機関紙14号(2006年6月13日発行)
5月9日、「九条の会」呼びかけ人の大江健三郎、加藤周一、澤地久枝の3氏を講師に招き、大宮ソニックシティで、埼玉で初めての「九条の会」講演会が開かれました。会は、実行委員会を代表して大田尭氏(東大名誉教授)が開会の挨拶、それに続き埼玉の青年、約100人が「九条アピール」の全文を群読したあと、3氏が講演を行いました。「マスコミ・文化九条の会所沢」からも勝木代表ら多数が参加しました。
「九条の会」呼びかけ人の大江健三郎、加藤周一、澤地久枝の3氏がそれぞれの「日本国憲法」「九条」への思いを語りました。
大江氏は、親交のあったパレスチナ系アメリカ人思想家、エドワード・W・サイードのことから「譲れないこと」について話を始めました。サイードの思想は、「人びとはいっかは和解できる」という希望をすてない人間に対する信頼、楽観性に貫かれたものです。サイードと活動をともにしてきた著名な指揮者ダニエル・バレンボイムがイスラエル政府から表彰をうけた際(この席には大統領、文化相も出席)、「イスラエルの独立宣言に」、『隣の国(パレスチナのこと)を圧迫してはならない』と謳われているにもかかわらず、いまだにこれが実行されていない、とスピーチしました。
日本が敗戦を迎えたとき、私は、10歳でした(愛媛県)。戦時中の理不尽なこと、原爆の悲惨も知りました。その2年後、「われらは、さきに日本国憲法を確定し」の前文をもつ教育基本法が公布されました。学校の先生から「憲法はむずかしいけれど、教育基本法なら、こどもでもわかる」といって渡されました。「われらは、(中略)真理と平和を希求し」とあるのを読み感動しました。「われらは」という表現に文体の力を感じましたし、「希求」という言葉は、あの暗い時代をすごした者の気持ちを言い表したものであり、これに代わる表現は無いと感じました。憲法九条一項にもこの「希求」という言葉が、使われています。このことからして、九条を変える、教育基本法を変えるということについては「譲れない」ことです。
ついで加藤周一氏は、「憲法九条をめぐる二つの視点」として、1、「条文と現実の乖離の問題」と2、「外から(外国)見た九条の改変の問題」について話しました。1の問題は、よく諭じられることですが、どの法律でも、それが忠実に履行はされておらず、違反者がいます(加藤氏は「放火犯」を例にひかれ話をされました)。実態とズレているからといったことを口実にして、法律の条文を変えるのでなく、ズレた実態のほうをこそ変えていくことを志向することが大切なのではないか。2についてはあまり諭じられていませんが、中国やアジア諸国から見れば、「日本が軍隊を持つ」ということは、再び日本が侵略する危険性を持ち、脅威になるということです。私たちは、国内からの視点で「九条」の問題を論議しがちですが、国際的な視点からすれば、「九条」の改悪は、とんでもないことだと強調しました。
最後に登壇した澤地久枝氏は、敗戦を「満州」(現・中国東北部)で14歳で迎え、帰国して見た一面焼け野原の東京の景色に息をのむ思いだったこと、それよりもその後の生層のすさまじかったことを語ったあと、とくに女性の立場から、改めて日本国憲法の持つすばらしさを考えてみる重要性について語りました。女性が参政権をえるのは、この憲法施行によってだということは、誰もが知っていることですが、結婚ひとつとっても、今では「両性の合意のみ」によって成立するのですが(第二四条)、戦前は、考えも及ばなかったことでした。その意味からも女性にがんばってほしいと思っていると述べました。さらに自らの仕事を通して知ったアメリカの悲劇一父親がミッドウェーの海戦で戦死し、その息子もベトナム戦争で戦死しているケースにふれ、日本には、「九条」があったからこそ、このような悲劇を味わうことがありませんでした、と改めて日本国憲法、第九条の持つ重みを強調しました。
この日の講演では、加藤氏は「評論家」の立場に徹し、客観的な分析をされましたが、別の場所で次のように語っています。「敗戦の年、私は26歳、この1945年には二つの面がある。一つは、解.放感、とにかく死なないで済んだということ。それだけでなくて、ある人びと(私もその一人だが)少数の人びとにとっては精神的な解放感であった。それはフアシズムからの解放、言論弾圧からの解放ということだった(中略)。
しかし、他方では敗戦によって憲法そのものが「押しつけられた」という思い。これもかなり広く人びとが抱かざるをえなかった感情だと思う」(小学館『時代を読む』、1997年) 改めて3氏の講演を聞いて感じたのは、「なぜ、『九条の会』を呼びかけたか」、それは「あの悲惨な戦争から生まれた日本国憲法のすばらしさを体験を通じて実感していること、そして、その後の仕事を通じての研究、研鑽から確信にしていること」だと思いました。
講演前の記者会見で3氏とも、「九条の会」の広がりを喜んでおられましたが、3氏の思想的蓄積をおくとしても、歴史的「実感」を持たない多くの人びとにいかに「九条」のすばらしさとその重みを知ってもらい、広げていくか、会の大成功を喜ぶと同時に「新たに大きな課題」を投げかけられた思いを強くしました。
間島弘 (世話人)
「マスコミ・文化九条の会所沢」は、5月27日、来日中の中国社会科学院近代史研究所長、中国抗日戦争史学会会長の歩平氏を招き、会員と和やかに意見交換をしました。今回の懇談会は、昨年十月に開催した、「日本・中国・韓国共同の歴史教科書を編集して」のPart2と位置づけ企画したものです。中国側の編集者の一人である、歩平さんは、「中国近代史研究家から見た日中戦争」と題して、靖国参拝など、日中間に山積する問題点の解決への方向性などを示唆されました。
歩平さんは、スライドを投影しながら、「日中間の地理的距離は近いが、心理的距離は近くはなく、靖国参拝、教科書の問題は、その心理的距離を拡げる作用を与えている」と苦言を呈した上で、「中国全土にいまだ戦争の遺跡が沢山残っている状況で、とりわけ、置き去りにされた毒ガス兵器は、中国人民に深刻な健康破壊を与えている」と指摘しました。
また、歴史認識の不一致がなぜ起きるかの問題について、「実証研究の弱さにあり、戦争被害では、両国が都合の良い数字を使うことや、丸山真男さんらが、戦後いち早く中国への侵略戦争を反省したことも、中国では、あまり知られてはいないこと、私自身、沖縄作戦で、多数の民間人が犠牲になった事実は知らなかった。中国の歴史教科書は『厚今薄古』で、日本は『厚古薄今』です」と語り、「歴史事実の共用こそが、両国の相互理解を深めるキーワードだが、歴史認識の空洞化や抽象化で薄くなっている」と指摘しました。
参加した会員からは、「中国のマスメディアの実態」、「インターネットの弊害」、「日本の平和運動への評価」などが出されました。
機関紙14 もくじへ北村 肇 (「週刊金曜日」編集長)
ポカポカと自分で自分の頭を殴りたくなる。
30年以上、ジャーナリズムの現場に身を置き、毎日新聞労働組合、新聞労連の委員長も務めていながら、一体、お前は何を見て、何をしてきたのか---。
「憲法改悪」の動きが加速し、『週刊金曜日』も一貫して護憲キャンペーンを展開している。だが、はっきり言って遅すぎる。ガンの芽は、発症の10数年前にできていると言われるが、国家権力の奸計は、はるか以前から始まっていたのだ。
中曽根元首相が『月刊文芸春秋』の昨年12月号で、こう書いている。
「基本線、本命は池田内閣以来棚上げしている憲法改正です。立党50周年式典でいよいよ自民党の憲法改正最終草案が示される。将来日本に静かな革命を起こし、いずれ明治憲法、昭和憲法、平成憲法と受け継がれて、5年後位に第三維新を引き起こす原動力になります」
中曽根氏の宿願は、まさしく「保守革命」なのである。それはつまり、1945年以前の日本に戻すことにほかならない。「天皇制」、「国体」、「愛国」へと大きく舵を切る、いやもはやカーブではない、根本的大変革を目論んできたのだ。
「主権在民」の戦後日本から、「主権在国」の大日本帝国に戻すためには、どうしても「憲法改悪」が欠かせない。そのためには、権力を批判する組織・団体をつぶさなくてはならない。
そう考えた国家権力は、着実に手を打ってきたのである。
▽「正論を主張する」野党をつぶすために小選挙区制を導入
▽「闘う組合」を消滅させるため、総評を解体させ、日経連に「新時代の日本的経営」を打ち出させる
▽政権批判のメディアを抑えるため、個人情報保護法などのメディア規制法をつくる
▽市民団体や民主団体を押さえつけるため、盗聴法、共謀罪をつくる
むろん、私たちはこれらの動きに対し、それぞれ反対運動を展開してきた。だが、権力側が狙う「保守革命」の全貌に気づいていたかと問われれば、明確に肯くことはできない。私自身、ジャーナリストとして失格と言われても、返す言葉がない。
さらに注意を必要とするのは、中曽根氏のような、『保守本流』とは別の流れが存在することだ。それは「米国属国を背景にした保守革命」である。
中曽根氏が夢にまで見た「国体尊重の憲法前文」は、小泉首相の鶴の一声でボツになった。その代わりに前文に盛り込まれたのは、国際協調に名を借りた「米国との軍事的つながりの強化」であった。そして、小泉・竹中ラインもまた、中曽根氏と同様、「主権在国」を目指していることに変わりはない。米国の言いなりになり、米国を肥え太らせることを目指し、新自由主義を導入し格差社会をつくるためには、「うるさい政党や組織は邪魔」だからだ。
このような状況のもとで、真に憲法を守るためには、小選挙区制から共謀罪にいたるまで、網の目のように張り巡らされた保守革命の陰謀をすべてうち砕かなくてはならない。冒頭に「遅すぎる」と書いたのは、事態がそこまで深刻化している現状をまず認識しなくてはならないと思うからだ。
しかし、あきらめるわけにはいかない。戦後民主主義は、無数の「国家の犠牲者」によって生まれた。そのことに思いをいたすとき、なんとしても「平和、人権、主権在民」が高らかに誤われた憲法を、われわれ市民の手で守らなくてはならない。
考えよう、動こう、闘おう、前進しよう。そう、自分に言い聞かそう。
そして、考え、動き、闘い、前進する姿を周りの人に見てもらおう。
そうやって、一人でも仲間を増やそう。
たくさんの人に考え、動き、闘い、前進してもらうためには、まず自分から始めなくてはならない。
しんどい。でも、「平和や民主主義を守る闘い」は結構、楽しいことだ。生き甲斐のあることだ。違いますか?
機関紙14 もくじへ今月の「所沢の人を訪ねて」は、このほど、詩集『わが動物記、そして人』が第37回埼玉文芸賞の詩部門で、最高賞である埼玉文芸賞を受賞した、中原道夫さん(上新井在住・会員)をお訪ねした。中原さんは、1931年所沢町生まれ。東京学芸大国文科を卒業して、都内で教員を勤める傍ら詩作に励み、56年に詩集『石の歌』を上梓。本職は国語科教師だが、べ-スボール誌に野球小説の連載、あるいはバレーボールの監督。この他に絵と書、都々逸もこなし、ピアノまでと守備範囲は広い。花柳界の白粉を嗅いで育ったことが、詩界きっての趣味人を生んだのだろうか。受賞した作品は日本詩人クラブ賞候補にも選ばれた。今回は「詩人の魂」をのぞいてみた。
▼ 受賞おめでとうございます。
▽ 埼玉文芸賞というのは、地方自治体がやっているもので、ある程度、権威はあるようですね。こっちへ来てから、高橋玄洋さんなどもお入りになっている埼玉文芸家集団という団体があるのですが、そこに入って、桶川にある埼玉文学館に出入りするようになり、そこで埼玉県には、こういう賞のあることを知りました。今年になって、私の出した詩集『わが動物記、そして人』が、幸いにも評判になり、それで受賞となりました。小説なんかでは正賞が多かったのですが、これまで、37回を数える内、5人しか「詩」では正賞を貰っていなかったようです。ほとんど準賞でした。
▼ 『わが動物記、そして人』はどんな詩集なのですか。
▽ これは文明批評なんです。この表紙の版画の絵が素晴らしいでしょう。秋山奏計という版画家の作品です。これを装槙に使ったのは、志賀直哉、萩原朔太郎と私で3人目ということです。商業美術をやっている、私の友人の娘さんが、本の装幀をやってみたいとのことで、相談を受けました。その娘さんが、世田谷美術館で開かれた、秋山秦計氏の個展を見て、秋山さんの版画にとりつかれていたので、この絵で装幀をしてみたいとの強い希望がありましたので、私もお願いしました。この素晴らしい装幀を行ったデザイナーは木下芽映さんといいます。母親は画家であり、詩人です。父親は千葉大で教えるロシア文学者です。お母さんと私は詩を通しての友人で、たまたま飲み屋で会ったときに、娘さんの本の装幀の話が出て、私は原稿が揃ったらお願いしますよとは言っていたのですが、原稿を木下芽映さんに送ったその日に、芽映さんは、装幀のイメージが瞬間に決まったと聞きました。芽映さんは、秋山さんは、もう亡くなっていますが、娘さんは画集を持っていましたので、四国で静かに暮らすご遺族の了解をえて、本にしてくれました。私は幸運でした。
▼ 中原さんのお生まれは。
▽ 所沢です。1931年、本町で生まれました。敗戦の頃は、天皇が人間であったことに驚き、アメリカ兵が街にきたら闘うつもりで、小刀をいつも隠し持っていた愚かな少年でした。詩は17、8歳の頃から書き始めました。「地球」の研究会で秋谷豊、新川和江さんたちと知り合いました。茨木のり子さんも近くに住んでいて、よく遊びに行きました。その後は、蔵原伸二郎の勧めで、『花粉』創刊に加わりました。『花粉』には、蔵原をはじめ、大江満雄、藤原定など錚々たる現代詩のメンバーがいました。その頃、東京で国語の教師をしていたのですが、教員は「まじめ」の印象が強く、このまま続けるのがいいか、それとも物書きになるか、随分、悩んだ時期があります。もともとは逓信講習所の出身で、そこに入ると30円ぐらいの給料が貰えました。貧乏だったので助かりました。そこを出たあと、モールス信号のトンツウ、トンツウをやっていました。一級通信士でした。現在のNTTの元です。逓信省では組合の青年部の活動をしてました。レッドパージの頃で、働く者への攻撃はすごかったです。当時、共産党からオルグがきますが、その人たちは、一生懸命やってくれてそれはいいのですが、一般の組合員の働き盛りが首を切られた時には大変なショックを受けました。オルグに来る党員はなんとか食っていけるのだろが、先頭に立って職場で闘う者が、真っ先に首を切られるなんて---。
組合のために活動をしていた妻子ある先輩が職を追われるのを見て、毎日が胸の張り裂ける思いでした。そのことを小説に書きました。それを椎名麟三さんから「文章はへたくそだが、心にくるものがある」と、たいへん褒められました。それが、文学をやろうというきっかけになりました。それで、大学に入り直します。ですから、2年遅れています。新制高校卒になり、受験資格がなかったですから、電信局の近くの都立一橋高校の定時制の3年に編入しました。籍だけ置いてほとんど独学で卒業して、学芸大学に進みました。
進学のきっかけは、宮沢賢治との出会いです。もちろん本でですが、小学生の頃、黙々と万葉集を教えていたあこがれの先生と、所沢駅でばったり会い、組合運動に挫折感を抱いていたとき、人生に悩んでいるなら、これを読めと勧められたのが、宮沢賢治の「カイロ団長」でした。呑んだウィスキー代を払えない34のあまがえるが、とのさまがえるの家来になり、働かされるのですが、最後には、とのさまかえるをやっつける。その時、かたつむりのメガホーンが鳴り、「王様の新しいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん」とひびきわたり、あまがえるは、とのさまがえるに水をやったり、曲がった足をなおしてやったり、とんとん背中をたたいたりした、と。同じ生き物は仲良くしなくてはダメだと、説くあの童話です。とのさまがえるを見捨てないで手を差しのべる、あの精神にいかれました。賢治の原点は法華経なんですが、7、8年は賢治に狂いました。賢治を読み出したら、俺が行くべき道は学校の先生だ、となりました。
5年間は小学校の教員。その後は都内の中学校の国語の教師です。教員をやりながら、最初は小説を書いていたのですが、文学のエッセンスは詩だということで、詩に転向しました。飯能に住む藤原伸二郎にもずいぶん影響を受けました。この人は、すごい詩人です。なんでもっと評価されないのかと思いますが、戦争中に書いていた戦争責任ということもあるようです。作品は素晴らしいものばかりです。
私の処女詩集『石の歌』の厳原伸二郎の序文はずいぶん評判になりました。高村光太郎なんかも、戦争中にいろいろ書いていました。それを戦後になって、非難するのは簡単なんですが、戦争中は私だって、天皇陛下のために死のうと思っていましたよ。玉音放送で天皇の声を聴いたとき、それはショックでした。何しろ神様でしたから。
▼ 詩の難しいところは、短い文章で宇宙を表現するということですか。
▽ そうとも言えますが、私の考えているのは、人間の生き方に対する批判です。「文明とは港のない航海である」とトインビーは言っていますが、文明はどこに行こうとしているのか、それを追求するのが私の課題です。産経新聞の文化欄にもこの間書いたのですが、人間をその存在の面から考えると、無生物と共通の基盤に立っているはずなのに人間の驕りはすべてのものに人間が卓越するという考えをもたらして、そこから私たちの不幸は生まれたのです。だから、青い空、道端に転がっている石の存在、などとの対話から、私の詩作は始まりました。
▼ お父さんはどんな方ですか?
▽ 狭山湖を造った親父なんですが、まあ、ヤクザのような気質の人でした。土木業でしょうか、母は優しい人でした。その頃は、景気も良くて、親父はずいぶん遊んだようです。お妾さんの家が自宅から数10メートルのところにあるという環境でした。夜になると、そこで過ごし、朝になると帰ってくるという、とんでもない親父でした。花柳界との付き合いも多く、子どもの頃、芸者の背中で白粉を嗅いで育ちました。
▼ 中原さんの「赤い背中」を高く評価する人が、会の世話人にいるのですが(上段に掲載)。
▽ ある日、ぼくは、テレビで、長崎の被爆者の映像をみていたのですが、長崎で奇跡的に生き残った人が、身体の組織を壊され「赤い背中」になり、60年たっても傷口が裂けつづけるという、NHKの番組でした。ところが、突然に字幕があらわれ、ディスカバリー無事帰還とでました。そのとき、文明とは何だ、との思いが込み上げました。そこで、この思いを詩にしました。深みのある詩が書けたと思っています。昨日は、「はためくもの」という詩を書きました。反戦詩集も創ろうと思っています。
書も好きで、池袋の居酒屋のとっくりや文化座の記念酒瓶にも私の書いたものがあります。「何か書いてよ」と言われるから、ついつい--。散文を書いてると、感性が鈍くなりますね、さっと言葉が出なくなります、ひらめかないと詩は書けません。発想が違うのです。
詩というのは、「たとえる」ことなんです。対象をどうやって発見するかでもあります。「九条守れ」、「憲法改悪反対」をストレートに文字に表しても、それは詩ではありません。あからさまにそのまま書いても感動は来ません。言葉を行間に漂わせ、多くの人も納得させるのが、優れた作品です。
▼ 若い人にメッセージを。
▽ 現代の揺れ動きの中に浸ることです。「現代はこうだ」は観念です。そうではなく、現代を英語でContemporary(コンテンポラリー)と言います。Con「コン」は一緒にとか共にという意味です。だから、一緒に現代社会に身をさらして行くことだと思います。頭で現代を捉えるのではなく、「浸る」ことです。官僚も政治家も子どもの頃から、公立の学校に通ってなんかなかったでしょう。だから、庶民と一緒に「浸る」なんてことないから、分からないのです。最後に戦争はダメです。
「九条はお守りです」だから「九条の会」の存在が必要なのです。
中原道夫
〈スペースシャトル・ディスカバリ一一無事帰還〉
一瞬、TVの画面を走る白い字幕
そのとき、ぼくは見ていたのだ
原子の世界に踏み込んで
魔性と化した残酷な科学を
それはただ一人奇跡的に生き残った少年の
爆風によって組織を壊された「赤い背中」
いまもって避けつづける傷口
医学で解明不能のヘドロのような塊の隆起
払っても消え去ることのない悪魔の膿
苦しさに何度となく
「殺してくれ!」と叫んだ少年の
背負ってきた「赤い背中」の六十年
その被爆地の祈りを打ち消すかのように
〈スペースシャトル・ディスカバリー無事帰還〉
の白い字幕が、いま
ぼくの眼の前を幾度となく通り過ぎる
まるであの日の閃光のように
喜ぶべきか怯えるべきか
留まることを知らない非情な科学を
神も恐れぬ人類の驕りを
「スペースシャトル・無事帰還」の歓声で
薄められていく「赤い背中」
「科学の朗報」のうねりで
忘れられていく「科学の非情さ」
ぼくはグラスに焼酎を注ぎ込む
そして八月九日の虚無を呷るように一気に呑む
中原道夫さんのプロフィール
1931年(昭和6年)6月5日、所沢市本町で生まれる。9人兄弟の4男。1947年(昭和22年)東京逓信講習所に入学、東京中央電信局に配属され、モールス信号を打つかたわら、組合の青年部活動や短歌や詩を書き始める。1949年(昭和24年)新制大学入試の資格取得のため都立一橋高校定時制3年に編入。勉強は独学で学校には顔を出さなかった。職場では、レッドパージが始まる。職場で「中電文学」の創刊に参加、5号に小説「青年」を発表する。椎名麟三に褒められる。1952年(昭和27年)東京学芸大学国語科に入学。中央電信局は学費と生活のため、夜勤を中心とした変則勤務を続ける。1956年(昭和31年)板橋区立桜川小学校に赴任。詩集「石の歌」を発刊。蔵原伸二郎の序文が評判になる。1961年(昭和36年)国語科教師として都内公立中学校に転勤。1992年(平成4年)教職を退き、都立中央図書館に非常勤の嘱託として勤務。日本詩人クラブ常任理事。日本ペンクラブ会員など。
機関紙14 もくじへ
団塊の世代の歌「もういちど」
中村由紀男 (新座市在住・所沢市勤務)
私は1949年生まれ、いわゆる団塊の世代の最後の年に当たります。小中学生時代のクラスは50人台でした。おそらく先生は大変だったと思いますが、情熱的な先生が多かったような気がするし、子どもたちも、ゆきとどかなかった点はたくさんあったにしろ、もまれながら、それなりに夢を持って過ごしていました。僕の故郷は滋賀県の大津なのですが、いまだに時々小学校の同窓会を開いているし、たくさん集まります。 尊敬している先生の授業だったのですが、「社会主義は民主主義でない」といった意味の先生のお話にずっと疑問を抱き、卒業して何年もたってから反論?のお手紙を送ったこともあります。先生は僕の成長ぶりをほほえましぐ見てくださいました。
ここ数年、東京都の栄養士である僕のつれあい(彼女も団塊の世代)は学校が職場になっています。「君が代」斉唱の時は非常に苦労しているそうです。それ以外でも今、教育現場の状態はひどいらしい。もの言えず、憲法が通用しない職場--これは民間大企業で昔よく指摘された状態ですよね。僕の職場も民間大企業なのですが、今は官民逆で、CSR(社会的責任)を示さないと一流企業として認められない時代になりつつあるのに。
息子(32才)も「今の日本は戦前と似たところがある。なんとなく過ごしていると大変なことになる。」と言っています。僕たちは直接経験していませんが"『いつか来た道』を再ぴ歩むことのないよう、平和の大切さ、平和の意味を伝え、できるだけ多くの人が共に考え、行動してくださるよう、僕は特に文化、音楽、歌の分野でこれからも力をつくしていこうとあらためて決意しています。
僕の作った、団塊の世代の歌?「もういちど」の歌詞を次に添付して投稿とします。
一、黒く厚い雲の下で しばらく光を忘れていた
行く手覆う泥の流れに たたずみうなだれていた
息もつけない暮らしの中で 明日の微笑み信じて
あの日誓った真実への想い 忘れて生きてきたわけじゃない
もう一度想い出そう あの日の胸のとめきを
もう一度語り合おう あふれる希望を
二、夢を追って打ち砕かれて そんなことの繰り返しだったけど
自分の弱さに落ち込むことは 誰にもあることなのさ
大切なことは輝く命 命を育てる心
小さな君をおぶって走った ひたむきな母の日
もう一度想い出そう あの日の熱い涙を
もう一度歩き出そう 輝く未来へ
三、どこへ行くのかこの道は 手探りで歩き続けてきた
闇の中の灯に ひたすら考えてきた
そうさ僕らはみんな友だちさ 本当は信じ合える
心一つに歌い交わそう それは生きる力さ
もう一度想い出そう あの日の胸のとめきを
もう一度語り合おう あふれる希望を
もう一度想い出そう あの日の熱い涙を
もう一度歩き出そう 輝く未来へ
所沢市内には現在六つの地域を中心とした「九条の会」があります。「9条の会・ところざわ」「三ケ島九条の会」「なみき・こぶし九条の会』「松が丘九条の会」「松井九条の会」「マスコミ・文化九条の会所沢」が活動しています。
この「九条の会」が運動の発展のために、連絡会を毎月開いています。職場を中心にした九条の会も作られていますが、(『共同センター」がオブザーバー参加)。これらの『会』とはまだ連携はできていません。
最近の動きです。
▽6月3日に、「松井九条の会」が発足の集いを開きます。田中重人さんを始め10人の人が呼びかけています。
▽「なみき・こふしの九条の会」は月一回のペースで学習会を開いています。3月は浜林(一橋大学名誉教授)さんを講師に「自民党の国民投票法案」、4月24日「子供を取り巻く状況と教育基本法について」の学習会が開かれました。教育現場で進められる教師への統制の強化、反動化の動きが話し合われました。
▽新所沢で「9条の会」結成の準備が進んでいます。2500枚の呼びかけのビラが配布されました。
▽「9条の会・ところざわ」は7月7日に、タイトル「龍平と語ろう、いのち、人権、憲法第9条」の開催の成功を目指しています。
▽「九条連絡会」はところざわの隅々の地域にまで、「九条の会」ができることを追求して行くことを活動の重要な柱と考えています。情報を交換し、可能な支援を行い、「九条の会』結成の機運を作ろうとしています。
もう一つは、連絡会の大きな取り組みとして、所沢で九条を守る市民が中心となった大きな集会をやりたいと準備をしています。講師の問題、会場の問題、多くの市民に参加してもらえる企画とはどのようなものかなど手探りでの準備が続いています。多くの人に力を発揮してもらうため、実行委員会を立ち上げようとしています。会員の皆さんにも協力してもらうようになるかと考えています。
5月23日、神田神保町の岩波セミナーホールで「メディアは憲法記念日をどう報じたか」と題してのマスコミ九条の会主催の集会が開かれました。報告者は、放送が日本ジャーナリスト会議(JCJ)・放送部会の河野慎二さん(元日本テレビ)、雑誌がJCJ代表委員の亀井淳さん、新聞は元日刊工業新聞の四官晴彦さん。四宮さんは、「今年の憲法記念日は、たまたま『在日米軍再編の最終報告』と重なり、各紙の取り上げ方もいろいろでした。『東京裁判』開始から60周年に当たることから、これを社説や特集で組んだところもありました。昨年の憲法記念日の新聞論調と比べてみると、依然として『改憲』を主張する全国紙は、『米軍再編』と『日米同盟』の深化に賛同する社説を掲載しました。(読売、日経、産経)。その反面、ブロック紙、地方紙の多くは改憲の動きに批判的な論調が主流です。『もっと国民世論と結びついた論議を重視すべき』などの主張が多く、『国民投票法の早期成立を』と、社説に書いた、北国(金沢)が目立ちました」と、報告しました。
機関紙14 もくじへこてさし語りの会
創立10周年記念公演 与謝野晶子物語
語り芝居 きみ死にたまふことなかれ
脚本 演出寺島幹夫
日時 6月25日(日)
開演 午後1時30分
場所 小手指公民館分館
開場 午後1時 入場無料
与謝野晶子から学びつつ
宮澤賢治の生誕百年をきっかけに集まり、《ことば》の勉強を続けてきた《こてさし語りの会》の10周年の節目の公演『君死に給うことなかれ』が間もなく幕を開けます。一時間半程の、たった一度きりの公演ですが、私たちにとってはすべてが生まれて初めて体験する、熱い思いの込められた舞台に他なりません。
広大な多摩霊園の一隅に眠る晶子・鉄幹夫妻のお墓を訪れることから始まった一年間の取り組みの中で、私たちは実に沢山のことを学びました。会の中心が主婦だったので女性を主人公にと、与謝野晶子の生涯を描く作品にしたのですが、若者には韓国のメロドラマと誤解されたり、晶子があの圧倒的な男性社会の中で、文筆一本で生計を支えながら11人の子どもを育て、夫婦でのヨーロッパ旅行を実現し、白秋や啄木を世に送り出し、古典、児童文学者としても業績を残し、社会活動家としても堂々と国家権力に立ち向かったことを知って驚かされたのでした。
《語り芝居》という形にしたのは、限られた時間や会場の条件の中で、しかも明治という時代に馴染みのない方々にも、彼女の生き方と作品を充分に楽しんで頂けるようにと工夫したからです。『素人の手作り』ですが《乱れ髪》の表紙や書がセットを飾り、会場を斬新に使って、和紙で作った表装の出演者が熱演する本格的な舞台です。是非ご一見を。
寺島幹夫 (俳優・小手指在住)
機関紙14 もくじへ全国の地域・分野別「九条の会」が一同につどい、「運動の悩み」「どのように活動し拡げていくか」など語し合う、全国交流集会が6月10日、新宿の日本青年館で開かれ、当会から四名が参加しました。詳細は次号で報じます。
歴史教育者協議会第58回全国大会が、7月29日から、所沢市・川越市を中心に開かれます。
7月29日(土)全体会 午後一時 ミューズ
埼玉発…「平和をつくる若者たち」(地域実践報告)詩の朗読を通して…、合唱を通して…、韓国の若者や埼玉朝鮮初中級学校との交流を通して…、平和を学んだ私たちは、これから平和をつくりだしていきます。
講演「21世紀をどうきりひらくか」(仮題)
講師 姜尚中氏(東京大学教授)
30日〜31日は分科会。
「輝かせよう憲法九条」の絵はがきを製作中です。
心と心を紡ぐ絵はがき。その絵はがきを、布絵作家の藤原絢子さん(山口在住)のご厚意により布絵で2000セット(4枚入り)作る予定です。布はいろいろな糸を紡いで作られています。その布を貼り合わせて美しい世界が生まれました。それが布絵です。紡ぐ心が重なってできた絵はがきに、「輝かせよう憲法九条」、「子どもたちに平和な世界を」、「日本に基地はいらない」という文字を印刷します。
この絵はがきが多くの皆さんに広く活用され、世界が平和に包まれることを願っています。