機関紙155号 (2019年8月10日発行)
山本 達夫 (事務局)
2019参院選の翌日、朝日新聞は「自公 改選過半数」「改憲勢力2/3は届かず」と大見出しをつけた。しかし自公の改選数は計78で、もともと改選過半数を超えている。選挙結果は自民10減、公明3増の計71に後退したのだから「与党後退」じゃないのか。それに改憲勢力が3分の2を維持できなかったのだから、「届かず」ではなく「2/3割る」じゃないか。選挙結果はあくまでも「現有」との比較でみるべきだ。
参院選は、私たちが生きる社会のあるべき姿を選択する選挙となった。その核心は、改憲発議に必要な3分の2を改憲勢力が維持するかどうかの一点にあった。
5月、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」と野党5党派が交わした13項目の「共通政策」は、そのトップに「9条『改定』に反対し、改憲発議そのものをさせない」と掲げた。そして6月、野党は32の1人区すべてに統一候補を擁立した。市民連合の中野晃一さん(上智大学)は「戦後最大の正念場」と位置づけ、改憲派がふたたび3分の2をとれば改憲発議の流れを止めることは難しくなると指摘していた。
安倍首相は公示前、参院選の目標を「与党で全体の過半数」といい、党幹部はすぐ「改選数の過半数」と訂正した。どっちでもいいのだが、彼らは本音の目標である「3分の2維持」を隠し虚偽の目標を吹聴した。自民は現有123ですでに単独過半数を有しており、それを下まわる目標設定などありえない。
党内から不満が出ないのも異様だが、この虚偽の目標には二つの姑息な狙いがあった。一つは低い目標を掲げることで選挙報道の指標を操作してバンドワゴン効果を狙ったこと。二つは過半数目標は、現有を下まわっても「有権者の信任を得た」とのごまかしに使えること。
目論見どおり、公示直後の朝日新聞は「自公、過半数の勢い」と報道した。選挙後は、10の1人区で敗北し与党が後退したにもかかわらず、安倍首相は「力強い信任を頂いた」と胸を張った。
自民の比例得票数は1771万1862票だった。安倍自公政権の6年半に行われた国政選挙は今回で6度目だが、比例得票数の最少は12年の衆院選で1662万4457票、最多は18歳選挙権が行使された16年の参院選で2011万4788票だった。ざっくりした話だが、有権者総数を1億とすると自民は有権者の17~20%の支持ということになる。
マスコミの世論調査で内閣支持率が高止まりというが、国民の世論は国政選挙における比例の絶対得票率でみるべきだ。有権者の意思が正確に反映しない選挙制度のため、自民は衆院の61%を占める285議席、参院は今回で46%の113議席だが、2割前後の有権者の支持率で「安倍一強」などと有頂天になってる場合じゃないのではないか、と思う。
参院選の結果、3分の2の壁は崩れたがその差4議席だ。憲法審査会は衆参両院とも自民が過半数を占めており、ここに持ち込めば改憲案をいつものように強行採決できる。なんとか4人かき集めて国会発議すれば、最短2ヵ月後に国民投票を実施できる。いささか乱暴な見立てだが、立憲主義を破壊してきた安倍自公政権の6年半を思えば、なくもない。
ふたたび数の力の暴政が始まろうとしている。米国主導のマッチポンプを絵に描いたような有志連合に追従して自衛隊をホルムズ海峡に派兵すれば、9条改憲は一気に現実化する可能性もある。そして総裁4選を否定しない安倍首相は、国民投票を見すえた9条改憲運動を地域からおこそうとしている。だが人びとは必ず正しい選択に向かう。
「善きことは、カタツムリの速度で動く」。1947年、200年におよぶ大英帝国の支配から非暴力・不服従を貫きインド独立を成し遂げたマハトマ・ガンジーの言葉である。
伏木野 静代 (山口在住)
硫黄島に上陸した米軍.後方は摺鉢山(「1億人の昭和史」より)
7月27~29日、浦和コルソで「埼玉・戦争展」が行われました。私が会員でもある「平和遺族の会」も参加し、今年は、父親が硫黄島(いおうとう)で戦死し、残された母子4人が心中寸前まで追いつめられながら生きぬいた方の報告をしました。
東京都の小笠原諸島の先にある硫黄島は、北緯24度、台湾とほぼ同じ緯度にあり、周囲は約22㎞、広さは北区と同じくらいです。16世紀にスペイン、18世紀にはイギリスにその存在が確認されましたが、明治24年、日本の島になりました。当時は1世帯6人でしたが、昭和19年には216世帯、1164人が暮らしていました。
水は雨水、谷川もない島でしたが、硫黄採掘、サトウキビ、コカ、レモングラスや果物の栽培、漁業も盛んでした。教育にも熱心で、相撲、テニス、野球などのスポーツも行われていました。しかし、アメリカとの戦争が島を一変させ、戦闘が始まると、島民ほぼ全員が疎開させられ、終戦後も誰一人、帰島できていません。
アメリカにとって、サイパン、テニアン、グアムから日本本土を空襲するための中継基地として絶対必要だった硫黄島。昭和20年2月16日、米軍はこの島に上陸し戦闘が開始されます。日本にとって国内で初めて行われる地上戦で、この島を死守するために日本軍は徹底抗戦、飢えと渇きと熱い硫黄のなかで、11万の米兵を相手に約1か月間、激戦が繰り広げられました。
この戦いで日本兵2万2000人、米兵も6800人が戦死し、負傷者は2万人にものぼりました。いまだに1万数千人の遺骨が地中に眠っています。
太平洋戦争屈指の激戦地だった硫黄島には、いま海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれ、米軍の夜間離着陸訓練が行われています。
硫黄島の戦闘はクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」や、梯久美子のノンフィクション『散るぞ悲しき』でも紹介されています。
白戸 由郎 (こぶし町在住)
通常、歴史は政治、経済、軍事などを追って書かれます。しかし、この『B面昭和史』(平凡社)は、レコードで言えばA面が主で裏のB面が従ですが、それにならって、B面、新聞で言えば社会面で昭和史を追っていったものです。
私は昭和16年、浅草の柳北小学校に入学しましたが、その年の4月から小学校は「国民学校」となりました。学制を変える審議のなかで「皇民学校」とすべきとの意見が強かったといわれるだけに、私たちは児童としてよりも、天皇に従う「臣民」として教育されたのでした。当時の社会状況はどうだったのか、私の幼い頃の見聞を確かめるつもりで、この本を開きました。
本土への米軍機の初空襲は1942年4月18日です。その日、私は屋根にあった物干し台で遊んでいましたが、胴体に青い星のマークをつけた双発機が北の空を飛んでいくのを発見しました。どこの国の飛行機かと思っているうちに、近くで黒煙が上がり、空襲警報のサイレンが鳴りました。母の「空襲だよ、早く降りなさい」の声に部屋にもどりましたが、それがドウリットル中佐の指揮する米空軍B25、13機の本土初空襲でした。本には「軍は9機撃墜と発表した」「9機でなくクウキでないか」と人びとは話し合ったとあります。事実、全機、中国方面に飛び去り、本土上空で撃ち落されたものはなかったのです。
1943年になると、「煙突のない工場地帯」と言われた浅草橋に近いわが町の風景が変わりはじめます。「戦時物資統制令」などで、どこも商売が成り立たなくなり、廃業に追い込まれ、徴用で(徴兵の「赤紙」に対し「白紙」と言われた)工場に動員される事態になりました。それにしても、鉄工場のオヤジさんなら旋盤もボール盤も使えますが、餅菓子しか作ったことのない菓子屋のオヤジさんに何ができたでしょうか。
こうして、わが町もすっかり静かになっていきました。わが家も、赤ちゃんの帽子製造・卸しの生地が入らなくなり窮地に追い込まれました。なかには同業者と組んで福井の業者からヤミで生地を手に入れ検挙されることもあったようです。国民学校3年の私にはくわしいことはわからなかったのですが、こうした事態を兄たちは深刻に受け止めていたようです。そのためでしょうか、翌年、長兄は陸軍特別幹部候補生に、次兄は海軍飛行予科練習生に志願し、出征していきました。
『B面昭和史』を読みながらそんなことを思い出しました。
佐藤 俊廣 (北岩岡在住)
1949年に刊行された初版本の表紙
8月15日が近づくと、『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)の冒頭に掲げられた上原良司さんの「所感」を読みます。特攻隊員として知覧飛行場から沖縄に出撃する前夜に書き、陸軍報道班員の高木俊朗氏に託し、直接、家族に届けられた遺書です。
慶應大学で学んだ22歳の上原さんは「人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つという事は真理であると思います」と述べ、ファシズムのイタリア、ナチズムのドイツの敗北に触れ、日本の敗北を見通していました。そして「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」と結んでいます。
全国から寄せられた学徒兵の遺稿、祖国と愛するものの未来を憂いながらつづられた75篇を収録した『きけ わだつみのこえ』は、1949年、東京大学協同組合出版部から刊行されました。光文社のカッパ・ブックスなどをへて、岩波文庫の一冊になったのは1982年。
2007年に「岩波文庫」創刊80年を記念してアンケート「私の三冊」が行われました。232名の方から回答が寄せられ、それを収録した『図書』の刊行に私は携わりました。数ある書目のなかで最も多くの方から推挙されたのが、この『きけ わだつみのこえ』でした。
上原さんと同郷(長野県安曇野)の映画監督・熊井啓さんは、「中学先輩の上原良司氏は特攻出撃前夜に書き残した文中で、自らを「自由主義者」と呼び、権力主義国家の滅亡と自由の勝利を予言している。あの時代に自由を切望した若者の真摯な思いが胸を打つ」とコメントを寄せました。
また、私たちの「九条の会」会員だった忍足欣四郎さん(英文学者、小手指町、2008年没)は次のようなコメントを寄せました。「太平洋戦争は現代日本の最大の悲劇だった。戦陣に散った学徒兵の手記は戦争の悲惨さを鮮明に伝える。この悲劇を踏まえて平和を希求する憲法が制定された。決して遠い過去の出来事ではない」。
多くの学徒兵が私たちに託した思いを胸に、安倍9条改憲に立ち向かいたいと思います。
勝木 英夫 (ロシア連邦北東大学名誉教授・中富南在住)
東シベリアの町ヤクーツクの教師になって、早くも30年ほどになります。世界で最も寒いこの町については、すでに何度も紹介しましたので、今回は学生たちの兵役にしぼってレポートします。1990年代後半の話です。
ロシアの兵役は18歳から。しかし、大学在学中は免除されますから、学内は平静です。それが年末を迎えるころから、急速な変化が現われます。卒業目前の学生が一人ずつ私の席にやってきて、立ったままの肩に顔をうずめて、ただ泣くのです。号泣です。
チェチェンでの戦火の拡大にともない、そうした学生が急増しました。私の上衣は彼らの涙と鼻水でグショグショ。クリーニング店の女主人が代金を大幅にカットしてくれました。
要するに、学生たちは銃の引き金を引きたくなかったのです。ヤクーツクの学生も、「敵」とされたチェチェンの若者も、ロシアからの自立・独立を希求する点は共通ですから、両者の戦いは「同士討ち」にほかなりません。あらためて学生たちの涙の重さが思い出されます。
チェチェンから全員無事で戻れたかどうか。調査は未完です。「もはや教師と学生の関係は切れている」から回答不要、というのが当局側の言い分です。ロシアでは、すでに徴兵制から志願制への転換が進行中。女性はもともと志願制です。
今井 康之 (読者・三鷹市在住)
トランプ米大統領はG20サミット終了後の記者会見で、日米安全保障条約は「不公平な条約」だと不満を露わにしました。歴史的経緯についてあまりにも無知なのでびっくりしました。歴史を振り返ってみましょう。
日本はポツダム宣言に基づき1947年に新憲法を制定し、再び戦争をしない国として出発しました。またポツダム宣言には、日本に軍隊を持たない民主的な政府ができれば占領軍は撤退しなくてはならないと明記されています。
当時、原爆を持っていたのは米国だけでしたが、49年、ソ連も核保有国に、50年には朝鮮戦争が勃発し、世界は米ソ対立が激化し二極の冷戦体制時代に入りました。
51年、サンフランシスコ平和条約が締結されました。これで日本は名目上独立国になったのですから占領軍(米軍)は撤退しなくてはなりません。この矛盾を隠蔽するために、日本が希望し、米国がそれを許諾するというトリックを米国が策し、同日に日米安保条約も締結されたのです。日本は米国の対ソ連陣営包囲の極東最前線基地として、米国が望む軍隊を、望む場所に、望む期間配備することを認めさせられたのです。こうした関係は対等ではありません。「不平等」と言います。
ところが、その後の歴史は日米安保の前提そのものが存在しなくなったという事態を現出させました。91年に冷戦が終結し、肝心な第一の脅威、ソ連は国が崩壊。第二の脅威、中国は今や米国と深い経済関係を結び合い、たがいに双方が無ければ国が成り立たない間柄になっています。第三の脅威、北朝鮮はワシントンにまで届くミサイルを開発したものの、軍事費偏重で疲弊。米国もこのミサイルを無視することができず、両国首脳は直接会って戦争への道を回避しようとしています。
米国が世界に対して核を背景に脅すことを止め、日本政府が米国に追随しなければ日米安保は必要ありません。それに代わって日米平和条約を結べばよいのです。さらに北東アジア平和共同体へと発展させたいものです。
日米安保は日本の在り様を決めている根本問題であり、トランプ発言を機に国民的議論を巻き起こそうではありませんか。
トランプ発言には不公平問題について「過去6ヵ月間、安倍首相に伝えてきた」とあります。半年前どころか安倍首相は5年も前から、米国の船が近海で攻撃されているときに、日本の自衛隊が助けに出るのは当然のことだと言い切って2015年に安保法制を成立させました。
日米安保条約の第10条にはどちらか一方の国が廃棄通告すれば1年後にこの条約は終了するとあります。それが6月23日です。「沖縄戦終結の日」でもあるこの日を「6・23 日米安保廃棄の日」にしましょう。
画・大山茂樹
倉片呉服店(金山町,昭和9年の建物)
改憲阻止野党共闘大健闘 (武蔵坊)
夏の空辺野古の海は無言なり
美ら海や沖合遥か初夏の風
沖縄忌一人ひとりに誓けり
◆戦後74年目の夏を迎えました。8月6日、9日、15日が何の日か、答えられない若者が増えています。6月の総会で「若者を意識した運動」について議論しました。「戦争展」には高校生のすがたもありました。戦争や憲法9条について、若者と一緒に考える機会をつくっていきたいものです。
◆7月21日の参院選を前に、9日と19日、新所沢駅前で、会独自のチラシを配布し、憲法9条をまもる候補者・政党への支持を訴えました。改憲勢力が3分の2を割ったにもかかわらず、安倍首相は「民意を得た」と主張し、9条改憲に執着しています。新たなたたかいが始まります。
◆10月に「憲法カフェ」を開催する予定です。詳しくは次号でお知らせします。