機関紙29号 (2007年11月6日発行)



もくじ
平和な今
  上原 凛(与那原東小学校6年)
  知ることから始まる
  渡辺和子
テロとの戦いを言う前に
現在の政治状況と九条運動 2
  浜林正夫(一橋大学名替教授)
あれこれ 3
  峠三吉と
  増岡敏和(詩人)
所沢の人を訪ねて
  「芝居、映画大好き」寺島幹夫さん(元俳優)が語る 1
沖縄県知事の怒り
  梅田正己(書籍編集者)
子どもたち
  小林好作(北秋津在住)
短信
    人さし指



平和な今

ぼくは戦争を知らない
戦争は人の命をうばい
すべてのものをうばうという
そんな戦争が今でもどこかで続いている
どうして?

ぼくは戦争を知らない
戦争は家族をバラバラにし
人の心をメチャクチャにするという
そんなバカな事がいつまでもやめられない
どうして?

ぼくは戦争を知らない
美しい山や自然が戦争でこわされ
明るくおだやかな生活が
戦争でなくなっていくという
そんな悲しいことが ずっと 終わらない
どうして?

ぼくは戦争はいやだ
友達といっしょに笑い
家族と共に食事をする
そんなふつうのことが
いつまでも続いてほしい

ぼくは戦争はいやだ
げっとうの花がさき
青い海で元気に泳ぐ
そんなことが
ずっと続いてほしい

ぼくは戦争はいやだ
学校で授業をうけ
たん生日をみんなで祝う
そんなあたりまえのことが
なくなってほしくない

今ぼくにできること
仲間を大切に思うこと
仲間と協力し合うこと
そして
いやだと思うことは
はっきりNOといえること

今ぼくにできること
戦争がいやだといえること
戦争のこわさを伝えていくこと
そして
みんなで平和を願うこと

ぼくは戦争を知らない
でも ぼくは戦争はいやだ
今ぼくにできること
毎日を大切に生きること
人の痛みを感じること
平和な今に感謝すること

(沖縄県平和祈念資料館提供)

知ることから始まる

渡辺和子

 うえの詩は、2005年6月23日の沖縄慰霊の日(沖縄県主催の沖縄全戦没者追悼式)に、与那原東小学校の上原凛君が朗読した詩です。

 今夏、「子どもの本全国研究集会」(日本子どもの本研究会主催)で、沖縄戦の1フィート運動のビデオを見ました。

 沖縄が戦場になり、多くの住民が犠牲になったという事実は知っていましたが、映像で見ると、新たに私の心にズシンと重たいものが残りました。

 「沖縄の学校図書館の平和学習の取り組み--沖縄戦をどう伝えるか--」の報告の中でのことです。

 私はその日まで知らなかったのですが、沖縄では、毎年6月23日を慰霊の日として、小中高校を公休にしているそうです。

 そして、この慰霊の日の前後に、それぞれの学校では沖縄戦関連のパネル展、関連図書の展示、平和集会など、平和学習に取り組んでいると報告されました。

 この研究集会の後、親子読書地域文庫全国連絡会主催の全国交流集会に参加したとき、前掲の詩、「平和な今」を紹介されました。

 平和学習を積み重ねてきたことで、この詩が生まれたのだと思います。

 いろいろなことを知る機会があってこそ、その想いを伝えようとする凛君がいるに違いありません。

 まず、知ること。その大事さを痛感します。

 と同時に、作者が感じた「あたりまえの日常生活がいつまでも続いていく」社会を目標に、憲法九条を守ることを含め、知恵を絞って、出来ることから姶めようと思っています。

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テロとの戦いを言う前に

 現行のテロ対策特別措置法の延長は、参院選で自公の大敗北と安倍首相の辞任でもろくも頓挫したが、跡を継いだ福田政権でも自衛隊のインド洋派遣を継続したい意向に変わりはない。

 撤退に追い込まれつつある政府・与党が新たに持ち出してきた新テロ措置法案は、海上阻止値動に限定し、米軍の戦争支援ではないと、国民の危惧を薄めようとしているが、米国の「対テロ報復戦争」支援という本質は変わらない。

 米国は01年の同時多発テロを新しい戦争と呼び、自衛権を発動の名の下にアフガニスタンのタリバン政権を攻撃した。日本は米国のアフガン侵攻にもっとも早く賛同した国の一つで、テ口特措法は自衛隊を海外に派遣するために急いで成立を図ったものである。為政者は国際貢献を口にするが、まず米国の戦争に与するものであることは否定できない。

民生支援こそ国際貢献

 自衛隊の給油活動がテロ根絶にもアフガン復興にも役立っていないことは、アフガン情勢の深刻な悪化が証明している。カルザイ政権に統治能力がなく、テロが頻発し、国民の犠牲者が相次いでいる現状を見ると、6年前に始めた武力によるテロとの戦いは成功していないと断言できる。「国際貢献」を言うのであれば、テロの元凶である貧困を救う民生支援の方がはるかに有効な「国際貢献」である。

 最も問題にしなくてはならないことは、国民の税金から支払われる燃料が、米補給艦を経て米空母キティホークに給油され、結果的にアフガン、イラクの市民を殺傷している事実である。

 当初、防衛省(当時は防衛庁、03年5月)は国会で「給油量は20万ガロンで空母の1日平均の使用量であり、イラク戦争で使用したことにはならない」と強弁したが、実際は80万ガロンであったことが明らかになった(07年9月)。

 80万ガロンはキティホークが1週間運行できる量である。また、06年9月に補給艦「ましゅう」から給油を受けた米海軍の強襲揚陸艦「イオウジマ」は、その後、搭載している攻撃機ハリアーが136回もアフガン空爆の飛行をした。

 日本の燃料がアフガン、イラク作戦に使われ、両国の多くの市民を殺傷していることは、日本が戦争に荷担していることとなんら変わらない。

 米軍の戦争に自衛隊が協力するのは「集団的自衛権の行使」で、明白な憲法違反である。

区別のない米軍の作戦

 福田内閣は自衛隊が給油した燃料がイラク戦争に転用された疑惑を受け、新法では提供燃料が「不朽の自由」作戦・海上阻止行動(OEFーMIO)のみに使われるよう腐心しているが、この作戦も米軍は「イラクの自由」作戦(OIF)の一部であり米軍にとって、海域も区分も曖昧のまま、両方で「反テロ戦争」と位置付け、政府の言う、給油限定は「空理空論」にすぎないことを東京新聞特報面が10月21日に報じた。

どちらも違憲である

 おりしも、民主党小沢代表はアフガンで活動している国際治安支援部隊(ISAF)への参加を提唱して物議をかもしているが、米国はアフガニスタンを武力で制圧直後、カルザイ暫定政権を樹立させるためのボン会議の合意に基づき、アフガニスタンに派遣されたのがISAFだ。国連事務総長の指揮下にあるPKFはシビリアンコントロールが効くが、ISAFは軍人が司令部を牛耳る多国籍軍であり、ここに自衛隊を派遣することが憲法違反でないわけがない。

 インド洋での自衛隊による給油活動継続と小沢代表の国際治安支援部隊への参加は、どちらも違憲であることに変わりはない。(K)

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現在の政治状況と九条運動 2

浜林正夫(一橋大学名誉教授)

テロ特措法

 もうひとつの方向は解釈改憲を拡大して、事実上、集団的自衛権を認めてしまおうという方向です。現在すすめられているテロ特措法の延長問題は、いわばそのテストケースといってよいでしょう。この問題はかなり複雑ですが、01年にアメリカで大規模テロが起こったとき、国連はこれを非難する決議を採択しました。

 しかし、これはアフガニスタンを名指ししたものでも、武力制裁を認めたものでもありません。ところがその後、アメリカは有志連合によって国際治安部隊を編成し、さらにアメリカ独自で「不朽の自由」というアフガニスタン侵攻作戦を展開したのです。給油をはじめとする日本の支援が、どの作戦のためのものか、はっきりしていませんし、日本が給油した艦船がどこへ行って、何をしているのかもまったく分かりません。しかもこの給油は全額日本の負担、その額はすでに200億円を越えています。さらに政府は日本にたいして国連から感謝してもらおうという策略をたて、アメリカの力で決議文に「海上阻止部門を含む」という文章を突っ込み、ロシアがその採決に棄権するという国際的恥さらしまでやりました。ただし、この特措法は「武力行使は含まない」ものですから、ただちに集団的自衛権を認めるものではありません。いわばそのための地ならしとでもいうべきものでしょう。

集団的自衛権

 集団的自衛権を現在の憲法の下でも認めようとするために、安倍前首相は有識者会議を設けました。これは「結論先にありき」の会議で、1.同盟国に向けて弾道ミサイルが発射されたとき、これを途中て撃墜するミサイル防衛、2.日本の艦船と併走中の同盟軍の艦船が攻撃されたときの共同反撃、3.海外に派遣された自衛隊と共同で活動している同盟軍が攻撃されたときの共同反撃、4.PKO活動中の自衛隊員が攻撃されたときの反撃という4つのケースは、現憲法下でも認められる集団的自衛権の行使だという結論を出す予定でしたが、現在は審議ストップしています。

 こういう改憲派の執拗な策動に対して、私たちは明文改憲に反対するだけでなく、集団的自衛権に通じそうな解釈改憲にも、反対を強めていく必要があります。

 さらに、大きな展望としては、改憲反対だけでなく、憲法に基づく新しい国づくりをどう進めてゆくのかという問題も私たちに問われてくるでしょう。11月21日の井上ひさしさんの講演は、その点で私たちに大きな示唆を与えてくれるものと期待しています。

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あれこれ 3

増岡敏和(詩人)

峠三吉と

 1949年9月頃に、峠三吉(後原爆詩人)と一緒に、私はアメリカ占領下の広島で反原爆・反占領・反朝鮮戦争を中心にした詩誌を刊行した。その翌年の夏、「われらの詩」8号の巻頭言「平和のためめ宣言」で、峠は「われわれは広島の詩人として〜原子兵器の絶対禁止を世界に向かって要求する」と歌い、同時に刊行していた「反戦詩歌集」2集で、戦前に強いられていた伏字に倣って「朝鮮」と「兵器」を××とし、兵器を満載したアメリカの軍用貨車が朝鮮に向かう状景を描いて、「命がけで/たちあがる」時がきたと呼びかけた。

 私も原爆で殺された妹玲子のために、「原爆投下の一瞬の一閃にまさる/私たちの刃となった憎しみ」を占領軍に放った(峠も私も逮捕されなかった)。

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鈴木彰の「背水も波立ち騒ぐ秋の陣」

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所沢の人を訪ねて

「芝居、映画大好き」寺島幹夫さん(元俳優)が語る 1

 役者、演出家、そして声優として知られる、寺島幹夫さん(小手指元町在住)を訪れ、戦後の混乱期からテレビの黄金時代まで縦横に活躍された同氏の素顔に触れた。現在は「こてさし語りの会」を指導し、地域の演劇活動に力を注いでいる。


俳優を志した動機はなんですか。新劇で食べられましたか。


 よくあるタイプです。戦争中は軍国少年で福井で戦災にあって実家は丸焼け、戦争が終わると演劇、文学、社会科学、哲学などいろいろなものが一気に輝かしく、華々しく開花しました。それに飛びついて芝居を始めたのです。実家は封建的な徹底した女系家族の最初の長男として生まれました。親父が50過ぎの小学校長の厳格な堅物一家でしたので、末っ子の男として生まれましたが、とにかく堅苦しくて、社会とのギャップがものすごく、毎日が喧嘩でした。それがいやで、家出同然に上京して故郷を捨てました。

 高校時代の演劇部の活動がうまくいき、県下でめざましい活動をしました。いつも主役を演じ、県内一の演劇青年との評価も受けました。卒業してから、2〜3年は地元の会社で働きましたが、いてもたってもいられなくなり、親も捨て、東京へ行こうと決心しました。芝居だけに自分の人生を賭けてやろうと、血のメーデー事件の年に上京してきました。東京は騒然としていました。僕は芝居をしたい一心で食うや食わず、ひたすらアルバイトで暮らす毎日でした。

「真空地帯」の弓山学徒兵で初舞台

 最初に入った劇団で、下村正夫という先生に師事しました。この下村さんのお父さん下村海南氏は、敗戦時の天皇の詔勅の録音盤を管理した国務大臣です。私が東京で芝居を始めたのは、良心的知識人が一斉に活動を開始した時期です。世相は混乱してましたが、野間宏、木下順二、下村正夫など未来社にいた同人たちが中心になって起こしたのが、「新演劇研究所」という劇団で、僕はそこで芝居の勉強を始めました。下村正夫と野間宏は親友です。そこで野間さんの「真空地帯」を芝居にしたのです。僕は弓山学徒兵で初舞台を踏みました。いま、考えてもすごい成果のあった舞台です。これで毎日演劇賞を受賞したのです。

 あの当時、大劇団は映画活動やなんやかんやでお金を稼ぐのに追われ、運動は停滞していました。そういうなかで、新演劇研究所の「真空地帯」と木下順二さんと山本安英さんのぶどうの会の「風浪」が、戦後の若い世代による二大傑作と呼ぱれました。今と違って、労働組合運動、サークル活動もほんとうに活発でした。小さな劇団でも万という観客が動員できたものです。そして5周年目の「どん底」は、俳優座劇場で1ヶ月上演しました。僕は1人で5百枚のチケットを売ったものです。生活は苦しかったんですが、誇り高い演劇青年でした。


もうご引退されたのですか。俳優から声優への転身のお話しを聞かせて下さい。


 芝居はまだできるのですが、眼を悪くして、古希に現役を退くことを決意しました。この歳までいろんなことを経験してきましたが、その最大の岐路はやはり60年安保です。僕らは毎日デモに行ってました。しかし、安保があのような結果で終わると虚脱状態になり、同時に経済の方はだんだん豊かになり、新劇と言われた戦後の現代劇が埋没しはじめるのです。一方でアングラが出てきて評判を取ります。小劇団などは維持がだんだん難しくなりました。

 この頃から、マスコミがオリンピックを契機にぐわーと広がるのです。僕も子どもができるし、家族は食えないし、劇団ではマスコミに出るのか、出るべきでないのか侃々諤々の議論をした挙句、分裂していくのでした。舞台では食えないからといってテレビで顔出しをやるとスケジュールが合わなくなります。

ヒトラー、チェ・ゲバラもみんな私の声

 ところが、外国の映画の吹き替えという、新しいジャンルの仕事がテレビにできました。あの頃、ソフトがありませんから、アテレコという仕事がいっぱいできました。そこに新劇の人間がどっと飛びついたのです。僕は声優という言葉はあまり好きではありません。やはり俳優ですから。でも生活のために毎月30数本やっていました。

 そのうち、アニメが出てきて、「科学忍者隊・ガッチャマン」のベルク・カッツエの吹き替えを担当しました。悪役ですが、ものすごい反応がありました。全国の中学生からの電話が夜中でも鳴りやまなかったものです。僕のやった山猫・ベルク・カッツエは中間管理職の悪役。本当の悪役ではなく、悪役に使われている雌雄同体の妖艶な悪魔です。これは大変ヒットしました。当時のファンといまだに文通が続いています。

 日本で上映したヒトラーは全部僕の吹き替えです。それから、キング牧師のドキュメンタリーとチェ・ゲバラの声も僕の声です。福井から出てきて、訛りには苦労しましたが、言葉の質が明晰(めいせき)であったことから、三人の独占で演説役者とも呼ぱれました。ヒトラーの長い長い演説をあのテンションで喋るのは大変です。大演説の吹き替えには、目まいがしました。


役者として、心に残る舞台をあけてください。


 新演劇研究所の創立には歴史家の色川大吉さんが、たいへん力を尽くされました。僕たちが上演した「日本の夜と霧」、「草むす屍」について自分の昭和史に書かれていますが、色川さんがオルガナイザーになり、安保後の混迷する知識人に向けて創ったのが、「日本の夜と霧」、「草むす屍」です。

 「日本の夜と霧」は、社会党委員長刺殺事件で3日で上映中止になり、幻の映画となりました。これを舞台で監督の大島渚をナレーターにして上演したのでした。赤旗立てて、ヘルメットを被った学生が劇場に押しかけました。その翌年上演したのが、終戦の翌日、代々木の練兵場で集団自殺をした右翼を題材にした「草むす屍」です。左翼も右翼も、戦後を切り拓く思想が硬直していると訴えた熱い政治劇の体験でした。

 経済の高度成長で新劇活動はダメになります。僕もマスコミで稼ごうと思い転身しました。プロダクションの俳協という事務所をみんなで作ったのですが、マスコミに出演するルールも試行錯誤の状態ですので、資本家に誤魔化されてはと、作った事務所が東京俳優生活協同組合です。この名前で認可され、芸能プロダクションで生活協同組合という変わった組織が生まれました。ここで後輩を育てる俳優養成に乗り出し、その責任者になります。生活文化運動も全国に展開することになります。(次号に続く)

寺島幹夫さんのプロフィール

1931年 小学校教師夫妻の末っ子として福井市に生まれる。
  47年 福井第一高校に編入。演劇部に入り主役に抜擢。
  52年 家出同然に上京。下村正夫氏を慕って新演劇研究所入所。
  53年 野間宏の「真空地帯」弓山学徒兵で初舞台。毎日演劇賞受賞の舞台は、生涯忘れられぬ名舞台。
  59年 劇団の女優と結婚。映画「松川事件」佐藤一役好評。
  61年 社会党委員長刺殺で上映中止になった大島渚監督の映画「日本の夜と霧」を舞台化。翠年には「草むす屍」で右翼の精神構造を糾弾。
  63年 劇団は高度成長経済とアングラの波に沈む。
  70年 「ガッチヤマン」のベルクカッツエが大ヒット。ヒトラー、キング牧師、チエ・ゲバラ役の吹き替えの独占で演説役者の異名も。処女戯曲「狂想曲ホモサピエンス」執筆、アトリエ座で上演。
  72年 俳協が俳優養成所設立、講師となる。
  75年 上落合事業所責任の常務理事。生協基盤の親子ミュージカル公演事業に着手。北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」を制作、全国を奔走。
  93年 浦和の応募市民250人によるミュージカル「みんな地球」脚本、演出。以後参加者が市民劇団を創り指導の責任を担う。
  96年 宮澤賢治生誕百年所沢市民講座を担当。
  01年 古希で現役引退。
  06年 こてさし語りの会10周年で「君死に給うこと勿れ」の脚本、演出。
  07年 第2弾で、「小さなはてな?=金子みすゞ物語」の脚本、演出。また、レイチェル・カーソン生誕百年記念で、「われらをめぐる海」の脚本、演出。

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沖縄県知事の怒り

梅田正己(書籍編集者)

 防衛省の守屋武昌・前事務次官の腐敗行為が次々と明るみに出てきつつあった10月23日、仲井真弘多(なかいま・ひろかず)沖縄県知事は県庁での記者会見で、防衛省に対する怒りをぶちまけた。こんな具合だ。

異例の記者会見

 「基地移設は地元の理解と協力なしに進めることは絶対無理と考える。進め方としておかしい。ただ手続きを進めれぱいいというのは、まったく意味がわからない。68年生きてきたが、こういう進め方は初めてだ」(琉球新報、10月24日付から。以下も同じ)

 知事が「進め方」といっているのは、例の沖縄本島北部・辺野古に計画している米海兵隊航空基地建設のための手続きの「進め方」のことだ。

 サンゴの海を埋め立てて造る航空基地は、環境破壊や爆音被害をはじめ住民の暮らしに決定的な影響を及ぼす。そこで政府は、沖縄県と関係市町村も加わって、「普天間飛行場の移設に係る措置に関する協議会」を設置し、そこで地元の意見も聞きながら事業を進めてゆくことを約束した。

 ところが防衛省は、その協議会を1回も開くことなく、法律に定められている手続き一一環境影響評価(アセスメント)方法書の公告・縦覧や、その環境アセス方法書に対する住民意見の概要書の県への提出などを、一方的に行ってきた。

 これに対し、知事は、これまでそれらの受け取りを保留してきたが、ただ保留するだけで意見を述べないでいると、異議なしととらえられ、地元の意見は無視されたまま事業が進められてしまうという危機感から、23日、この問題についての「知事コメント」を発表した。

 その記者会見で、知事は防衛省に対し積もり積もった怒りを爆発させたのである。

 「知事コメント」の最後は、このような強い調子で結ばれている。
 「なお、防衛省のこのような強行により、アセス手続きのやり直しなど移設作業に遅れが生じたとしても、すべて防衛省の責任であることを自覚すべきであると申し添えておく」この末尾の文言について、記者会見でその異例の激しさを指摘された知事は、こう答えている。

 「(この文言を)入れるべきか、迷った。沖縄悪者論というか、沖縄のせいで(移設作業を)やり直しているという響きを、東京に行くと感じる。『冗談でしょう』というのが正直な気持ちだ。

 東京から遠いというだけで、防衛省が責任を地元に押し付けるのは、普通は考えにくい。一種の地域蔑視、差別用語に近い響きを感じる。『沖縄は一つ譲ると、(増長して要求が)次々出てくる』という失礼で侮辱的な表現をわれわれに使うのが許されていいのか。

 (コメントの最後に書いた)『防衛省の責任』うんぬんという恥ずかしいことは、普通は言わない。あの人たちの鈍感さ(から)ここまで言っておかないと、ということだ」

 周知のように、この仲井真知事は保守の側に立つ知事である。普天間基地の辺野古への移設自体には反対していない。昨年11月の知事選でも、現在の日米合意案のV字型滑走路を取りやめ、基地全体を沖合へ移すという案を公約に掲げて当選した。

 その仲井真知事が、防衛省のやり方に対し、このように激しく怒りを爆発させている。

 現職の知事でありながら、「沖縄差別」を公的な場で口にしたのは、この仲井真知事が初めてではないかと思う。いったい、知事の胸の底には何があるのだろうか一一。

沖縄に渦巻く思い「馬鹿にするな!」

 去る9月29日、沖縄・宜野湾市において、教科書検定での文科省による修正意見の撤回と記述の回復を要求する県民大会が挙行された。  参集した県民11万人。12年前、米兵による少女暴行事件をきっかけに基地撤去と日米地位協定の改定を求めた県民大会の8万5千人を大きく超えた。

 何が、かくも多くの沖縄県民を大会場に向かわせたのだろうか。

 旧知の新崎盛暉・沖縄大学名誉教授に尋ねると、「いつまでもなめられてたまるか」「馬鹿にするな」という感情ではないかという意見だった。

 私にもわかるような気がする。今年6月に出版した本に、私は著者の吉田健正さんと相談の上、『「軍事植民地」沖縄』という書名をつけた。

 私が「軍事植民地」という言葉を知ったのは、作家の大城立裕さんの文章からだ。

 大城さんは、2年前の文章で、「これまで自分は沖縄を語るのに軍事植民地という言葉を遠慮がちに使ってきたが、これからはもう遠慮はすまいと思う」と書いていた。

 沖縄の基地負担を軽減しなくてはならない。政府はそう言い続けてきた。しかし基地の縮小はすすまない。少女暴行事件後の島ぐるみ運動によって日米政府間で結ばれたSACO合意でも、若干の返還はあったが、実態は老朽化した施設の更新、新鋭化だ。

 沖縄の「軍事植民地」状態は、何と62年も続いている。しかも、いつまで、という見通しもない。見通しがないどころか、新たな海兵隊航空基地には軍港も併設される。つまり、半永久的に要塞化されるのだ。

 「馬鹿にするな!」正常な感覚を持った人ならば、そう思わずにはいられまい。

 仲井真知事の防衛省に対する激しい怒りの底にも、この「いつまでもなめられてたまるか」「馬鹿にするな!」の沖縄人(うちなーんちゅ)としての感情が渦を巻いていたのではないか。

本土マスコミでは伝えられない知事発言

 知事の記者会見は、県庁で行われた。沖縄県庁の記者クラブには、地元のメディアのほかに、全国紙の支局も入っている。私自身も一昨年の暮れ、「米軍・自衛隊再編」に抗議する沖縄人33人の本を緊急出版した際、そこで記者会見をやったので、よく知っている。

 しかし、異例、異常とも言えるこの仲井真知事の中央政府(防衛省)に対する怒りは、本土のマスメディアでは伝えられなかった。恐らく、沖縄の支局から原稿は送ったが、本社のデスクによって屑籠に放り込まれたのだろう。

 仲井真知事の怒りは、決して政府だけに向けられたものでは.ない。


《追記》10月27日付の朝日に、「政府、沖縄と修復へ一歩」という記事が出た。

 「福田政権が、安倍政権でこじれた沖縄との関係修復に動き始めた。1月から途絶える米軍普天間飛行場の移設協議会の再開を決定」した、という記事だ。仲井真知事の怒りの会見が、さすがに福田首相の耳に入ったのだろう。

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子どもたち

小林好作(北秋津在住)

小学校のグランド
子どもたちの声に
秋の陽がまじりあい
青い空にはじけとぶ。

ぼくたちにはなかった季節
あったのは「学童の戦閾配置」
寒さと飢えとしらみの日々。

広島の小学生のことば一一
あの日苦しんでいた人たちを
助けることはできませんでしたが、
未来の人たちを助けることは
できるのです一一

沖縄の中学生のことば一一
私はウソの書かれた教科書を
絶対に使いたくありません一一

一一歴史は過去を知り
現在をみて未来を作る
ためのもの一一

日本の油を使って米軍機が
爆弾を落とす
アフガンの子どもが
イラクの子どもが
未来を見ぬまま死んでいく。

日本国憲法第九条は世界遺産
未来をつくり
未来の人たちを助けられる
ぼくたちが苦難のあげくに
獲得したもの。

やがてどこの国の校庭でも
秋の陽とまじりあった
子どもたちの声が
青い空にはじけとぶ

そういう季節がきっとくる。

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短信

人さし指

 上新井在住で、日本ペンクラブ会員の中原道夫さんが、反戦の思いをこめて、11冊目の詩集を上梓した。

 詩集は2章に分かれ、1章は平和への願いで書いた作品で構成。2章は現実の生活から掘り起こした作品。日刊新民報、マスコミ・文化九条の会所沢に発表した作品も集録されています。恵泉女学園大学教授で「詩と思想」の編集長・森田進氏は「平和を守るとは、築くとはどういうことなのかを、まっすぐに問う切実な声と、書くことを根拠にして時代を生き抜く詩人の強靱な言葉は、熱い共感を招くだろう」と、本書推薦の言葉を述べています。

土曜美術社出版販売刊 価2650円
東京都新宿区東五軒町3-10
電話03-5229-0730

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