機関紙16号 (2006年8月28日発行)
小泉首相は8月15日午前、九段の靖国神社に、6年連続6回目となる参拝を国内外の強い抗議の中、強行しました。靖国神杜は日本の過去の侵略戦争を正当化する立場を広く宣伝するセンターとして知らている。あの戦争を推進し、国民に塗炭の苦しみを与えた、戦争責任者・A級戦犯も合祀(ごうし)している。小泉首相には、先の戦争で死んだ310万の同胞の慟哭(どうこく)と、帝国目本軍に殺された2000万人といわれる近隣諸国の民衆の怨嗟(えんさ)の声が聞こえないのだろうか。識者、会員、読者による、「靖国神社参拝を考える」特集をした。
池田龍夫 (ジャーナリスト・元毎日新聞)
小泉純一郎首相は5年半に及んだ"“権力の座”から間もなく退場するが、内外を騒がせ続けてきた「8月15日靖国神社参拝」を遂に強行した。独断専行、意表を衝く政治手法に酔い痴れた果て、日本の将来に禍根を残すパフォーマンスが腹立たしい。
そもそも小泉首相靖国参拝の動機は、政治的野心を秘めた不純なものだった。2001年4月の自民党総裁選。橋本龍太郎候補を追い落とすため、狙い定めたのが日本遺族会の大票田だった。
ところが、10万票を超す大組織の会長はライバルの橋本氏。強固な橋本陣営を切り崩すため、小泉陣営が遺族会に“公約”したのが、「8・15靖国参拝」だった。この電撃作戦が奏効して、小泉氏は自民党総裁・首相の座を射止めたのである。その後「靖国参拝は公約だ」と盛んに吹聴しているが、“国民への公約”でなかったことは明白で、小泉政権はスタートから欺瞞性に満ちていたと言えるだろう。
小泉首相は8月15日朝、こだわり続けた「終戦記念日参拝」を成し遂げたあと、「8月15日を避けても批判、反発は変わらない。ならば、今日は適切な日ではないか。『A級戦犯が合祀されているから行っちゃいかん』という声があるが、圧倒的多数の戦没者に対して哀悼の念を持って参拝するのが何故いけないのか。A級戦犯のために行っているのではない。日本文化の問題、まさに心の問題でしょう。中国や韓国の言うことを聞けば、アジア外交がよくなるとは思わない」と、小泉流理屈を繰り返す姿勢は噴飯ものだ。
1年前の8月15日、小泉首相が“首相談話”で「我が国は、かつて植民地支配と侵略により多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた。歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのおわぴの気持ちを表明する。戦後我が国はサンプランシスコ平和条約を受け入れ、国際社会復帰の第一歩を踏み出した。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築したい」と強調したが、今回の「8・15参拝」によって小泉流“口先談話”に過ぎなかったことが分かる。小泉首相に正しい歴史認識があるならば、A級戦犯合祀の靖国参拝を断念(凍結)し、新たな追悼施設などを検討することが為政者の責務だ。ところが小泉首相は、聞く耳を持たない“自己陶酔”型の政治家で、しかも“思いつき発言”が目立つ。「A級戦犯合祀の矛盾」を問いつめられると、本質論を避けて「心の問題だ」との情緒的言葉で逃げてしまう。宮田朝彦・元宮内庁長官(故人)メモが最近見つかり、昭和天皇が1976年以降靖国参拝を打ち切った理由が「A級戦犯合祀」にあったことが明らかになったのに、これにも全く耳を傾けない傲慢さだ。ましてや、他国からの合祀批判には「批判する方がおかしい」の一点張りで、「相互理解に基づく未来志向」など望むべくもない現状になってしまったことが嘆かわしい。
外交・内政を揺るがす重大テーマとなった「A級戦犯合祀」の再検討は急務だが、「政教分離の原則があるので政府は宗教法人である靖国神杜に物申せない」と小泉首相や政府与党首脳は弁明するばかり。「A級戦犯は戦争犯罪人」と国会答弁した小泉首相が、その“戦争犯罪人”を合祀する神社へ参拝に行く矛盾に気づかない鈍感さに呆れる。自らの“論理矛盾”“政治介入”を棚上げして、本質論議・説明責任を果たさない小泉流政治手法こそ混乱の元凶である。
(次号に続きます)
岡本健哉 (久米在住)
国内外の憂慮と批判を無視して強行された小泉首相の8・15靖国参拝は、反知性的で傲慢な権力者の剥き出しの反動性を表す全くの政治的行為である。今日的状況の危機が、また一段と深まった。靖国神社は、過去の侵略戦争を自存自衛の「正しい戦争」だったという歴史観を普及させる根源地である。一国を代表する首相の参拝は、偏狭で野蛮なナショナリズムをはびこらせる温床であり、アジアの平和に緊張をもたらし、日本を一層孤立させる。侵略戦争への無反省は「君が代・日の丸」の強制、「新しい歴史教科書」問題、教育勅語の再評価と教育基本法の改悪、日米軍事同盟の再編強化、そして憲法九条の破棄に連なる危険な「戦争への道」である。
鴨川孝司 (こぶし町在住)
インターネットに小泉首相は靖国参拝前に2回の世論調査をやっているとあり、今回の靖国参拝は次への計算、憲法改悪にむけてののろしを上げたのだと思います。
日本の首相として、各国を歴訪し平和を誓ってきながら、米軍再編への積極的参加、軍国主義の象徴とも言える靖国への参拝を行う傲慢な政治姿勢は世界の平和でなく独裁的な世界支配への願望、小選挙区制による民主主義軽視の政治が作り出す根っこの深いことを思わされました。
小宮純一 (埼玉新聞記者)
8月15日、社会面の整理を担当した。「首相参拝の公算大」との情報で、定番の「県民の声」集めを指示したデスクが、送られてきた原稿を見て言った。「支持派ばかりじゃないか」。しばらくして、加藤紘一元自民党幹事長の実家が全焼し、現場で割腹自殺を図ったらしい男がいるとの共同通信第1報。どうやってこれを4段見出しにしようかと考えていた最中、隣にいた30代の記者が言った。「これだけ我を通す小泉って面白いな」。記者の眼も漂白化されかかっている、と感じ、ゾッとした。
機関紙16 もくじへ間島 弘 (国民救援会)
8月16日~17日、こぶし町、北原町、中新井一帯を右翼の街宣車が大音響を響かせ走り回りました。17日から始まる「教育のつどい2006」(今年は埼玉県で開催。開会集会は所沢市民文化センターミューズにおいて、作家・藤本義一氏の記念講演)に対する右翼の妨害宣伝です。
ミューズの会場使用許可は、5月にとっていましたが、7月中句に記者発表をしたところ所沢市と所沢文化振興事業団は、「全国規模のもの」と明記されていなかった、右翼による妨害が予想され、市民生活に混乱が予想されるとして、会場使用の取り消しを通知してきました(この措置をめぐって裁判で争われましたが、最終的に8月15日、主催者の主張が認められ開催にこぎつけました)。
この事態をうけ、急遽、8月2日、「つどいを成功させる所沢の会」が13団体で結成され市民に事態を知らせ、「つどい」の成功を呼ぴかけました(私は国民救援会の立場で参加)。これまでの経過を「マスコミ・文化九条の会所沢」に報告、8月9日の新所沢駅頭の「9の日」宣伝にビラを一緒にまくとともに事態について訴えました。続いて10日には、交通規制がしかれる周辺の町にビラを配布しました。
集会そのものは、成功裡に終わりましたが、集会の自由に対する市の態度、右翼を使った「教育のつどい」に対する妨害など.九月の臨時国会の一大焦点となる「教育基本法改悪法」案に対する市民挙げての取り組みの強化が必要になっていることを痛感しました。
機関紙16 もくじへ増岡敏和 (詩人、青葉台在住)
手をひろげ心をひろげ
九条守って抱きしめよういのち
これはこの1月に、憲法を守るキャチコピーをつくれと、先輩の依頼に応えて書いた12句の中の一つです。はからずもこの句は、京都の守ろう憲法九条2・18交流会のビラに掲載されることになったものですが、今度、当会の機関紙部から「憲法とわたし」について書いてほしいとの連絡を受けました時、ふっとこのことが思い出されましたので、未発表分の拙作を若干紹介したくなりました。
憲法九条いまが旬 戦争ない六〇年の味
いのち香る九条と子どもたちの目に 殺しの軍隊はいらない
聳える富士を背に茜の裾野を広げて守ろう九条
青空の真ん中に太陽 九条の根っこに育っ子どもたち
一人よがりに陥っていますがお許し下さい。
私は広島市出身で、戦争と原爆で、一家9人のうち父、母、祖母、上と下の妹の計5人が被爆(結果的には4人が死亡)しました。私は予科練(松山)に入隊しており、弟3人は学童疎開していて、下の妹と今日は5人が生さ残っています。広島では家族たちとともに死ねなかったものの負い目を胸に「生き残った」と悲しくも言うのです。この表現に傾く思い、ご推察下さい。
今にして、この平和憲法があの時代にあったらと思います。そして、この憲法が危うくされている今日、憲法九九条の「天皇~国務大臣、国会議員、裁判官その他~は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とあるのに、彼らは、この義務を蔑(ないがし)ろにしていることに、私は怒りを大きくしているところです。
機関紙16 もくじへ鈴木 彰の「ヤスクニで割れ砕けるさざれ石」
機関紙16 もくじへ坪井俊二 (日本ユーラシア協会副会長・緑町在住)
毎年の原水爆禁止大会については、一般の新聞は殆ど報道しない。私の知るところ「しんぶん赤旗」と地元「中国新聞」くらいだ。だからといって赤旗の記事を抜粋したような報告をしても新鮮味に欠けるだろう。マスコミ・文化九条の会世話人の草鹿光世さんの夫、亡くなられたロシア文学者の草鹿外吉さんと同じく、広島に原爆が落とされたとき私は広島湾内江田島の海軍兵学校に在学していた。このことは既に本会機関紙への投稿の中で触れているが、その日から8月15日敗戦にいたる時期の状況をもっと悲劇とロマンを込めて、同じ兵学校の同期だった文学者早坂暁氏が赤旗日曜版に《花へんろ》として連載執筆中で、いまクライマックスにさしかかろうとしている。
前置きが長くなったが私は人生最も多忙だった時期を除き、世界大会出席は20数回に及ぶ。とくにここ10年余は8月2~4日の国際会議、これに続く世界大会広島そして長崎大会の開幕まで、70~80名に及ぶ海外代表たちが、日本で気持ち良くこの10日間を過ごせるように下から支える仕事をしてきた。今は大会議長団の一員としても役割を果たしているが、どうしても日本国民の皆さんによく知ってもらいたい実体としては次のことは欠かせない。2000年(ミレニアム「1000年紀と称した」)国連では加盟国の全員一致で「時期を区切った核兵器の完全廃絶」が決議・採択されたことである。しかし、それも束の間、2001年9月11日同時多発テロは、その防止を口実にアメリカ・ブッシュ政権を再び新型核戦略へと逆戻りさせた。だが全世界の人間の良心は決してこれを見逃してはいない。20世紀までは表見は悪いが、ごまめの歯軋りのような側面も無きにしも非ずでマンネリ化した大会論議もあったが、21世紀に入ると若い世代の参加が力強く目立ち始めた。目覚ましいのは各国政府の正式代表の参加が始まったことだ。
今年はメキシコ、キューバ、マレーシア、エジプト、アラブ連盟の大使または外務次官級の高官が出席し、フォーラムなどで堂々と国際正義に基づく正論を述べた。大事なのはこれら外交官の誰もが『国連には限界がある。この世界大会での真の草の根の国際的な大衆運動と国際世論だけが、我々の国連活動を助けてくれるのだ』と言い切っていたことである。日本国民の憲法九条を守る闘いは、核戦力を頼みとし経済、軍事の一極覇権主義に狂奔する勢力をかならず包囲し孤立させ、最後は勝利することを確信する。
機関紙16 もくじへ岩崎貞明 (放送レポート編集長)
報道ステーションが、「宮内庁の未発表資料のスクープ」として、昭和天皇の外国人記者との面会記録による昭和天皇の発言について、15分くらいの特集を組んで報じた。終戦直後の1945年9月25日に、昭和天皇がニユーヨーク・タイムス」のフランク・クルツクホーン記者とUP通信社のヒユー・ベイリー社長と会見したというものだ。質疑は事前提出の文書によってなされ、回答も文書で行われた。
そのなかで、クルツクホーン記者の「最新の武器が将来の戦争をなくすことになるのでは?」との質問に、昭和天皇は「……武器を使うことで恒久の平和が確立され維持されるとは思えない。平和の問題を解決するには、勝者も敗者も軍事力に頼らず、自由な諸国民の協調によって達成されるであろう」と答えたというのだ。
この回答の作成には吉田茂や幣原喜重郎といった、平和憲法制定に日本側で尽力した人々が関与していたもようであるが、この回答は当時の「ニューヨーク・タイムス」のトップを飾り、それが日本でも報道された。しかし、この会見の2日後に行われた昭和天皇とマッカーサー元帥との面会報道の衝撃が大きく(日本政府は一時、2人が並んだ写真を掲載した新聞を発行停止にしようとした)、日本ではほとんど人々の記憶に残らなかった。
いわゆる“アメリカの押し付け憲法論”に対する反証として、意味のある報道だろう。日本国憲法制定論議が始まる以前から、「戦争放棄」の思想が日本側に確固として存在していた証明になるものである。宮内庁の内部資料を公開させたことも有意義だ。
しかし、気になるのは、昭和天皇の意見がことさらに強調される傾向である。さきに日本経済新聞がスクープとして報じた「A級戦犯合祀に昭和天皇が不快感を示し、以後天皇は靖国参拝をとりやめた」とする富田元宮内庁長官メモについても、同じことが言える。首相の靖国公式参拝を推進する側にとって打撃、とする報道が見られたが、これは二つの問題を含んでいると思う。ひとつは、昭和天皇の発言を現在の政治的な主張に重ね合わせて意味づけることは、「天皇の政治利用」という、同本国憲法が禁じている行為をメディアが推進してしまうこと。もうひとつは、「昭和天皇は平和主義者だった」という人物像を印象付けることによって、いまだに明確化されていない昭和天皇の戦争責任に関する問題を、よりいっそうあいまいにさせる効果をもたらすことである。
天皇の発言によりかかるようにして憲法や平和の問題を議論することは、多くの国民にこの問題を親しませる一方(日経報道後の朝日新間などの世論調査の結果が物語っている)、天皇発言を今後ともことさらに重視する姿勢をメディアがとってしまう危険性をはらんでいる。テレビがこうした問題にチャレンジするのは賞賛したいが、どのメディアも天皇発言重視では、日本はいまだに「天皇を中心とした神の国」(by森喜朗元首相)を脱却できないのではないだろうか。
機関紙16 もくじへ斉藤和子 (西所沢在住)
有明講演会の前後に各地に「九条の会」ができたように、私の働く職場でも『開隆 九条の会』(開隆と九条の間に半角スペースを開けて、ここを反核と読みます)が2005年7月発足しました。同じように啓林館東京支社でも『啓林東京九条の会』ができ、当初はそれぞれ別に活動していたのですが、小さい集まりですと運動が広がりません。歩いて5分くらいのところにある会社同士、一緒にやりましょうということで合同の活動が始まりました。
これまでに「本郷通りから憲法九条を考える集い」と称して2回、講演会をやりました。
第1回目は「九条の会」事務局長で東大教授の小森陽一氏を講師に2005年12月14日に行いました。小森さんのお話は、九条を変えようとしている人たちは何が目的なのか、変えるとどうなるのか、といった問題点が浮き彫りされ、「居酒屋でも通用する20秒で改憲派に勝利できる議論」など分かりやすいお話で、改憲の動きを止めるために一人一人ができることは何かを考えるきっかけになりました。
第2回目は今年の4月26日、東大大学院教授で『靖国間題』の著者である高橋哲哉氏を迎えて、「憲法九条と靖国間題」と題して講演していただきました。戦争ができる国づくりのために「教育基本法改定」「靖国問題」「憲法改正」が深く関わっていることを、靖国神社関連の衝撃的なビデオや写真を使って話してくださいました。
どちらの集会も主催者側の予想以上の参加者(1回目61名、2回目86名)で、出版労連の仲間だけではなく、街頭ビラを見たという一般の方も聞きにきてくださいました。
機関紙16 もくじへ安田敏男 (所沢市議会議員)
「安田さん、三億円を淵の森保全に寄付したいんだけど…」、「ほんとうですか?」と、絶句してしまった私だった。
それは1996年9月1日の保全会議で、会長を快く引き受けてくれた宮崎駿さんの口から、「募金運動開始早々で弾みになればと思い、実は…私の関係する会社から寄付をしたいのだが…」と言われ、その億単位の金額に会議参加者一同が絶句してしまったのだ。「宮崎会長は本気だ」と私は思い、どうしたらよいのか悩みましたが3日夜、「となりのトトロ」の映画監督である宮崎駿さん宅の床が軋むほどの台所兼食卓で、奥さまから正式に3億円の寄付を伝えられ、「安田さんにお任せします」と言われたのである。
淵の森保全運動は、この3億円の寄付を契機に一気にマスコミが報道を展開し始めたため全国に有名になったのである。その結果、全国から寄付が集まり、マスコミ取材も多くなって、当時人気の『電波少年』の松村邦広?なる芸人が所沢市役所に突然アポなしで私を取材にきたのには驚かされた。番組ストーリーは、松村が事務局長の私を突然訪ねて、あれこれ淵の森保全のいきさつを聞き、宮崎駿さんがテレビインタビューで「犬のウンチも歓迎です。肥料になるから…」という言葉尻を捉えて、アイスをめちゃ食いした松村が、淵の森の中でウンチをするというお下劣なもので、結局は放映されませんでした。
さて、宮崎駿さん夫妻が、私をこのように信頼しているかというと、「自民党系の市議が川掃除を始めたので売名行為かと訝ったが、安田さんは、いつも先頭に立って柳瀬川の掃除をしても政治家振らないのが良いし、言っている事が面白いしマトモだから…」というようなことが、彼の喋ったことを書いた本に書かれています。淵の森には、彼は毎週日曜日の朝九時頃に散歩に来ていて、「安田さん、オハグロトンボがこんなにいるよ」、「川の中には、魚のメダカが気持ちよさそうに泳いているよ」、「安田さん、誰か連れてきて一緒に川に落ちているパイクを拾い上げてくれないかな」などという会話がちょくちょくあります。それにしても3億円もの大金をどうして寄付する気になるんだろうか?
あの自然賛歌の映画づくりの情熱は「ホンモノ」だと率直に私は思います。
今私は、狭山丘陵の貴重な谷戸・北野の藤森稲荷近くに予定されている「ゴミの第二最終処分場」に反対しています。ただ反対ではなく、最終処分場は必要なのですから、豊かな森を破壊して造るのではなく、遊休農地を集め買い取り『平地型最終処分場』にすぺきと訴えています。だって、豊かな湿地を持つ狭山丘陵最後の谷戸を破壊したら、二度と元には戻りません。だから、絶対破壊せずに「保全」しなければならないのが、私たち現在の市民の責任だと思うからです。平地型にすれば、要望の多い「運動場」や「芝生のサッカー場」、「芝生のラグビー場」そして、「原っぱ公園」や「集会所」が約束されるのです。
もうひとつストップしたいのが、北秋津上安松の区画整理です。所沢の東口から400mの所にある豊かな雑木林は、駅から近いからこそ貴重なのです。区画整理して土地を高値で売りたい農家がいるのを知っていますが、区画整理事業は20年間もかかり、その後税金は4000倍にも跳ね上がることを知っていますか?人口も所沢市だけが上昇するなんて絶対にありませんから、人口は減っていくは自明の理です。固定資産税も下がるはずはありませんから、税金を払うためにアパート経営や駐車場を始めなくてはならず、結局、土地を売らざるを得なくなるのが「区画整理事業の基本理念(優良な住宅地を提供する)」であるからです。
21世紀の地方自治理念は「開発ではなく保全」だと確信しています。一緒に、未来の子供たちの財産を食べてしまう市政から脱出しませんか。
機関紙16 もくじへ藤原秀法(彫刻家・山口在住)
今年の8月には、二つの平和美術展に彫刻作品を出品した。まず会期が7月30日から8月11日までの第54回平和美術展。東京・上野公園の都美術館で行われた。その開催の言葉は次ぎのように訴える。「平和美術展は、1952年朝鮮戦争のさなか、平和を愛する美術家たちによって關かれました。思想・信条・流派の違いを越えて集った平和美術展の伝統は受け継がれ、今年は第54回展を迎えます。『平和な21世紀を』という世界の人々の願いに逆らって引き起こされた戦争は、今もなお続けられています。過去の戦争への痛切な反省と平和への決意から生まれた日本国憲法、とりわけ九条を変えて、日本を『戦争をする国』にしてしまおうとする動きが強まり、私たちの生活も文化も大きく歪められています。私たちは、人間の英知を持って世界から戦争を無くし、平和と人間らしさ、いのちと自然を守り育てていく願いを込めて、平和美術展を開きます」とあります。
毎年、文章は多少違っても、同じような訴えで展覧会は始まります。会期中には、広島、長崎の被爆の日を必ず入れます。これでは美術作品を生み出す者の一人として、出品しないわけにはいきません。出品だけでなく運営にもかかわり、第21回展以来、33年間毎年出品し、会議にも参加してきました。去年から出品を始めたのは、埼玉平和美術展です。今年は40回記念展で、会期は8月15日から20日まで。ここは終戦日の8月15日が会期の中に入っています。参加してみると、みんな一生懸命やっており、共感することも多く、抜けられなくなってしまい、定例の出品展が7カ所になってしまいました。
東京都の中学校の教員(美術家)をやっていた頃は、授業の他に、組合活動、生活(生徒)指導主任とか、いろいろあり、夏休み以外は時間がとれなく、年間に大きなのが1点、小さな作品が1ないし2点しかできなかったので、平和美術展のほかには、2カ所くらいの展覧会にしか出品できませんでした。しかし、50歳で退職してからは毎日が制作日になり、多いときには、12カ所の展覧会に出品しました。
上野の平和美術展の出品目録の表紙の頭に、「すぺてのいのちを大切に、平和の壁に花一輪を」と毎年書かれています。私の作品はテーマ性が乏しいと言われることがありますが、何か作ろうとすると、いやらしくなってしまうのが嫌いで、ついシーンと音がしてくるような静かなものになってしまいます。でも、「すべてのいのちを大切に…」のうちに含まれるから、これからもマイペースで行こうかなと半分開き直ってています。
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