフィー・ショルは21歳で兄と一緒にナチ政権に抵抗する「白バラ」というグループの一員です。ある日、戦争はやめるべきだというナチヘの抵抗を呼びかけるビラをミュンヘン大学てまき、拘束されてわずか5日後に処刑されたという映画です。その五日間をゲシュタポの取調官モーアとゾフィーの尋問のやりとりが中心に描かれています。最初は容疑を否認していたのですが、取り調べの中でナチに対する怒りが大きくなり、信念を固めていく彼女の心の変化が見所です。取調官のモーアが彼女の筋を曲げない意志に感動し助けたいと思い助言を申し出ますが、ゾフィーは「世界の見方がおかしいのはあなた方で、私は国民に最善の事をした。後悔はしていない。結果を受け入れる覚悟がある」と言い切るのです。このセリフは尋問調書そのままだそうです。
現代でもチラシを配っただけで逮捕された事件など起きています。「日の丸」、「君が代」まで強制しようとする現代は、まるでヒトラーや日本の軍国主義の再来のような危険を感じます。このような時代に後戻りさせないためにも「言論の自由・思想信条の自由」を封じる些細な事にも私たちは敏感になることが大切です。憲法九条は平和の問題として諭じられていますが、その根幹は基本的人権の尊重にもつながる大切な憲法だと実感しました。
当麻 実 (所沢市議会議員・民主党)
この2月、所沢市長生クラブが「平和祈念体験文集」を発行した。
戦争の体験世代が、後世に語り伝えたいと「集団疎開」「空襲」「軍隊生活」「敵潜水艦による魚雷攻撃」など、記憶をたどりながらつづっている。
戦争体験を語りつぐということは、簡単ではないだろう。一昨年私は沖縄南部にあるアフチラガマを訪ねたことがある。詳しくふれられないが、この洞窟内では阿鼻叫喚の地獄がくりひろげられた。戦争は人々の心のなかに何を残したのだろう。戦争中の惨禍を「思い出したくない」と口を閉ざして、亡くなる体験者は多いという。それだけ戦争は人の命だけでなく、人々の心を痛めつけたといえる。
私自身、父母から戦争中の話をとうとう聞かないままに終わってしまった。体験者が重い口を開かないと、語るものがいなくなる。この地球上で、戦争ほど悲惨なものはない。
いま自民党は、平和憲法9条を「自衛軍の保持」に変えようとしている。この動きを許してはならない。
機関紙11 もくじへ今月の「所沢の人を訪ねる」は、下山口駅近くにお住まいの彫刻家・藤原秀法、布絵作家・藤原絢子ご夫妻をお訪ねしました。知床に近い、北海道の小さな町、斜里町にある「小さな北のアルプ美術館」の入口で、笛を吹く少年と共に、美術館をそおーと見守るように立っているのが、藤原秀法作「北の裸婦」です。楽しい時、怒りの時のすべてを察しているかのように…。
▼ご出身は北海道ですか。
▽北見地方の紋別郡生田原というところです。戦争中のことは、機関紙に少し書きました。私の八人兄弟の長兄は、召集されて、昭和18年、タラワ島で戦死し、遺骨も帰って来ませんでした。3番目の兄は、小学校高等科を卒業してすぐ、土浦海軍航空隊の予科練に応募し、その後、特攻隊に志願し、出撃を待っていたが、敗戦の方が早かったので生きて帰れました。兄たちは天皇のため、お国のためと信じて勇んで出征していったように、幼かった私は記憶しています。
兄弟のうち、兄たちの援助もあって、私一人だけが、東京の大学に進学できました。教育大の哲学科(現筑波大)を受験しましたが、これは失敗しました。予備校にも通わず、翌年に東京学芸大学美術科(彫刻専科)に入学しました。62年には専攻科を終了して、東久留米市や東村山市の市立中学校の美術の教師として、教えてきました。
50歳で退職し、その後2年間の東京大学附属中高等学校の美術科講師を最後に、創作活動に専念しました。兄たちの知らなかった、学生生活の中で、60年安保闘争を経験し、自分の為すべきことを考え、いまは珠玉の憲法九条を守る立場に一貫して立つ決意です。彫刻を制作できる条件ができ、公募展では、31年前に日本アンデパンダン展と平和美術展の両方に出品しだして、ずつと今に至っています。かみさん(絢子夫人)は、学芸大の同級生で、板橋区で美術の教師、清瀬、東大和で小学校教師をしてきました。
▽いまは休んでいます。教員のころ、宮脇綾子さんの「布きれの芸術」という画集に出会い、退職したらこんなことがしてみたいと胸にしまい込んでいました。再びその本を手にしたとき、ボンドで貼るだけならわたしにもできると思い、押し入れの中から、引っ張り出した古布を使い、のれんを作ったのが始まりでした。93年から94年にかけて、何かを吐き出すように制作に集中しました。その頃の作品は、後のものに比べ未熟なのですが、私にとって特別な思いがあります。96年には、夫(彫刻)と二人展を開き、作品の多くは、「布きれの絵」に収録しました。
▼彫刻の難しいところは。
▽絵は平面ですが、彫刻は、ぐるり360度回して見て、それで、良くなくてはならないのです。当然、上からも見られます。そこが違うところかな。私の彫刻は、木材や針金で芯棒を作り、粘土をつけて作る塑像です。完成後は石膏屋さんに来てもらい、雌(め)形(外形)を石膏でとってもらいます。石膏屋さんは、その雌形を自分の工房に持ち帰り、内側にプラスチックとガラス布を張ったり塗ったりして、このような彫刻にしてもらって来ます。FRPといって、モーターボートの材料と同じですね。
▼彫刻の原点は仏像でしょうか。
▽私の作るようなものは埴輪でしょうね。粘土で作ったテラコッタ(素焼き)です。奈良の大仏は、原型はこれと同じ塑像ですが、芯を木の骨組みで作り、土で形を作り、表面近くには鋳物砂を入れた粘土をぬって作ったといいます。それから鋳物砂を固めた粘土で外型(雌形)を作り、それをはずしてから原型を鋳物の厚みだけ削って、その隙間に溶けた青銅を流し込んで作ったのです。八段ぐらいに分割して、ちょっとずつ作ったのでしょう。
「大仏建立物語」という、教え子の父親(神戸淳吉)の、子ども向けの本に書いてありました。こういうものを作れたのは、やはり、中国などからの渡来人の技術でしょう。
いくつも作るのは、大きいものでも、原型をFRPで型取ればブロンズ屋さんが作ってくれます。この程度のブロンズ像(縦52センチ程度)なら、何個でも出来ます。でも、作者の気持ちとして、せいぜい5個までですね。昔、永年勤続てもらった船越さんのブロンズ小品は、何万個も作られだそうです。他人にやってしまったけど…。50歳の時に教師を辞めて、制作三味の生活になりました。退職金を注ぎ込んで、それでも足りず、女房の退職金まで使いました。彫刻は、モデル代、石膏屋さんの型取り代、ブロンズにすればその鋳造代、作品を設置するための石代が必要になります。この程度(縦52センチ)のものでも70万円の値を付けます。そうしないと赤字になります。
これまでに作ったもので、大きいのは石神井の旧家から、おじいさんとおばあさんの等身大より二割り増し立像の注文でした。本人は亡くなり、写真だけなので、モデルが必要になります。そこで、寺島幹夫さんに、袴をつけてモデルになってもらいました。その像は、今でも石神井の自宅の庭に二人仲良く立っていますよ。
制作費と生活費は区別していますが、制作費がだんだん残り少なくなってきました。モデルに孫も動員しています。郷里の生田原の公園や学校にも、作品があります。お金は貰ったんですが、費用がこれだけ掛かりましたと言っても…、上乗せしているように思われて、北海道を行ったり来たりで交通費で赤字になりました。
彫刻一つが大御所の場合は、数千万円の値段です。僕の場合でも、この芸術家年鑑には、480万円の値段が付いていますが、これは年鑑の上だけのこと、こんな値で売れてくれればいいんですけどねえ。
▼これだけは伝えたいことは。
▽作品がだんだんできていくと、上から見たり、下から眺めたり、快感が生まれます。私のように具象の場合は、「形は良いが、テーマ性が弱い」なんての批判に合いますよ。具象でテーマ性を強調しすぎると、ヒトラーの像と同じになります。首の角度、視線、手の位置、向きで、表現が大きく変わってきます。仮に手を上げたポーズでは、やはり宣伝くさくなります。いつも、深いところで表現しょうと心がけているのですが、そこが具象作品の難しいところです。
僕は教員が長かったから、一年目から「教え子を戦場に送るな」です。そして、子供たちには「みんなで長生きすることだ」と教えてきました。現実には、長い人もそうでない人もいますが、戦争はそれを認めません。だから、九条を絶対守り、戦争をする国にしてはなりません。
1937年北海道紋別郡生田原村に生まれる。61年東京学芸大学美術科(彫刻専攻)卒業。62年専攻科修了。62〜88年東久留米、東大和、田無、東村山の市立中学校美術教師を歴任。日彫展、前衛美術展、平和美術展、埼玉県美術展などに作品発表。夫人の絢子さんは、東京学芸大学の同級生。
機関紙11 もくじへ橋本 進 (横浜事件再審裁判を支援する会事務局 日本ジャーナリスト会議 JCJ 代表委員)
2月9日、横浜地裁で松尾裁判長が、横浜事件再審(第3次請求)の判決として、「免訴」と口にしたとき、私は呆気にとられた。請求人・弁護団はもちろん、傍聴席の全員がそうであった。なぜならこの再審法廷のきっかけとなった東京高裁判決(05年3月10日)は、きわめて明確に特高警察の拷問を認定、虚偽の自白にもとづく有罪判決を強く疑うものだったからである。そのうえ、地裁は判決の前に二度も公判をひらいた。関係者が無罪言い渡しを確信したのは当然であった。
判決は特高拷間の事実は認めるが、免訴事由がある場合、再審法廷は有罪・無罪の判定は許されない、と形式的法律諭を並べ、何ごともなかったことにする「免訴」を結論とした。要するに横浜事件の本質に一歩でも踏み入ることを回避したのだ。
横浜事件の本質とは何か。日本軍国主義は戦争遂行のため、治安維持法と特高をフルに使い、あらゆる反戦の動きを圧殺した。あげくは人間の内面にまで踏み込み、反戦の意思をもつであろうと疑った人びとを検挙し、拷問を加え、「共産党再建準備事件」を次つぎと捏造していった。裁判所は握造をそのまま承認、有罪判決を下していった。
今次再審に期待されたのは、このような国家犯罪を解明し、過去の誤りを是正することであった。過去の誤りの克服は、「戦争と暗黒の時代」再来の防止の保障である。これが横浜地裁に課せられた責任のはずだった。
いま憲法第九条改悪をいう人びとには、日本の過去の戦争や権力のあり方に目をつぶり、美化さえする人びとがいる。「大東亜戦争はアジア民族独立の役に立った」などという人がいる。それでは当時、日本の指導層はアジア諸民族の自立・自主を尊重せよと情熱をこめて説いた論文、細川嘉六「世界史の動向と日本」を敵視し、共産主義的啓蒙論文ときめつけ、発禁にし、筆者や編集者を投獄したのはなぜなのか。
第3次請求人・弁護団は控訴した。第4次請求に対する決定も間近いと見られる。第4次申し立ての理由は、1.重要部分の「握造」を当時の裁判所ですら認めざるを得なかったこと、敗戦前の予審終結決定で、「泊会議」を中軸としたのに、敗戦後の判決では完全に削除している、2.細川論文はアジア民族尊重の論文であり、共産主義啓蒙を目的としていなかったこと(荒井信一、今井清一、波多野澄雄教授の鑑定書付)等である。
今後とも横浜事件再審運動に注目していただき、ご支援をお願いしたい。
(「横浜事件再審裁判を支援する会」事務局電話03・3291・8066)
機関紙11 もくじへ少し古くなったが、朝日新聞が発行する月刊「論座(二月号)」で、読売新聞主筆・渡辺恒雄氏と朝日新聞論説主幹・若宮啓文氏の、「共闘宣言」と題した対談が話題を呼んでいる。渡辺氏といえば、なうての改憲論者として知られるが、学生時代に二等兵で召集され、奴隷的に酷使された、自らの戦争体験から、「戦争責任の所在をはっきりさせ、加害者である軍や政府首脳の責任の軽重を問うべきだ」と、正論を吐いている。さらにほこ先を靖国神杜に向け、「靖国神社本殿の脇にある、遊就館がおかしい、軍国主義をあおり、礼賛する展示品を並べた博物館を、靖国神杜が経営しているのだから、そんなところに首相が参拝するのはおかしい」とまで、言及している。さらに、読売新聞の主張をはっきりさせるため、05年8月13日の紙面から、靖国参拝問題を前に、戦争責任の所在を明らかにするキャンペーンを始めたという。重慶の無差別爆撃を得意げに展示しながら、中国に対して「首相の参拝に文句を言うな」は失礼な話(朝日・若宮発言)と、両者は軌を一にしている。
憲法改正ではすれ違いだったが、戦争も知らずに机上の空論で「改憲」を軽く叫ぶ若い政治家たちに読んでもらいたい対談ではある。右に傾きすぎた読売の論調を少し軌道修正したいとのことだろう。読売が小泉と距離を置き始めた証左でもあるが、渡辺氏の最終目標が、改憲にあるのは間違いないだろう。その実現のために「過去の清算が不可欠」との認識ではなかろうか。坂本弁護士が集会で発言したように、「ならば、読売は改憲論調をやめろ」と言いたい。
(K)
自民党の憲法草案も大きく報道され「改悪」を前提とした国民投票法案を今国会で可決しようとする動きが、いよいよ現実味を帯びてきました。
そこで「身近なこの町でも憲法を守り、平和を守る活動をしよう」と、1月13日「なみき・こぶし九条の会」が発足しました。私たちの会は、毎月、第4月曜日午後1時30分より、「わかば」で、誰でも自由に参加し、自分の思いを語り、学び合っています。次回3月27日は、「国民投票法案」について一橋大名誉教授・浜林正夫さんに、やさしく解説してもらいます。是非ご参加ください。この会の代表世話人は、玉嵜勝也さん2998・6049です。
機関紙11 もくじへ「マスコミ・文化九条の会所沢」(勝木英夫会長)は、2月、坂本修弁護士(自由法曹団団長、東京法律事務所)と、女優の谷英美さんを迎え、「輝かせよう!憲法九条」と題した憲法講演会を開ました。会場の小手指公民館別館には、会員、学生、市民など220人が参加。沖縄戦の集団自決の体験を今は年老いた母親が語る珠玉の短編「ウンジユよ(あなたさまへ)」の朗読(谷英美)と坂本弁護士が「『戦争をする国』は人間を踏みにじる」と題して講演を行いました。
労働弁護士生活47年の坂本氏は、私たちが努力して守り、生かしてきた憲法が、いま正念場を迎えているとした上で、「自民党の新憲法草案の表現はソフトになっているが、これは目くらまし。内容が『自民党らしくない』と党内の反発を受け、リバウンドした第二次案が準備され、いっそう、過激で露骨になっている」と語りました。
そして、その自民党の戦略に対して、私たちは、どう対応するのか、それに展望はあるのかについて、坂本弁護士は「小泉内閣の『突風的勝利』で、改憲策動が早まり、改憲のつゆ払い立法の国民投票法の上程や、三党改憲案のすりあわせが進められている。民主党の危険な「すり寄り」(前原代表発言)には、党内の強い批判や規制緩和の本質がライブドア問題で浮き彫りになるなど、小泉政策に国民の批判が強まっている。
『戦争をできる国』にするために、07年の国民投票を狙っていることに変わりはない。本当の中身は『アメリカとともに海外で戦争をする国』を目指している。アメリカが行動を起こせば、いつでも、どこでも日本の軍隊が一緒に『戦争をする』ことになる。世界に類のない、非戦の思想は世界の歯止めになっており、九条は立派に役にたっている。だから変えようとするのだが、世界で二位の武装力を保持しても、九条二項があるかぎり、海外で武力行為はできない。だから、変えて『戦争ができる国』に改憲するのだが、それは、国民の自由と民主主義、人権を奪うことになり、改憲のあとには、悪法がゾロゾロ出てくることになる。徴兵制や動員令が可能とする立法、そして教育基本法改悪をはじめとする国による『心の支配』が強化される。
こうした策動に対して、いま、草の根の反撃が始まっている。多様な人々と共同の輪を広げ、改憲の危険性を訴えることで、膨大な力となっていくだろう。改憲阻止したときこそ私たちの人生とこの国の未来と新しい人生『もう一つの日本』がそこから始まるだろう。未来を決めるのは私たちだ」と語りました。
講演の要旨を紹介します。
子どもの時に敗戦を経験し、憲法も生まれ変わり、二度と戦争をくり返してはならないとの認識から、この憲法を守る立場に立つ弁護士になろうと決心した。パート1では、改憲ということが、どのくらい「悪」なのかということと、「憲法を変えようとする人たちは、何を私たちに押しつけようとしているのか」。パート2では「私たちは何を持って対抗するのか」、「その勝利の展望はあるのか」を話したい。憲法を守り抜き、その憲法が力を持ったときに、私たちの未来にどれほどの光が輝くことか。大きく分けて二つのテーマで話しをしたい。
自民党の新憲法草案は、自衛軍は認めたが、集団的自衛権はどうなのかなど、公明、民主への歩み寄りから、妥協、協調が目立ち、党内では、あまりにも評判が悪かった。きつい言葉は隠して、「もっと本音を出したい」、「自民党らしさが欠けている」との指摘から、一次案にリバウンドしたのが、二次草案だ。
リベラルな議員も多くいる民主党だが、「中国脅威論」や「海外に自衛軍を派遣するために九条二項を変えたい」と、自民党を上回るタカ派発言の目立ち、党の内実もメールの真贋でガタガタ。自民党からは、「これ以上、前原を追い込むな」との声も出るほど、動きは錯綜している。
しかし、私たちは政治評論家ではないので、右や左を見ないで、自民党を中心とする改憲勢力のタイムスケジュールが07年に「国民投票法案の成立」を目指していること、それをにらみ、どんな運動をしていくのかをきちんと論議していけばよい。
改憲の柱は「戦争ができる国」にしていくことで、単にそれは、「自衛のための戦争」に止まらず、「アメリカと一緒に海外に出て戦争ができる国」にすることを目的としている。そのために人を殺して、殺されるための「改憲」なのだ。
九条二項が日本や世界の平和の歯止めとなってきたが、この歯止めを除去し「牙」を生やそうとしている。世界の平和のために、日本国憲法九条二項が役に立っているからこそ、それが邪魔で変えようとすることが、改憲派の狙いだ。他国に行って他国の軍隊と一緒に戦争をすることは、現行憲法下ではできないことだが、それを可能にしようとすることだ。
国や国民を守るという目的のほかに「国際社会の平和と安全を確保するため」に、「国際的に協調して行われる活動及び緊急事態」などの言葉を使っているが、これは、ブッシュ米大統領のイラク戦争の口実と一緒のものである。「国際協調」の名目で自衛軍が海外に出るという以外に自民党の草案は読みようがない。すぐ分からないように言葉をはめ込んだのが二次草案で、「この国に帰属する国民は愛情と責任感と気概を持って国防の責務を負う」とあるが、大きなお世話だ。これほどひどい表現はない。これでは、戦前の天皇制憲法と同じである。
国家秘密法が国会に上程された20年前を思い出す。あんなひどい法律も国民的運動で廃案にさせることができたが、憲法が改正されれば、それを支え促進させるための悪法がゾロゾロと出てくることになる。
徴兵制はとらない、非核三原則は堅持すると言ったが、何の説明もなく抹消している。徴兵制はとる、非核三原則は破るという選択肢を握っておきたい証左である。憲法を変えるということは、悪法ゾロゾロのパンドラの箱を開けることになる。
「戦争をする国」にする改憲は、国民の自由と民主主義や人権を奪う。もう一つは「バター」も奪う。「戦争をする国」はお金がかかる。だから、消費税の引き上げや社会保障の切り下げなどの問題が出てくる。その例がアメリカだ。もう社会保障はメチャクチャ。健康保険が使えない国民が4800万人ともいいます。カトリーナ台風被害がアメリカの惨状を証明する事柄だ。堤防が危ないと知っていながら、戦争には金をかけるが、住民の命を守ることには使わない。州兵をイラクに持っていくから、住民を助ける軍隊もいない。これも戦争被害だ。
憲法二五条の「人間らしく生きる権利」は、大事な条文だ。草案では、政府が国民に対して責任を負うのではなくて、サービスのような条文に変えた上で、返す刀で、「その責任は国民が分担しなくてはならない」と、こっそりと地方自治の中に入れている。自治体の自己責任でやりなさいというが、脆弱な自治体は社会保障を切り下げるしかなくなる。格差が拡大するばかりだ。
自民党が狙っているのは、「アメリカと一緒に海外で戦争ができる国」なのだから、甘い認識ていると、とんでもないことになる。改憲が通れば、その遂行のために、全ての法律が変えられる。自由もなければ、民主主義もなくなる。こうした集会で自由な癸言も抑制されることになる。
国会の議席は改憲派が圧倒的だが、世論は違う。世論調査では、たしかに改憲に賛成という人が6割から7割を占めるが、九条改憲に反対する人は過半数を超えている。さらに、「米軍らとともに戦争をする」に賛成する人はわずかに4%(NHK)しかいない。
メディアを見ると、読売や産経は明確に改憲の論調だが、朝日、毎日は、これとは少し異なる主張だ。ハッキリしているのは東京新聞。さらに、ブロック紙、地方紙には圧倒的に憲法改正反対派が多く、発行部数で比較すると6対4で、護憲・慎重派が勝ることになる。
マスコミに頼って止められるものではないが、本当に私たちは改憲をくい止められるのだろうか。「米軍らとともに戦争をする」に、賛成な人はごくごく少数なのだから、改憲の目的が「米軍と一緒に海外で戦争をするため」だと、私たちが周りの人達に説明することができたら、国民投票でも圧倒的に勝利することができる。世論調査の悩ましい数字の中に、いま直面している情勢があるんだということと、「憲法を変えてもいいしと思っている人と真剣に向かい合う必要がある。どんなひどい改憲を自民党が目指しているかということを暴露することである。
ではどうすれぱいいのか。「青い鳥」は我が手にあるのです。まず宝のような条文がいくつもある、日本国憲法の輝きをつかみとること。そして、「九条の会」の、9人の著名人の奮闘、全国の講演会を見事にやり遂げました。細胞分裂のように月に150の「九条の会」が生まれている。政党間の問題、ナショナルセンター、単産、地域とまだまだ克服しなければならない問題がいろいろあるが、どこかの組織決定ではなく、自分たちで何をするかを考える、戦後の歴史の中で、例のない運動が展開されている。そのことが信じられないような共同を引き起こしてる。改憲に反対しているのは、私たちだけではなく、元自民党幹部、財界人、言論人、文化人と、大勢の人たちが「反対だ」と声を挙げている。そういう人たちと手を取り合って、改憲阻止したときこそ、私たちの人生と「もう一つの日本」がそこから始まる。私たちの「夢」の実現を。
機関紙11 もくじへ馬籠正雄 (若狭在住)
「三ケ島九条の会」24名は、2月11日、茨城県小川町にある航空自衛隊百里基地のど真ん中にある「一坪運動」の平和公園で催された、初牛祭に参加しました。
百里基地は、昭和31年に首都圏防衛の為に計画され、百里の農民達は、営農をしながら50年もの間、反対闘争をしてきました。そして、半世紀も経った今日、新たに米軍機による訓練基地にされようとしています。
「初午祭」は今年で40年。今回は「米軍のF15はくるな」と500人が集いました。基地ができても百里の農民たちは二つの闘いをしてきたのです。その一つは「一坪運動」で、基地内にある1500坪の土地を、全国の仲間が一坪ずつ地主になり、誘導路を「くの宇」に曲げて基地機能を半減化させてきました。
二つめは「百里裁判」で、自衛隊の違憲性を31年間にわたって追求してきたのです。この二つの闘いは、どちらも「憲法九条」があるからこそ出来たことで、「憲法九条を身体を張って守ってきたのが百里の農民達」なのです。
私が初めて百里基地に行ったのは、昭和41年2月4日の「初午祭」で、基地が出来てもなおどのような反対運動をしているのかを知るためでした。以来、100回程農家に泊まり込み、支援しながら農民達を撮影してきました。
すでに1990年の安保地位協定により、日米共同使用が開始されていますが、今回の訓練飛行は、その範囲を超えるものであり、断じて許すことは出来ません。参加者からは、「50年の親子二代の闘い、世界に類のない「くの字」の誘導路も九条があるからなのだと実感しました」、「『憲法九条は皆さんです。自分自身を守るのも憲法九条です』の言葉に感動しました」、「参加して良かった。『くの字』はまさに憲法九条の証なのですね」などの声が寄せられました。
広大な基地を目の当たりにし、半世紀もの間「戦争を二度としたくないから」と淡々と語る農民達の凄さに、参加者全員が感動しました。
「三ヶ島憲法九条の会」は、九条を守るため、更に運動を発展させようと誓いあいました。
機関紙11 もくじへ鈴木和翁 (中新井在住)
収容所生活が始まって一ケ月ぐらい経ったある日の夜中、とんでもない事件が発生した。保案隊員に案内されたロシア兵が、夜中の12時過ぎに居住地の家屋に侵入し、銃を突きつけて女性を強姦し去っていったというのである。翌朝早々から大騒ぎになった。長時間、対策がいろいろ相談され、日本人会の役員が保案隊に出向いて折衝が持たれたりしたが、ロシア兵が来ないという保証は得られなかった。
若い娘を持っ親たちは、娘への被害をどう防ぐかにっいて相談を重ねた。私たちの家族には下が女学校1年生、上が女学校4年生の二人の娘がいた。下はともかくとして、早速、上の姉は頭を丸坊主にされ、男物の服を着せられ、帽子を目深にかぶされた。床下に穴を掘り、畳にひもを付け、ロシア兵が戸を開けて入って来る前に、畳を引き上げて床下の穴に飛び込むという自衛策が講じられた。
ロシア兵はその日の夜中に、今度は数人でやってきて、女を犯して帰っていった。翌々日も同じことがくり返された。その3日間の間に親たちの間でどのような相談が交わされ、対策が練られていたのか私は知らない。4日目に入って、ようやく対応策が明らかになってきた。日本人会の役員が向こうへ持っていく案は、「ロシア兵が来るのは困る、こちらから出向く」というものであった。しかし、ではだれを行かせるかがまた問題になった。長い一日が終わろうとする夕方遅く、数人の出征兵士の奥さんが人身御供になることが決まった。その夜からロシア兵の訪問は止んだ。同時に、親たちの話題の中心を占めていたこの問題は、この日を境に二度と話題にのぽることはなかった。
この年の冬はことのほか寒く感じられ、お正月も淋しく終わった。しかし、春の訪れとともに、みんなの中に「これ以上は待てない。一日も早い帰国を」という気持ちが強まっていった。このころの私たちの経済状況は、食費にも事欠く始末で、もうこれ以上は待てないぎりぎりのところに追いつめられていたという事情も作用した。
帰国嘆願署名がくり返され、陳情が連日のように行われたが、事態は一向に進展せず、いたずらに時間が過ぎていくように思われた。「日本へ帰る」「日本へ帰ろう」みんな焦っていた。
昭和21年4月28日の夕方であったと記憶するが、「お知らせ」は突然やって来た。それは、「特別に貨物列車を用意し、三十八度線近くの駅まで搬送する。その特別列車はあくまでも貨物の輸送であるから、日本人が乗っていることは絶対に悟られてはならない。車内では音を立ててはならない。出発は4月30日の未明」というものであった。
(次号に続く)