機関紙26号 (2007年8月4日発行)



もくじ
特集・終戦から63年目の夏を語る
戦争のうた
 藤森 研(朝日新聞編集委員)
「戦争・家族・平和のこと」
 下富の高師節子さんが語る
終戦二日前に召集、三年余も極寒の地に抑留
 矢沢芳郎(中新井在住)
憲法第九条に寄せて
 たおやかにおおらかにたからかに
 幼い問いに
 増岡敏和(詩人 青葉台在住)
民意は自公政治にノー
 九条守る運動、新たな局面に
いま、私は言いたい
 隙間風 寺島幹夫(俳優 小手指在住)
 美術家になれたのは戦争がなかったから 岡部 昭(彫金家 山口在住)
 テレビは権力の私物ではない 門目省吾(山口在住)
「蟻の兵隊」の池谷薫さんからお便り
情報ファイル
    



戦争のうた

藤森 研(朝日新聞編集委員)

 戦前・戦中の日本の軍国歌謡に触れる機会があった。戦後派の私なりに、当時を生きた人の思いを考えるきっかけになった。  初期の軍国歌謡に、満州行進曲がある。

 過ぎし日露の戦いの/勇士の骨をうづめたる/忠霊塔を仰ぎ見よ(中略)東洋平和のためなれぱ/我等がいのち捨つるとも/何か惜まん日本の/生命線はここにあり/八千万のはらからと/ともに守らん満州を

 「東洋平和」の飾り言葉が文脈から浮いている。遅れて登場した帝国主義国・日本は、国運を賭けた日露戦争に辛勝して満州の権益を得た。それを何としても守り抜きたい。そんな思いが歌詞ににじむ。
 第一次大戦後、世界には民族自決の機運が高まる。しかし日本は、中国の民族主義による排日運動を「贋懲(ようちょう)」の対象と捉えた。当時の『少年倶楽部』は「満州事変の原因解説」として、「支那人は日本人を満州から追ひ出さうとして、永い間日本人の邪魔をして来たのだ」と、あっけらかんと書いている。

緒戦の連勝に熱狂

 満州事変で関東軍が一挙に武力制圧をすると人々は歓呼した。その先頭で、新聞やラジオは音頭をとった。満州行進曲の歌詞の作者は、大阪朝日の計画部長の大江素天だ。当初の政府の不拡大方針は腰折れし、日本は国際連盟脱退の道へと進んだ。

 1937年から日中戦争が始まる、歴史事典が書くように「東アジアの大国である日本と中国が18年間にわたって展開した大戦争」であった。軍国歌謡も量産される。

 父よあなたは強かった/兜も焦がす炎熱を/敵の屍と共に寝て/泥水すすり草を噛み/荒れた山河を幾千里/よくこそ撃ってくだされた(中略)友よわが子よありがとう/誉れの傷のものがたり/何度聞いても目がうるむ/あの日の戦に散った子も/きょうは九段の桜花/よくこそ咲いてくだされた

 

作者は、大阪府に住む32歳の若い母親であった。

 肩をならべて兄さんと/きょうも学校へ行けるのは/兵隊さんのおかげです/お国のために戦った/兵隊さんのおかげです

これは元代用教員で、文選工だった青年の作品だ。

 国民は戦争の単なる被害者ではなかった。むしろ、戦争のたびに景気がよくなることを期待し、太平洋戦争開始時には緒戦の連勝と占領地の拡大に熱狂した。そして父や夫や息子を、内心はともかく、侵略軍として近隣諸国の戦場へ旗を振って送り出したのである。

だから今僕がいる…

軍、政府、メディアなどには、それぞれにあの戦争への重大な責任がある。しかし二度と戦争をしない道を考えるうえで、国民の戦争協力も忘れてはならないと思う。

 いまも多くの国で、国民の戦争協力は当たり前の徳義である。自衛戦争など「正しい戦争」があるという観念が、まだほとんどの国々で信じられている。

 その中で、戦後日本は「どんな名目を付けようと、人が殺し合う戦争は、それ自体が悪だ」と考える戦争違法化の意識を共有した。それが60年を超えて憲法九条を守り抜いてきた基盤だ。

 ところが最近になって、安倍晋三氏のようなヤング・ナショナリストらが、憲法改正を叫び始めた。彼らは慰安婦間題などで日本の戦争の「悪性」を薄め、過去を美化することにも熱心だ。

 だが、あの戦争を自省することもないまま、今また「自衛軍」を持ちたがる指向は危うい。安倍氏らは戦争というものをどれだけリアルに考えてきたのだろう。

 先日、朝日新聞の「声」欄に「村長を惨殺し、持参の金強奪」という88歳の男性の投書が載った。1945年の中国福建省で、日本軍が中国人の村長を捕縛して、殺した。

   

 「私の任務は、彼を営庭の木にくくりつけ、徹夜で彼のための穴を掘ることであった。……首が切断されたときの滝が落ちるような血の轟音は、今も生々しく耳に残っている」いかに歴史を美化しても、十五年戦争がアジアヘの侵略だったことは、戦場がどこであったかを考えれば否定のしようもない。そして、戦争は常に残虐である。

 今年の沖縄全戦没者追悼式で、地元の中学2年生、匹田宗一朗さん(13歳)は、自作の詩「写真の中の少年」を朗読した。

 何を見つめているのだろう/何に震えているのだろう/写真の中の少年……/濠の外でアメリカ兵の声/「出てこい」と叫んでいる/…壕の中から次々と/少年や親戚が出て行った/写真はまさにその直後に撮られたものだ/写真の中の少年/一点を見つめ何を思っているのだろう/写真の中の少年僕の祖父……/どんな逆境の中でも最後まであきらめずに/頑張って生き抜いてきた祖父/だから今の僕がいる……

 軍国歌謡と戦争を経た70年後の詩と。物語るのは、生の尊さ、戦争の愚かさである。

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「戦争・家族・平和のこと」

下富の高師節子さんが語る

 終戦の時は17歳でした。開戦の12月8日に、父親がサツマイモを鉄道便で送るので、下富の実家から上福岡まで、姉と父と一緒にリヤカーを押して行ったのを覚えています。その上福岡の駅で開戦のラジオを聞きました。姉は「大変なことになった」と語り、父は終始無言で走るように帰宅したと、あとで聞きました。父は農業もやりますが、近衛兵でした。あまり帰宅できないので、母がずいぶん苦労したようです。

 大東亜戦争になってから大変な食糧難でした。油、塩も配給になり、野菜はありましたが、この辺は水田はなく陸稲です。それも干ばつだと収穫がありません。麦だけは豊富にありました。

 娘盛りの16〜17歳の頃から戦争が激しくなって、学校では軍事教練として長刀(なぎなた)をやりました。嫌いではありませんでした。教官が「左上段に構え」が好きでした。勇ましいのが好きなので趣味の踊りも男踊りです。

 父は戦争が始まったとき60歳ぐらいですので、戦地へ行くことはありませんでした。兄は熊谷の飛行学校の教官をしていました。17〜18人の少年飛行兵に操縦を教え、全課程が終わると、その子どもたちを飛行機でフイリツピン、台湾、沖縄などの戦地に連れて行ったが、生きて帰った子は一人もいなかったと聞きます。何度も熊谷に見送りに行く母親は「息子は帰ってこないだろう」とあきらめていたようです。その兄が飛行機の故障で盲目飛行を強いられ、もうダメかなとあきらめかけたとき、母親がこどもたちにおっぱいをくれている姿が操縦席に浮かび、その瞬間、下を見ると、ぽっかりと雲の切れ目があらわれ、その下には種子島が見え、そこに不時着をして助かった体験をしたそうです。

秘密ばかりの旧軍隊、兄の消息も匿名の葉書

 すぐ上の兄は海軍に行きました。横須賀の海兵隊に入り、水上機母艦「みずほ」の機関兵になりました。終戦の年の5月、休暇でもなくふらっと帰ってきました。神明様にお参りに行こうと誘われました。

 父は「あれは普通ではない。出艦すれば生きては帰れないのを覚悟している」と、語りました。2日後に横須賀を出航しますが、すぐに魚雷攻撃を受け沈没します。兄は板きれにつかまり、流されるなか、「新井兵曹殿頑張れ」の声がうつろに聞こえたが、気が付いたときは海軍病院のベットの上だそうです。ある日、自宅に匿名の手紙が来ました。父は「これは息子の字だ、何かあった」と直感で分かったようです。兄が陸軍で軍服を着ている関係で面会が可能と分かりましたので、すぐに兄が海軍病院に行きました。待合室で待っていると奥の廊下から、目と口だけ開けた全身包帯の男が「兄さん」と声をかけたそうです。

 終戦と同時に長兄は農業を継ぎ、すぐ上の兄は、そのあと海軍を免隊になり、80歳まで長生きしましたが、やけどの跡は全身に残っていました。

 所沢の戦争は、爆弾が農家の庭先にも落ちました。男はみんな兵隊に取られ、爆弾の穴を埋めるのは女性とお年寄りでした。スコップ担いで爆弾の穴を埋めに行くという優雅というかのんびりした面がありますが、これからの戦争はそうはいきませんね。所沢飛行場の掩体壕がいくつもあり、最近まで大きいのが「しまむら」の側に残っていました。この辺の林の中に戦闘機を隠していたのを覚えています。所沢も豊岡もそんなに米軍の空襲はうけませんでした。終戦になって所沢に米軍が進駐してきました。私の友達もオンリーさんになりました。当時は下富から所沢に行くバスがなく、基地に沿って歩いていくのですが、途中、大きい兵隊に会うのが恐く、あまり所沢には行きませんでした。

東京の空が真っ赤に

 戦争中は姉の子どもたちを富岡に疎開させていました。米軍の機銃掃射で逃げ回ったこともありますが、3月10日の東京空襲では、東京の空が真っ赤に見えました。何日かたって姉夫婦が乳飲み子を抱えて富岡に来たときには、父の第一声は「幽霊か」と言いました。食べるものは、サツマイモと麦しかありませんが、毎日、富士山がよく見えましたが、お金があっても買うものがありませんでした。おしゃれもできません、母親の着物をほぐしてもんぺにしていました。

 なんで、戦争になったのでしょう。いまだに分かりません。玉音放送はラジオがあったから聞きました。父は「戦争に負けたようだ。これからが戦争よりも大変だ」と語りました。米兵も恐かったが、それより、厚木の兵隊が引き上げてきて、富岡に分宿したことがあり、痩せて目だけがギラギラした日本の兵隊が娘心に恐かった記憶があります。

戦争をもっと知ってほしい

 朝鮮戦争の時には、負傷したり死んだ米兵士が所沢やジョンソン基地に沢山送られたようです。終戦になっていち早く目覚めたのが父でした。近衛兵の時に新兵が入ると、日本の国が農業国でありながら、軍隊の上官が「この呑百姓」とけつ飛ばし軽蔑したそうです。そんなことに百姓出身の父は耐えられなく、終戦とともに民主的な運動に走りました。

 九条守れのキャラバン隊の先頭に立ちたい気持ちは、この歳でもあります。若い人には戦争のことをもっと知ってほしいと思います。だけど話すと、そんな話しは古いよと、けつ飛ばされるかと思いますが、私は続けます。

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終戦二日前に召集、三年余も極寒の地に抑留

矢沢芳郎 (中新井在住)














(学生の軍事教練  満州・本渓湖)


(写真右が矢沢芳郎さん)

 昭和20年8月13日、突如として関東軍第37221部隊へ入隊せよという召集令状が渡されたのであった。中学校を卒業して満州の本渓湖宮の原にある特殊鋼という会社に勤務していた。まだ満で云えば17歳の青年であった。学友達は殆ど海軍へ志願して行ってしまった。後で聞いた話だが、その学友達は輸送船に乗船して朝鮮海峡付近で、アメリカの機雷にあたって全員死亡したとのことであった。

 私は駅で、近親者や又同年輩の彼女も見送りに来てくれた。泣き笑いとはこのことであろう。8月15日は終戦であったが全く知らされていなかった。満州内のあちこちで暴動が起き、ますます激しくなってきた。線路脇には死体がごろごろと転がっていた。

 何とか奉天にたどりっいたころに、ソ聯軍が突如満州に突入した。戦車部隊であった。続々来る戦車に取り囲まれてしまい、どうにもならず白い布を出して、その場で武装解除させられてしまった。

 それから約一ケ月近く死の行軍がはじまった。来る日も来る日も歩き続けた。千人近くの敗残兵の列が続いたのである。こうしてやっと北満の孫呉へ辿り着いたのが10月頃であったと思う。そしてスンガリー河を渡って着いたのがブラゴエンチェスクというソ連領であり、ソ連の看視兵が銃剣をつけていて、重い荷物を運んでいる兵隊につきつけて「ダワイ、ダワイ」といいながら河辺から貨車まで追いかけていた。やっと貨車に乗せられたものの、一貨車に50〜60名という人数であり、足を伸ばすことも出来ず、膝小僧を抱えて坐り寝であった。その為か隣の兵隊が朝になっても起きないので私が体をゆさぶったところ、ごろりと前にたおれてしまい、そのまま死んでしまった。列車がとまるとその脇の草むらの処に穴を掘って埋めてしまった。いま思うとゾッーとする風景であった。

 列車は途中途中とまりながらして約20日間してウズベツクの首都タシケントヘ到着し約3年間強制労働に従事させられたのであった。

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憲法第九条に寄せて

増岡敏和 (詩人、青葉台在住)

たおやかにおおらかにたからかに

眼を閉じて口遊み
たおやかな 言の葉さやかに
ほほえみ交わして手を重ね
私たちはあなたを抱きとめる
 武器はとらない 敵はつくらない
 この旗を決して降ろさない
 たおやかに この自由広めて
 私たちは 起き上がる

眼を開けて伝え会い
おおらかな 言の葉やわらに
暮らしに幸せ縫い込んで
私たちはあなたを抱きとめる
 武器はとらない 敵はつくらない
 この旗は決して降ろさない
 おおらかに この理想広めて
 私たちは 起き上がる

眼を閉じてまた思え
たからかな 言の葉親しく
だれをも侵さず尊んで
私たちはあなたを抱きとめる
 武器はとらない 敵はつくらない
 この旗を決して降ろさない
 たからかに この決意広めに
 私たちは 起き上がる



幼い問いに

この五月が過ぎて
おまえは七十四歳になったね
玲子よ だがおまえは
いつでも十三歳のままだよね
 うち もう死ぬんかね
あの朝 覗きにきた兵隊の目の中の
一本の電線に
その問いを走らせ 寂しく瞼を閉じたが
幼い妹のあの問いの無残は閉じられず
大の言葉となって いまも
八月の広島の空を震わせている

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鈴木彰の「しょうがない、また『くの一』で逃げ切ろう」

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民意は自公政治にノー

九条守る運動、新たな局面に

 参院選挙は自公与党が過半数の122を大きく割り込む結果となった。

 マスコミは自民党の歴史的大敗・惨敗と報道しているが、大凋落というべきではないのか。強固な自民党の地盤といわれた多くの地方で自民党現職が落選した。それらは改革路線による地方の疲弊、格差の拡大、ばらまき政治の崩壊などと共に自公政権が進めた政治がいかに国民の意思と離れたものであったかの現れといえる。民意の正確な反映は詳細な検討が必要と思うが、選挙の結果は国政のあり方が大きな曲がり角にあることを示している。

 国民の下した審判は安倍政権ノーと明確であるが、選挙後の安倍首相の第一声は「国民の審判は厳粛に受け止めるが、目指した政治は支持されていると確信している、それを成し遂げるために首相は辞めない」というものである。選挙に表れた国民の審判とは7年にわたる自民党と公明党による改革路線と安倍首相になってからの教育改革、防衛庁の省への格上げ、改憲を目指す国民投票法等の強行成立や福祉の破壊、日米同盟の強化、強引な国会運営など「戦後レジームからの脱却」全体に対してである。

 安倍首相は自らが選挙戦では強行成立させた諸法案を実績として並べ立て、支持を求めた。それへの審判にたいし「目指した政治は支持されている」という聞く耳を持たない態度は首相としての民意の尊重という第一の条件に欠けるものである。そして、開き直ってやりたいようにやるというのは、八方ふさがりをふらつきながら改憲策動の強化で突破しようとする以外に道はないであろう。今回の選挙で民主党は憲法に対する態度を明確にしてこなかった。

 参院第一党となって内部に改憲論者を抱え、政権を目指そうとしているが、このあいまいさは路線の揺れとなって表れるだろう。それは九条を守る闘いが新たな局面を迎えることにつながる。安倍首相がもくろむ改憲の既成事実の積み上げを許さず、揺れる政界に対し、国民の意志を憲法を護る意志としてさらに広がりを示していくことが求められるだろう。

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いま、私は言いたい

隙間風

寺島幹夫(俳優 小手指在住)

 先頃私は《語りの会》で、童謡詩人金子みすゞと取り組んだ公演活動を無事に打ち上げ、それなりの成果を収めた充実感を感じながら、実は一方では大きな失望感も味わったのです。

 それは仕事の仲間に、若い世代の人たちとの出会いをつくれなかったことでした。そして、それは今度初めてのことではなく、《九条の会》の活動などでもしばしば感じていたことでした。

 これまで私は、自分の演劇行動の中で、戦争を知らない世代に、戦争体験を語り伝えることにできる限りの力を注いできたという自負がありますし、その困難さも熟知しているつもりでした。

 子ども劇場の運動にもかなり深く関わってきた体験を持っています。

 ところが最近、その世代間の関係に隙間風を感じるようになったのです。私の場合それは、育ちの違いがもたらす感性の齟齬(そご)に原因があるようで、だから事態はとても深刻なのです。つまり齟齬などという言葉を使う私と若者の感性の食い違いが問題になってしまうのです。

 私の混迷はそれ程深く、出口は見つかっていないのですが、ただ、みすゞ探求の過程で学んだ手がかりだけが仄見えているだけです。それは詩人野口雨情の戦略=ゆるぎない正義の信念と、あのとてつもない普及力の秘密に他なりません。願わくばツンツン月夜を明るくね。



美術家になれたのは戦争がなかったから

岡部 昭 (彫金家 山口在住)

 80才になると昼間でも眠くなって、やっぱり老いたんだなと思うのです。50余年前から美術家の道を歩んできたが、35年前、ブナの原生林に心を奪われて以来、今でもブナの原生林を題材にして、展覧会に作品を発表して来ました。20mも30mも大空に向けてそそり立ったブナの大木、高く空を覆った葉は光を透して若葉色に輝き、その柔らかい木漏れ日に覆われた林床、数多の灌木や笹、草や花やきのこ、森の奥は木の幹や枝が重なって深く深く、時に鳥の声がして、妖精が現れそうな世界だ。この詩的記憶を蘇らせながら、作品を作り始めるが、その世界の実感が出来かけの作品の中に、ふっと見えたとき、だらだらしている心と体が一気に集中して、夢中になってその実感を更に押し拡げる作業が加速する。その時、疲労も眠気も飽きっぽさも、時間も忘れて、巨木の圧倒的な生命力が僕の体に乗り移ってくるような気がする。

 この頃改めて納得しています。美術は万物の命の輝きを形にしてゆく仕事だと。その万物の命が僕の心と体を支えてくれるのです。20代に10年間結核で病床にあった僕がこの人生を持てたのは、間違いなく、今の憲法のお蔭だと思う。

 しかし、今の日本の社会には美術に憧れる若者が努力を続けて行く余裕を与えない。美術の教師の就職口も無いと聞いた。溢れたお金は偏在して社会から隙間を潰し美術を衰えさせ、その上憲法を変えると言う。50年以上前、日本が貧困な時の方が社会には生きて行く隙間がもっと在ったのは何故なのだ。



テレビは権力の私物ではない

門目省吾 (山口在住)

 参議院選公示の7月12日、総務省が194杜の放送局幹部を呼び出し、選挙報道において、『候補者の当落報道を慎重に行うよう』要請した。このことを『朝日』(1面3段見出し)と『共同』(配信)はストレートニュースとして扱い『毎日』は、社説で取り上げた。この報道を7月14日、NHKラジオが「新聞を読んで」の時間で、ほぼ同じ視点で取り上げ、総務省の強権的姿勢に疑問を呈した。

 この期に及んで、この事実に物を言わない言論機関はジャーナリズムとは呼べない。これまでも『要請書』を郵送していたという。これ自体問題であるが、今回は『呼び出して要請』した。政府は明らかに当然のことのように言論統制に乗り出している。憲法21条が保障する「言論・報道の自由」、という民主主義の基本原則までも変えてしまうのか。

 民放テレビのデータ捏造や、NHK職員の不祥事に付け込むように矢継ぎ早に打ち出してくる強権的施策。放送局には国民のための言論機関であることを自覚し、それぞれの責任を明確にしてもらわねばならないが、大臣がテレビは政府が監視すべきものと思っているとすれば何たる幼稚。先の国会で継続審議になったとはいえ、放送番組の内容に行政処分を課す放送法改正、NHKの国際放送に対する命令放送、更に、NHKの新経営委員長に時の総理のブレーンを起用するなど、まことしやかな理屈を付けながら、民主主義の根幹まで刈り取ろうとしている。政府は、テレビを「憲法改悪のための世論づくり」の道具として使おうとしているのか。騙されてはならない。

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「蟻の兵隊」の池谷薫さんからお便り

 映画『蟻の兵隊』の公開の際は、大変お世話になりました。
 皆様方のご厚意に支えられ、東京渋谷のミニシアターで11週のロングランを果たすなどドキュメンタリー映画としては異例のヒツトを記録、また嬉しいことにその勢いは全国に広がりました。今も各地で、上映がつづいております。
 さて、かねてから私の宿題だった本ができあがりました。タイトルは『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮杜・27日発売)、映画では語り尽くせなかった、日本軍山西省残留問題の全貌に迫るノンフィクションです。
 なぜ彼らは、敗戦後も武器をとり戦い続けなければならなかったのか。
 80歳をとうに過ぎた「蟻」たち元残留将兵は、もう一度、裁判をやり直す覚悟です。「嘘の歴史を残すわけにはいかない」それが全てだといいます。その執念には脱帽の限りです。蟻たちの進軍はまだまだ続きます!

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★憲法の「伝道師」伊藤真さんが所沢で講演

 「9条の会・ところざわ」は、9月22日に司法試験の指導塾「伊藤塾」塾長の伊藤真さんをお招きし、新所沢公民館で講演会を開きます。憲法の「伝道師」を自任される伊藤真さんは、平和憲法の理念を守り、実現することをライフワークと決め、講演、執筆活動に取り組んできました。雑誌「世界」に「中高生のための憲法教室」、「週刊金曜日」に「憲法逐条解説」など連載や「クローズアップ現代(NHKテレビ)」出演などで好評。会場が満員になることも予想されますので、お早めにお越し下さい。
◆9月22日(土)午後6時半
◆新所沢公民館


★JCJ大賞に熊本日日新聞のr水俣病」取材班

 日本ジャーナリスト会議(JCJ)は7月25日、年間のすぐれたジャーナリズム活動・作品に贈るJCJ大賞に、いまだ問題が解決されない水俣病問題を、一年半にわたり再検証した熊本日日新聞「水俣病」取材班を選定しました。
 JCJ賞には「挑まれる沖縄戦/『集団自決』問題キャンペーン」の沖縄タイムス。『「改憲」の系譜9条と日米同盟の現場』(新潮杜)の共同通信社憲法取材班。『生きさせろ!!難民化する若者たち』(大田出版)の著者・雨宮処凛(かりん)さんの三本が選ばれました。


★憲法の本紹介 憲法九条を世界遺産に

 太田光・中沢新一対談 集英杜新書 定価660円十税
 人気のお笑いコンビ「爆笑問題」の太田光さんと人類学者の中沢新一さんとの対談が40万部を突破するベストセラーに。読者は年配男性から女性にと広がり、ネットで若者層に爆発的に広がっています。

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