機関紙12号(2006年4月8日発行)
島田三書雄 (元東京新聞社会部次長)
61年前の1945年3月10日午前零時過ぎから夜明けにかけて、小学校6年生の私は、東西南北どの方向を見ても燃え盛っている火と煙に囲まれて、家の前で一晩中、立ち尽くしていた。唐紙障子がめらめらと燃え上がりながら、屋根より高く舞い止がっていくのを、あっけに取られて眺めていたことを思い出す。「絶対に動くな」と、2歳上の兄と私の二人に厳しく命令した父の声が今も耳に残る。夜が白みかけるにつれて火勢が衰え、「もう寝ろ」と父に促されて布団に転がり込み、泥のように眠った。母や弟妹は当時、栃木県に疎開していた。私は卒業式と中学受験のため、茨城県の集団疎開先から帰ってきたばかりだった。
私の家は東京都向島区西4丁目65番地、二階建て借家だった。今の墨田区北部に当たる。記録によると、当夜の死者は本所区2万6960人、深川区2万2729人、浅草区1万4049人、城東区1万3792人、向島区1700人。
300機を超えるB29爆撃機が当夜、集中的に焦土爆撃を加えたのは本所、深川、城東、浅草の4区で、ほぽ全滅。向島区は焼失率57%、死者は最少だった。
翌朝、周辺の家々はどこも焼けていないのを見て、あの大火がウソのように思えた。南の方へ5分足らず、東武亀戸線の方へ歩いていった。ふと目を上げ、あっと声にならない驚きの声を上げた。見渡す限り何もなかった。
びっしり建て込んでいた家々が一夜で忽然と消え、一面の焼け野原が広がっていた。据え付け金庫が所々に、墓石のように黙然と立っていたのが目に焼きついている。
数日後、焼け跡を隅田川まで歩いた。隅田公園の土手の上に、大きな土饅頭が延々と連なっていた。聞いてみると、言問橋の上、隅田川の中、川岸などに累々と重なり倒れていた無数の遺体を収容し、仮埋葬したという。後年、隅田公園の桜を目にするたびに、私の脳裏に土饅頭の長い列がよみがえる。爛漫と咲き誇る桜の精は、3月10日の猛火に焼かれた霊たちの思いを、私たち生者に語りかけているように思える。
後年、早乙女勝元さんの『東京大空襲-昭和20年3月10日の記録』(岩波新書、1971年1月28日第1刷)が発行され、目次の次に掲げられている「江東地域消失図」を見て愕然とした。東武亀戸線のすぐ北側に消失を免れた、やや細長い白い部分があった。その白い部分の真ん中の地点こそ、私が一晩中立ち尽くしていた、まさにその場所ではないか。ほんの少し風向きが違えば、私たちは完全に火の真っ只中に放り込まれていたに違いないことを知らされた。
私の頭上に落ちる爆弾は尽きていたさらに後になって、1985年1月・東京大空襲40周年記念行事実行委員会による「戦災焼失区域表示帝都近傍図」(4万分の1)を手にして、私の家の位置がさらにはっきりと分かった。幅700メートル、長さ1800メートルほどの斜めに傾いた非焼失地域のまさに真ん中だった。この部分が北東に傾いているのは、まさに当夜の北東の強風と一致している。
当夜、B29がかなり低空まで降下してきて、頭上を飛び回っていたことを思い出す。本所、深川に焼夷弾を落とし尽くして、私の頭の上に落ちてくるべき焼夷弾は尽きていたのだ。
今、イラクでの米軍による無辜の市民の虐殺を考え、「米軍再編」のごり押し、憲法九条二項の戦力不保持、交戦権否認を削除する自民党新憲法草案を前にして、私は隅田公園の桜たちが語りかけてくる声に耳をすませたいと思う。私の長女が孫を3人生み育て、二女は初めての子どもを間もなく生む。この孫たちに、戦争の火など絶対に見せてはならない、と願う。
機関紙12 もくじへ5月9日、大宮ソニックシティー
大江健三郎氏ら9氏による「九条の会」が、5月9日に、さいたま市大宮区の大宮ソニックシティー(大宮駅下車、西口より徒歩3分)で「九条の会埼玉講演会--憲法九条、いまこそ旬」を開催します。
講演会では、大江健三郎、加藤周一、澤地久枝の3氏の講演を予定しています。
「埼玉講演会」を成功させるために、石井節子(埼玉県地域婦人会連合会顧問)、遠藤順子(弁護士)、大田纛(東京大学名誉教授・教育学者)、加藤克巳(歌人・元日本歌人協会会長)、金子兜太(俳人・芸術院会員)、谷大二(カトリックさいたま教区司教マリセリーノ)、旦保哲夫(真宗大谷派・宗泉寺住職)、肥田舜太郎(被爆者・医師)の8氏が呼びかけ人になっています。
講演会の参加費は1000円です。事前に郵便振替(口座番号00180-51501669 口座名称 九条の会埼玉講演会事務局)に振り込むほか、現金書留でも受け付けます。入金を確認次第チケットが送られてきます。申し込み・問い合わせは、〒330-0063さいたま市浦和区高砂2-3-10黒澤ビル3F 九条の会埼玉講演会事務局 TEL 048-824-0094。このほか所沢地区分会館でも(TEL 2992-9927)常任幹事の佐々木征さんの厚意で、現金と引き替えでチケットを購入できます。
機関紙12 もくじへ市岡 彰 (「平和恵法を守る岩国の会」事務局長)
「勝った!勝った!(米軍機移駐・岩国住民投票)」厚木基地の米空母艦載機部隊(57機)岩国移駐の賛否を問う住民投票日(3月12日)の午後4時過ぎ、「受け入れ反対に○をする会」の事務所は涙と拍手に包まれました。投票率速報が50%を超えた瞬間です。
今回の住民投票の最大の焦点は投票率が50%を超えるかどうかでした。安倍官房長官や二井山口県知事、地元保守系市議や財界挙げての投票ボイコットを打ち破ったのです。投票結果は「移転反対」が4万3433票(87・4%)の圧勝。しかも、重要なことは全有権者9万4659人の過半数が反対したことです。
岩国市民の良識を示した歴史的勝利の裏側には、様々なドラマがありました。宗教者を中心とした「住民投票を成功させる会」(大川清代表・牧師)、女性を中心とした「岩国への空母艦載機部隊と夜間発着訓練(NLP)移転反対市民の会」(河本かおる代表・主婦)、井原勝介市長の後援会「風の会」、そして私も参加した「反対に○をする会」など多彩な市民活動がありました。「ありがとうございます」と言うと、逆に「私たちこそ感謝しています」と言われました。草の根の運動が様々に浸透し、無数に動いていたのです。市民三団体が最終盤で開いた合同集会は大きく盛り上がりました。基地問題で、保守的な人たちをも含めて共同運動が広がったのは、岩国市では画期的なことです。全国・全県からの激励・支援が勝利を導いたのは言うまでもありません。
多くの妨害にも負けずに「住民投票」を決断した井原市長の英断にも拍手を送りたい。自民党筋から「地域エゴ」だとか「安保・基地問題は国政問題だから地元は口を出すな」、こんな声が聞こえてきました。これは主権在民の憲法の精神からも、民主主義の日本社会で許されない暴論です。地方自治の無視、問答無用のファシズム・独裁者の論理で、彼らの本性を現すものです。岩国市は3月20日、周辺7町村と合併しましたが、全国注視の、「住民投票」結果が消えるものではありません。
山口大学の纐纈(こうけつ)厚教授は、「知事が国に対し、き然とした立場を取りにくいのは認める。しかし、岩国市は県内の重要都市の一つで、この大きな声を受け止められないようでは、首長としての真価を根底から疑わざるを得ない…。井原氏と二人三脚の姿勢で、ねばり強く受け入れ反対で行動してほしいものだ」(毎日新聞3月21日・諭談)と述べています。当然の主張だと思います。
私も微力ながら昼夜を問わず奮闘しました。この勝利は出発点です。平和憲法の改悪問題と一体のものです。歴史は権力者が創るものではありません。一人ひとりは弱くとも、みんなが団結すれば山は動きます。そんな大きな経験をした1ヵ月でした。全国の仲間とともに平和憲法を守り、米軍と自衛隊の一体化を図る米軍再編強化を許さない闘いを引き続き強めたいと思います。(3月21日)
機関紙12 もくじへ持丸邦子 (大学教員・山口在住)
私は1980年から1981年まで、主人とそのとき一歳だった長女とアメリカのウィスコンシン州マディソンに住みました。ウィスコンシン大学の図書館で日本語の文献をたくさん見つけ、将来研究者になるべく、研究対象を日米関係に絞り、帰国後、明治大学の夜間部で第二次大戦末期から占領期にかけての米国の政策を学んでいく中で、1982年小学館発行の『日本国憲法』という本を自らの意思で買っています。憲法がテストのための暗記の対象から生きていくための道具となったのです。
『映画目本国憲法』にも登場し、ピュリッツアー賞を受賞した『敗北を抱きしめて』の原作者のダワーさんは当時、ウィスコンシン大学の教授で、日本人の奥様に日本人留学生や研究生の家族がお世話になっていました。私も一度だけ、ご自宅にお邪魔して、若き日のダワー教授にお目にかかったことがあります。そのときに一緒にお邪魔したのが、『敗北を抱きしめて』の訳者の一人、三浦陽一氏の奥様です。実は帰国直後は、三浦さんのご自宅は所沢の牛沼にありました。監督のジャン・ユンカーマンさんもウィスコンシン大学出身で、とてもご縁を感じます。
日本国憲法の中で変えては困る第一のものは、やはり、憲法九条です。私はとても保守的な栃木県で高校までを過ごしましたが、憲法を危うくするような学校でのできごとが中学時代に「日の丸校長」が転任して来たことでした。校庭のポールに日の丸を揚げることを校長が言い出しました。そのとき、生徒会役員たちが思ったことは、「先生たちの生活を危うくはできない」ということでした。今も似たような状況に置かれている子ともだちがいます。高校では、原爆を題材にした「水をください」という合唱曲を歌わされた思い出もあります。
保守と言われる栃木県ですが、その頃の教育界には、戦争への反省と反戦の心を持った先生方が大勢いらっしゃったのです。そのときは、先生方の思いもわからずに、メロディーが、背中がぞくっとするようで、気味悪く、歌いたくないな、と思ってしまいました。学校は違いますが、たぶん、この曲を聴いたか、あるいは一緒に歌った中に、現在、憲法調査会の会長をしている同学年の船田元氏がいたはずです。
今、私も教育者という立場にあります。社会を間違った方向に導こうとする政府に対して口をつぐむのは、研究者・教育者にとっては自殺行為です。私の専門は経営学ですが、軍需産業だけが伸びる社会では一般のビジネスには希望はない、という視点から授業をしています。授業後の感想の中で憲法問題をとりあげて書いてくる学生たちの9割は憲法九条を堅持していくべきだ、という考えです。しかし、厳しい就職活動の中で、自衛隊に入ろうかな、という学生が出てきたときは、「二度と子どもを戦場へ送るな」というスローガンを出した戦争体験のある先生方の気持ちを実感しました。
古きよきものが見直されつつあります。日本国憲法も、そして、それを支える教育基本法も、その良さを見直したい宝ものです。なくしてしまってからでは、取り戻すのは容易ではないことは、所沢の旧町にあった蔵の消えていった様が教えてくれています。
機関紙12 もくじへ
坂本弁護士の講演を聞いて
松樹偕子 (花園在住)
数年前、オーストリアのマウントハワゼン強制収容所に行った時のこと、数少ない強制収容所体験者、レオ・クーンさんの話を聞きました。
ガス室の前で「真っ先に障害者が、犠牲になる…」と。私は教職経験の大部分の年月を都立養護学校で過ごしました。そのクーンさんの話を聞いたとたんに、教え子の素直なKちゃんや目のきれいな、でもちょっと虚ろなRちゃんの顔が浮かび上がり、思わず涙が頬を伝わりました。その涙の意味を読み取ったかのように、以後クーンさんはじっと私を見つめながら話してくれました。いろいろな説明の後に必ずつけ加えるひとこと「どんなに話しても、言葉では語りつくせません」がしっこいほどくり返されました。もちろん通訳付きでしたが。
30年前、全障研運動(主宰・京都大学 田中昌人)にかかわり、全員就学を勝ち取り、田中昌人先生の発達保障の理論に目からうろこの感動を味わい、就学免除の名の下に就学権を与えられなかった通年の重度障害児と格闘した日々、教育とは何か、発達とは何か、学び合いながら混乱期を乗り越えてきた東京の障害児教育が、今応益負担、格差拡大の方向の改革によってガラガラと壌されようとしています。
歩行困難な子どもたちが、何で日の丸に向かって壇上に上がって卒業証書をもらわなければならないのでしょうか。同じフロアーで鉢植えの花で飾られた床面を、ゆっくりみんなに見守られて卒業証書を受け取りに行くことのできる、なごやかな卒業式、ひごろのみんなの愛唱歌を歌って送り、送られる卒業式作りにも努力してきました。一般の子どもでさえ、意味の分からない「君が代」を養護学校の子どもたちにどう説明しろというのですか。
戦前、子どもだった私は教育の方向性がわからぬままに、過ごしてきました。でも今、教育基本法も、そしてすべてが「戦争する国へのあゆみ」であることが見える人間になれたことは幸せだと思っています。そして、その先に見えている障害者の処遇、急速に押し寄せる津波を見ている心境です。坂本弁護士の講演会で学んだことは、たくさんありましたが、すべてが「九条を守ること」に集約されます。それしかありません。今私にできることは、結びの言葉にあった、「夢とロマンを持つこと」、「夢を与えられる行動」をすることだと確信しました。
機関紙12 もくじへ
1.講演(坂本弁護士)、朗読(谷さん)などについて
◆坂本弁護士のお話は、とても具体的でわかりやすかったです。先生がおっしゃられたように、あきらめず、夢を持ち、そして、自分ができること(伝えていくということ)を、地道にやっていきたいと思いました。29歳になる一人息子が「お母さん、俺に戦争に行くようにと手紙がきたら、お母さん反対してくれる?」と言いました。「勿論反対するよ」と言ったら、安心した顔をしていました。日頃、自分の思いを(政治的?なこと)言わない子ですが、それなりに考えているんだなと思いました。谷さんの朗読も、発言(母としての思い)とてもすてきでした。
◆坂本先生 はぎれの良い解りやすい話でとても良かった。もっと多くの人に聞いてほしかった。憲法九条、自信をもって広めていけると確信がもてた。(講演を聞いて)初めて坂本さんの話を聞きました。あたたかいやさしい人間味のあるお話で、久しぶりにいい講演でした。
◆U2のボノはイマジンは大嫌いと言っています。それは想像するだけだから。ボノは活動しなくてはダメなのだと言っています。私も内向きにはイマジンでつぎあえるなると思いますが、一人でも示さないと、隣の人、前を通る人に伝わりません。
私はこう思っているということを、自分の言葉で話さないとと思っています。力のない庶民はそうしないと。私も、イイノホールで品川さんの話を重く、温かく、つきあがる喜びで聞きました。
◆戦争がもたらしたざんこくな人生、きいていてかなしく苦しい詩でした。そして苦しみの果ての美しい作品を私達にのこして下さり、正しいと思うことに強くなることの大切さを改めて考えさせられました。初めから終わりまで感動で涙がとまりませんでした。谷さんの心のこもった朗読にきよめられました。
◆坂本弁護士のお話、きょう出席してよかったと思いました。本音のお話を伺えたと感じました。力を得ました。しかし、自分に何ができるかという具体的な行動はわかりません。
◆地域九条の会で、アメリカと一緒になって、無法な戦争=人を殺したり、殺されたりの国になるということを柱に、訴えてきたと思っています。しかし、今日の坂本先生の講演をきいて、自由も生活もこわされることにつながると、九条を守ることの意義を自分たちの言葉でもっと語れるようにしなくちゃ、と感じました。
◆兄をフィリピンで、従兄弟も失った。再び戦争をしてはならない。若い命を守りたい。
◆坂本先生の「戦争をする国」への道とはどういうことか、良くわかった様な気がします。ありがとうございます。谷さんの朗読はしみじみ拝聴しました。心に浸みました。
◆坂本先生のお話をお聞きてき、とても良かったです。現憲法を守りぬくことの大切さを身にしみて感じました。できることから行動していきたいとも思いました。朗読は、イメージしながら聞きましたが、本当に戦争のむごさ、人の気持ちの変化、戦争時の人々の心情などが浮かんできました。このことからも、戦争のない時代に生きてよかったと思いました。これからも戦争のない時代であって欲しいと思いました。
◆予想していたよりもわかりやすく、具体的で、これから自分が何をすればよいのか、確信を持てました。労働連動のすすめ方でも(JMIUなど)。
2.今後、会としてどんなことをしたらよいか、具体的にお書きください。
◆若い人たちが参加する様な企画をする。一日かけて音楽(ジャズ、ロック、たいこなど、演奏・歌を取り入れる。)交流の場(バザー、屋台、うたごえ喫茶の場)を作る。若い人達を実行委員会に入れ。
◆私はこの会場にも貼ってあります九条の会のポスターを自宅の塀に貼っています。この会場の人たち全員が貼り出したら、九条を守る意思表明を表したら、ふり返る人がいると思います。こういう会に出席するだけでは、内向きの活動だと思えてなりません。
◆財政的に大変ですが、チラシ等で状況を多く知らせていただけるとありがたい。(九条反対の行動についてです)
◆いろいろな学習会、行動をされていらっしゃるので、このまま続けて欲しいと思います。特に学習会を多くして下さい。
◆4月に早乙女さんの音楽付き講演会など親しみやすい企画と発想はすばらしいと思います。
3.その他、感じたこと思ったこと、どんなことでも結構です、ご自由にお書きください。
◆今日のような「9条の会」が、全国的に広がっていくことは、とても大切なことだと感じました。私のようなただの主婦でも、きょうの坂本先生のお話を伺って、何とかこれからの日本を変えていけるように、少しでも何かを、私なりに何かをしたいと思いました。このような会があることを初めて知った者です。
◆一般的にも有名な人を呼ぶことも必要では?幅広い参加者をつのる為にも。参加者の顔ぶれが大体いつも同じ?
◆時刻の1/100秒、日常に無関係で、戦争勢力に必要なことだ(代表あいさつ)。気持ちはわかるが、視野が狭すぎないか。自然の認識の発展と、その応用全般にも関わっている問題ではないか。それにスポーツが肉体の限界に挑戦して努力している姿を簡単に戦争と結びつける発想にも疑問を感じます。
◆今の状態で本当に九条を守れるの。心配。多くの人に関心を持ってほしい。
◆確かに若い人が少ないですネ!個人主義が尊重されるのはけっこうなのですが、今は個人に競争が入り、分断されているような気がしています。そういうなか、共同で九条を守ろうというような活動に、日が向くなんてことは少ないような気がします。でも、九条がおかしなことになったら、最も困るのも若者なのではないでしょうか。ロコミで若者に広めていかないとダメだと思います。例えば近隣の早大、日大の催し物に積極的に参加していくとか、どうでしょうか?あとは内容面、音楽やら映像やら朗読やらの企画いいですネ!マスコミ文化の九条の会らしくて……。
2月25日の集会で講演された坂本修弁護士(自由法曹団団長)が執筆した『憲法 その真実 光をどこにみるか』が、3月3日発売されました。
「渦巻く改憲策動--その到達点と国民世論」「自民党『新憲法草案』の徹底解明」”改憲国家”は、”禍の大国”」、「憲法とは何か--私たちの、宝、輝く憲法」、光をどこにみるか--未来は私たちで決めたい」の四部構成からなる、現在の憲法問題を知るうえで必読の一冊です。
機関紙12 もくじへ鈴木和翁 (中新井在住)
急きょ、それから貨物列車に乗るべきか乗ってはならないか、明け方まで喧々諤々の議論が続いた。議論の焦点はこの提案が信用できるかどうかの一点に尽きていた。しかし議論が何時間続こうと、勝者の意志は絶対であった。たとえこの貨物列車が京城とは逆方向に向かって走ろうと、あるいは、途中でロシア兵に女が連れ去られようと、日本人の乗っていることが露見して出発地点に戻されようと、「運を天に任せ貨物列車に乗る」しかなかったのである。会議は終わった。それから急いで帰国の準備をしなければならなかった。
4月30日午前2時、私たちを乗せた貨物列車は、ゆっくり動き出した。貨車には、使い古しのむしろが敷いてあって、油の臭いがした。外から見えないように窓には被いがしてあり、中は暗く、昼なのか夜なのかも判然としなかつた。そこに、座るのがやっとの、30人ぐらいが詰め込まれた。逸る気持ちをよそに、貨物列車は、のろのろと、動いているよりも止まっているほうが長く、ときには何時間も停車した。その度に、乳飲み子が怯え、火のついたように泣いた。大人たちは、その都度、見っかるのを怖れ、息を潜めた。たまりかねて「黙らせろ」「何かかぶせろ」などという声が周りから発せられた。このようなやり取りを何回かくり返しながら、まる一昼夜かかって、貨物列車は約300キロ先の三十八度線近くの目的地にようやく到着した。
そこから先の、北と南を区分するイムジン川までは、狭い山道を10時間ほど歩いた。私たちの集団は、ここでものろのろとすすんだ。集落を通る度に、屈強な男達が威嚇するように道をふさぎ、通行料を要求した。その山道は北からの日本人引揚者の通行路になっているらしく、いたる所にリュックサックや衣類が散乱していて、大勢の人がここを通って行ったことを示していた。小人数だったら、ここで追い剥ぎに遭ったに違いないという者もいた。
イムジン川には午後2時ごろに着いたと思う。川幅は思ったよりも狭く、3〜40メートルの川がゆったりと流れ、一艘の渡し船が客を待っていた。
小舟が対岸まで何回も往復して、私たちが南朝鮮の土を踏んだのは、それから2〜3時間後である。みんな疲れ切っていた。「生きて帰れる」緊張がとけると同時にへなへなと座り込み、動ける者は一人もなかった。
私たちが、朝鮮からの引揚者として八高線東飯能駅に降りたのは、朝鮮を出発して10日後、昭和21年5月9日である。家族5人が無事によく生きて帰れたと安堵はしたものの、全くの無一文で、頼る親戚もなく、父も母も途方にくれていた。
4年後に父が結核で亡くなり、予科練に行っていた兄も、同じころから結核で入院し、長期の療養生活を余儀なくされた。私たちが敗戦の惨禍から抜け出すには、それから10年近くかかった。(完)