機関紙13号(2006年5月13日発行)
「マスコミ・文化九条の会所沢」は、結成一周年を記念して、音楽と講演のつどい『いのちと平和の尊さを』を4月22日、小手指公民館分館で開催した。約220の満席の参加者は、市内在住の若い音楽家のソプラノ、ヴァイオリン、ピアノの演奏と早乙女勝元さん(作家、東京大空襲・戦災資料館センター館長)の講演に耳を傾け、憲法九条改憲を許さない決意を新たにした。
つどいの前半、音楽=それはいのちを慈しみ平和をうたう言葉として、内木由美子さん(ソプラノ)、岸本美奈子さん(ヴァイオリン)、畑真理さん(ピアノ)の三人が、プッチーニ「私のお父さん」、シューマン「ヴァイオリンソナタ第一番第一楽章」、ショパン「スケルツォ第二番」、シューマン「アヴェ・マリア」、サラサーテ「ツイゴイネルワイゼン」、寺島尚彦「さとうきび畑」、永六輔・いずみたく「見上げてごらん夜の星を」を披露し、参加者は奏でる美声と演奏に聴き惚れた。ソプラノの内木さんは、お祖母さんの戦争体験と「さとうきび畑」の歌にふれ、戦争を二度と起こしてはならないと、語った。チェロ奏者カザルスの「平和なくして音楽はありえない」の有名な言葉を思い出させる。
後半の冒頭、当会の佐藤俊広事務局長は、主催者あいさつで、「みなさまのご支援で、結成一周年の記念集会を開けました。引き続き、所沢から、全国、世界に向けて『憲法を守れ』を発信していきたい。機関紙もさらに充実させ、ホームページも早急に立ち上げたい。文化のかおりがする運動をこの地で一層進めていきたい」と力強くあいさっした。
早乙女勝元さんが、自ら編集に携わった、ビデオ『東京が燃えた日』も上映された。収録の映画『戦争と青春』で再現された、東京大空襲のリアルな映像に参加者は息をのんだ。早乙女さんは、「いのちと平和の尊さを」と題して、12歳で東京大空襲を経験したこと、民間人のいのちがどんなに軽かったことなど一時間にわたって講演した。講演のはじめに、教育基本法の改悪、憲法改悪のための国民投票法案が今国会に上程されようとしており、6月までは、日本の将来を左右する重要な闘いになると強調した。
また、憲法前文で、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」するために「主権が国民に存する」と宣言されたことへの重要性を指摘した。そのうえで、「事態は悪化しているが、私たちの武器は言葉しかない。憲法の内容をよく知り、学び、「ひとつ」「一人」が主体的に語ることができれば、無限大の可能性を含んでいる。どんな場所やグループでもいいから、憲法の話をし、改憲の本質をどれだけ、広めうるのか、その一歩を踏み出すことが大事。その一歩が二歩、三歩になっていく」と、結んだ。 結成集会で記念講演した、増田れい子(エッセイスト)さんや、「九条の会・ところざわ」の代表、浜村正夫さんら6人からメッセージを頂いた。
機関紙13 もくじへ素晴らしい音楽で、心が豊かになっています。これで、コーヒーでも飲んで帰れればいいのですが…。いよいよ、容易ならざる事態になってきた。教育基本法が、今月28日、閣議決定をへて、国会に上程するという。小泉さんの最後の国会になると言われているが、心の自由に踏み込み、「愛国心」を子どもたちに押しつけ、その先には、憲法九条を改憲して、いつでもどこでも戦争ができる国にしようとしている。戦後の民主主義が音を立てて崩れようとしている。いよいよ、この国の将来を左右する正念場を迎えている。
今日は、1.九条から何をどう学んだのか、2.民間人のいのちはどんなに軽かったか、3.何ごとも「ひとつ」、「一人」から始まる、の三点を中心にお話をしたい。
61年前の8月15日、当時、12歳で今でいうと中学1年の生徒であった。昭和6年から戦争が続いてきたから、人権、民主主義、平和には無関係で過ごしてきた。8月20日に灯火管制解除になり、防空壕に入らずに朝を迎えられた。ハラはペコペコでも、裸電球の下で家族の顔を見たときに、平和というものは、こんなにまぶしく、そして、戦争が終わったことを心から実感できた。翌年の11月3日に新憲法が公布された。14歳、15歳は町工場で少年工として働き、自分が自分で可哀想に思える日々しかなかった。
九つ歳が違う兄がいた。彼は身体も大きく、軍国主義教師で、私は虚弱体質で、軍人になるなんて無理。なりたくもないし、押しつけみたいなものは本能的に嫌いだった。殺すどころか、真っ先に殺されると思っていた。兄は筋肉隆々で柔道何段、剣道何段という人だった。その兄も帝国海軍に召集され、敗戦後は、焼け跡に同僚の消息を訪ね歩く日々を重ねた。彼は教師だったから、これからの日本はどういった方向を目指すのかということから、発表になった憲法の条文は真剣に読んでいた。彼は九条の「戦争放棄」、「戦力の不保持」に感銘を受け、生き延びて良かったと私に語った。私自身も憲法の条文を読む機会があった。字面だけを読み流していたのではないかと、再度、憲法を読むと、私は読み違えていた。
それは前文にある、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」の中で、決意をするのは「誰か」ということだ。うかつにも私は、政府や国会と思い違いをしていたが、「主権が国民に存するを宣言する」とある。主権者は私たち一人一人だ。政府の行為が再び戦禍に向かうかも知れないときに、ブレーキをかけ、ストップをかけるのは、一人一人の国民の義務であり、権利であると受け止めたのは、何回目かの条文を読んでからのことであった。
先ほどの映像を見て、空襲の恐さはあんなもんでないとの声もあるが、想像力を喚起するために、映画「戦争と青春」のシーンを挿入した。日本の歴史の中で、海をこえて軍隊が踏み込んできたことはなく、外征ばかりだ。800万人の軍隊が国民を守ることはできなかった。軍がいかに無力かは、歴史が証明している、自衛隊がイラクに派遣されているが、戦争に後方支援はない。すべて戦場です。
頭の上に焼夷弾が降り注いでくるとは、ゆめゆめ思ってもいなかった。3月10日明け方が空前の被害を出してしまった。前年の11月から、空襲が始まり、4月、5月末と延べ100回以上の空襲は忘れることができない。アメリカは徹底した調査の上で、わざわざ北風の突風の吹く日を選んで、大空襲を行った。延焼が広がることを予測し、3月10日の空襲となる。その夜、15メートルの風が吹いていたが、街が燃え上がると、地上は白熱化して最大55メートルの突風を記録していた。
子どもの手を引いて逃げ惑っても、あっというまに、子どもが突風に飛ぱされることもおきた。消防のホースの先からは、水が飛び散り、消火にならない。いや、消防自動車が標的になり、大勢の犠牲者が出た。零時8分から始まった大空襲は、解除になったのは、2時37分だから、正味2時間半で、東京の歴史を一変させ、罹災者は100万人、軽傷、重傷者は数知れず、私も肩をやられてしまった。人的被害は空前の8万8793人を出した。東京都の慰霊堂には、10万5400体の一般の非戦闘員が安置されているが、総理は一度も行ったことはない。A級戦犯のいるところへは行くのだが。
翌日からは、大人や学生、囚人までが、大動員され遺体のかたづけになるが、それを経験した当時19歳の須田さんから、戦災資料センターに遺体収容の記憶を綴ったものが届けられた。少し紹介すると、「その遺体のみは、地面に顔をつけていた。着衣から女性と判断した。なぜ、この形で死んだのだろうか。遺体の下には穴が掘られていた。女性の指には爪がなかった。どこからか来て、もはやダメと観念したときに、とっさに固い地面を手で掘り、その穴に赤ちゃんを入れて、追い被さり、我が身で赤ちゃんを守ろうとしたのであろう。小さな可愛い手がお母さんの乳房をつかんでいたが、赤ちゃんも煙のため、生きてはいなかった」。なんとしてでも、この子のいのちだけは守りたいとの願いが伝わってくる。このお母さんと赤ちゃんには、なんの責任もない。戦争には特別席はないのだ。民間人がより、深刻な犠牲を強いられる。それが、戦争なのです。この遺体収容作業は、身震いがするほど、すざましかった。焼け跡の学校の講堂に山積みされた遺体は、ほとんど原形をとどめてはいなかった。燃えたがま口の金属部分の数で被災者数を割り出したこともある。全国の都市が燃え尽くされ、瓦礫の山になり、そして、8月15日を迎えた。国内で儀牲になった人は350万人、海外では2000万人にものぼるという。
昭和20年の平均寿命は男24歳、女38歳であったが、平和になった昭和21年は、男42・6歳、女51・5歳と延びだし、2004年の厚生労働省の調査では、男は自殺が多く少し下がっているが、78・6歳、女は85・6歳と世界一の長寿国となった。日本が直接戦争をしないで済んだ結果であり、九条が下さった贈り物である。しかし、めでたし、めでたしともいかなくなってきた。ある調査によると「長生きしたくない」と答えた人が4割も占めたという。人生は一回しかないのですよ。繰り返しができないのです。それでも、こういう数字が出るのは、歳をとることへの不安。そして、不安だらけの社会になってしまったことにある。医療も改悪されようとしている。10月から高齢者の医療が大幅に改悪されることになる。お金がなければ病院に行けなくなる社会がすぐそこまできている。諸権利がガラガラと音を立てて崩れていく。それが、今の実体だが、そのポイントのところに憲法九条がある。これが改悪されると悪法がゾロゾロと出てくることになる。
800万人の軍を維持するのに、昭和19年は85%が軍事予算だった。残りの予算ではなんにもできなくなる。それほど、軍備とは金のかかるものだ。国民は窮乏の生活を強いられる。二度と戦争はしないと誓い、歩き始めたのにもかかわらず、朝鮮戦争を契機にマッカーサーは、日本政府に7万5000人の警察予備隊を作れと命ずる。それは、在日米軍が朝鮮半島に出兵して、がら空きになった。そこで、在日米軍四個師団と同数の予備隊を作り、中華人民共和国の誕生に衝撃を受けたアメリカは、これではアジアがドミノ倒しで赤化していくことを危惧して、日本に再軍備を命じたのだ。
平和憲法の精神を教えてくれた、私の兄も、吹き荒れるレッドパージの嵐で教職を迫われ、そのあと彼も辛酸を極める生活を余儀なくされたのです。この予備隊も二年で終わり、自衛隊に転身を続けていくのです。講和条約でなんとか独立した形を取ったが、日米安保条約の調印で米軍が日本に居座り続けることになる。憲法九条があればこそ、自衛隊は戦車を特車と呼ぴ、巡洋艦を護衛艦と呼び、戦闘機を支援機とごまかす。有事とは戦争のことだ。「戦争立法」と言うと、アレルギーが起こるので、「有事」とごまかし、既成事実だけ先行させている。イラクに「派遣」と言うが、私に言わせれば「出撃」と変わりはない。そういう事態まできてしまった。
アメリカと日本の軍事費を合わせると、ちょうど、世界の半分になる。一緒に戦争できる体制に持って行きたいのだが、それには九条がじゃまになる。日本は、ベトナム戦争、朝鮮戦争と関わってきたが、参戦しないで済んできたのは、次ぎのようなことがブレーキになったからだ。1.憲法、2.市民・組合の平和運動、3.アジア諸国の警戒心だった。政府・与党はできれば、今国会でこの憲法を変えようとしている。自衛隊を自衛軍に変えるのが本音だろう。今の憲法が平和憲法と言われる価値は、1.九条一項、2.九条二項、3.国の交戦権を認めない、4.前文にある「平和のうちに生存する権利を有する」にあるが、九条一項を残して、全部削除したいということだ。世界で17カ国程度が九条一項のような憲法は持っている。「戦争は違法」などだが、日本の憲法はその後に、その担保として、大事な二項、「戦力の不保持」が入っている。政府・与党の目はそこに向けられているのだが、「戦争ができる国」にするには、まだ3条件が必要となる。1.軍事力,2.法的整備、3.人作りと教育。戦争になると、民間人がどんなにひどいことになるか、知られては困るのだ。だから、「愛国心」を声高に叫ぴ、「過去の戦争は正当であった」と記述する教科書まで現れる。教育基本法に焦点が移ってきた。
孫の寝顔は本当に可愛い。この子たちは、どういう国の有り様、社会の有り様を顕っているのだろうか。戦争ができる国を願っている子は一人でもいるか。「どっかの国が攻め込んできたらどうしよう」との声が結構あるのだが、ポツダム宣言で、独立した場合は、どの国の軍隊も帰ることになっているが、いまだに、極東最大の軍隊が居座っている現状をリアルに見る必要がある。また、「ほどほどの武力は必要だ」と言う人もいるが、武力にほどほどはなく、武力は相手方より有利に立たなくてはならなく、必ず相手を超える軍備が必要となる。その頂点が核兵器である。60年も所沢に居座っているあの人たちに、真っ先に帰ってもらい、その後で、どういうカギを付けるかをみんなで相談しても遅くはない。
世界で武力で解決できることは、一つもない。ベトナム戦争の枯れ葉剤の後遺症は30年を経ても続いている。政治家は戦争が終われば平和になると言うが、そんなことはない。過去の戦争の後遺症をいまだに引きずり、青い地球号は環境汚染その他でボロボロだ。世界人類の、21世紀の有り様を示しているのが九条である。武力に代わるものは何か。相手が武力を持ってやってくるのであれば、私たちの武器は言葉しかない。それぞれの人がそれぞれの思いを込めた主体的な言葉こそ武器となる。ありとあらゆるものごとの原点はやはり、「ひとつ」や「一人」である。それぞれの感動を伴った言葉がいま、問われている。「ひとつ」は微力とも言うが、「ひとつ」の声が感動を伴えば、十、百、千と広がっていく、無限大の可能性をはらんでいるのではないのか。憲法を守ると言うが、まだ憲法を読んでない人が4割はいる。読み違いの人もいるだろう。私たちは、内容をよく知り、そこから学ぶことを重視したい。それは、どんなグループとも話し合い、改憲の本質をどれだけ広められるのかということにかかっている。一歩を踏み出すことが大事で、その一歩が二歩、三歩に繋がっていくだろう。あれこれ難しい課題があるが、基本は「いのち」、これを基本に考えると間違うことはない。これからの事態に「いのちを守る」ことを基本に対処していきたい。
機関紙13 もくじへ一昨年6月に結成された「九条の会」の呼びかけに応える地域・分野別の「会」が、4月27日までに、4770となったことが、事務局のまとめで明らかになった。県別の累計では、大阪が424に達したほか、東京、北海道、京都で300を超し、埼玉でも249の「会」が結成された。所沢市では、6月3日(土)に「松井九条の会」が、午後1時半から松井公民館で発足のつどいが開催される。「新所沢・九条の会」も近く発足する予定だ。
こうしたなか、5月9日、大江、加藤、澤地の三氏をさいたま市に招き、初の「埼玉講演会」が開かれ、3000人の参加者が三氏の講演に聴き入った。集会の詳細は次号で報じる。
機関紙13 もくじへ
ベトちゃん・ドクちゃんは平和への決意の「象徴」
浅野美恵子 (所沢市議会議員・民主党))
ベトナム戦争集結30年ですが、ベトナムでは今でもアメリカ軍が撒いた「枯葉剤」の後遺症で18万人の先天性障害児が産まれています。ダイオキシンが遺伝子の中に入り込んだからです。今年の1月、私は「枯葉剤の後遺症・障害調査の旅」に参加しました。「トゥードゥー病院」では、下半身が一人で上半身が二人で産まれた双子の兄弟ベトちゃん・ドクちゃんに会いました。(1988年日本で分離手術に成功)ドクちゃんは松葉杖で説明の仕事。植物人間のベトちやんは24歳の今もベットの上でした。病棟にはダイオキシン被害で産まれた三世の、足が屈折した子、目がなくその部分が陥没した子…など言葉で表現できない姿の子供たちが生活していました。
ベトナム政府は今、妊娠したら超音波の検査をし、障害があったら中絶するように指導するそうです。ダイオキシンを根絶する為には種の断絶しか逃れる道はないそうです。戦争は終結した後も、人間の基本的権利である我が子を持つことも奪うのです。
しかし、アメリカの仕掛ける戦争は今でも数カ国で続いています。イラクでは劣化ウランをばら撒いています。その裏で兵器を作る企業が莫大な利益を上げています。こんなアメリカ主導の世界に憲法九条の二項を削除しようとする中心は、庶民の生活が肌で感じられない権力を世襲している人々ではないでしょうか?まるで「自分たちの地位や財産を守る為に、他国で戦争してきて下さい」と、言っているように聞こえます。
九条が改悪されたら徴兵制のみならず格差が広がり、働いても給料が一生上がらない生活よりも、戦争請負人を志願する若者が生まれかねない動きに私は、NO!と言います。
荒川 広 (所沢市議会議員・日本共産党)
軍隊を持たない国コスタリカ。ここで暮らす人々の日常の一コマをスケッチとエッセイで綴る児玉房子さんの「コスタリカ賛歌」は、人間の根源を見るようで幸福感をもたらせてくれます。
マンゴーの大木が茂る公園で、小さなリスが落下したときに一部始終を目にした大人たちの情景をえがいた「公園のリス」の一コマは大好きです。
ベンチでくつろいでいた3人の女性は、公衆電話にかけよってせわしく話し獣医を呼ぷ。獣医は人工呼吸、心臓マッサー-ジ、全身に薬のような液体をふりかける。子どもたちも心配そうに見ており、たくさんのリスも幹をかけあがったり降りたりしている。死んだと恩ったリスがブルブルとからだをふるわして気がついた。まわりのみんなはいっせいに声を上げた。まだ元気のでないリスを獣医から渡された警察官は、太いマンゴーの木のくぼんだ枝の分かれ目に置き、「あとはリスの仲間が何とかするだろう」と言った。小さなリス1匹に何人もの大人が動いたという情景をみて作者は「なんとステキな人たちだろう」と感動するのです。
軍隊を持たない国、争いをしない国を決意した人々は、こんな小さな動物の命までもがいとおしいのでしょう。
同じ軍隊を持たない国の日本は今、憲法九条二項を改変して「自衛軍の保持」を書き込み、アメリカの先制攻撃の戦争に参戦するために、自衛隊を「戦争のできる軍隊」にし、日本を「戦争をする国」につくりかえようとしています。
憲法九条は時代遅れどころか、国際社会の平和秩序をつくっていく上での指針として広く評価されてきています。逆に武力によっては何ら国際紛争を解決しないことも証明されてきました。憲法九条が掲げた理想にもっと近づき、小さな命を優しく包み込める社会をめざしていきたいと思います。
機関紙13 もくじへ浜田萌子 (花園在住)
アンデパンダン展に絵を出品することを勧められて迷っている時に、原爆体験の講演を聞く機会があった。
原爆投下の朝、NHK広島支局に泊まりだった夫の帰りを待っていると、全身の皮膚をぶら下げた夫がへし曲がった自転車を引っ張って家にたどり着いた。3人目の子どもを身ごもっていた25歳のKさんの闘いがそれから始まった。医者も薬もガーゼも食物もない中で瀕死の夫を必死で助けたお話。粋な和服姿のKさんは、黒板いっぱいに広島の7本の川と爆心地を描きながら、2時間立ったまま、体験を語られた。本やテレビのどの話よりも生き証人Kさんのお話には迫力があり、衝撃を受けた。Kさんが昨年出した本、「オレンジ色の夏」を何度も涙しながら読んだ私は、悲惨な描写の中にあった、「ありとあらゆる色が見えたきのこ雲は美しかった」という下りに、この絵を描いてみたいという衝動にかられた。
人類史上、この上なくおぞましい兵器、人々を地獄の苦しみに陥れる原爆を美しく描いでいいのだろうか?複数の被爆者に聞いてみた。資料も探して下絵を何度も描き、どうにか50号(117×91センチメートル)の作品を仕上げることができ、アンデパンダン59回展に、「オレンジ色の夏」を出品した。「あの絵は様々なことを語りかけている」、「感動した」などの感想をいくつか頂いた。
それまで語ることのなかった被爆の体験を本にまとめ、初めて講演をされたKさんの勇気に触れ、私は少なくとも後10年、自分の東京での戦災体験を語り継くことによって、憲法九条を守り、二度と戦争する国にしないようがんばらなければ、との思いを新たにした。