機関紙37号 (2008年8月19日発行)new!



もくじ
戦後63年、まだ所沢に居座る米軍基地
  米軍再編で基地強化の動き
  なぜ市内に米軍基地が…
マスコミよ目を覚ませ
   北村 肇(「週刊金曜日」編集長)
伝えたい、語りたい 1
  できなかった「戦争に反対」
   中本みよ(こぶし町在住)
伝えたい、語りたい 2
  白木の箱の前で泣いた母 いまでも記憶に残るあの日
   伏木野静代(山口在住)
伝えたい、語りたい 3
  同窓の3分の2を3月9日の空襲で失う、私は北に逃げて助かった
   忍足まつ枝(小手指町在住)
伝えたい、語りたい 4
  歌と私と戦争と
   松樹偕子(花園在住)
あれこれ 11
  玲子の原爆死
   増岡敏和(詩人)
鈴木彰の「トラの尾を踏んで近づく終末期」
中国社会科学院に本を送る取り組みの中間報告
年齢
   津森太郎(詩人・山口在住)
短信
  ■平和の語りべと映画のつどい
  ■九条の会事務局主催学習会



戦後63年、まだ所沢に居座る米軍基地

 赤土の原野と北風の吹く立地条件の良さから、埼玉県西部には、熊谷、児玉、高萩、狭山、豊岡、桶川などに旧陸軍の飛行場が作られた。その多くは終戦とともに、耕作地に戻ったり、あるいは工業団地に変身を遂げた。しかし、所沢陸軍飛行場は戦後63年経つ今も米空軍所沢通信基地と名を変えて、市民の要求に背を向けて、全面返還をせず居座っている。

 首都圏郊外の典型的ベッドタウンのど真ん中に、異形の無線アンテナが草原に林立する光景は騒音こそないがあらためて米軍の基地であることを彷佛させられる。

 これまで三次にわたる返還があったが、市民の「平和都市」への想いは完全に満たされた訳ではない。依然として、97万平方メートルもの地域が市民の立ち入りを拒み、隣の街にいくのにも回り道を強いられ、電波障害を理由に建築制限も受けている。

米軍再編で基地強化の動き

 しかも、米軍は基地用地の一部は返還したが、上空の空間は引き続き支配している。これは市民の目には見えない日米安保の「影」とも言える。

 米軍再編に伴い、米空軍所沢基地(管理部隊・横田第377通信中隊)が、米大統領らによる核部隊に緊急行動メッセージ(EAM)を伝える通信機能の近代化計画「スコープ・コマンド]の対象になっていることが最近分かった。この近代化で地上局要員の手を使わずに米本土からの遠距離操作が可能となる。所沢通信基地は横田基地の送信機能を持ち、大和田通信基地(新座市)と一体運営されている。

 所沢の短波の通信施設は「テロ攻撃」で破壊されても、高価で復旧に時間のかかる通信衛星に比べ、アンテナ構造が単純かつ安価で短時間での復旧が可能なことから、同基地では老朽化した送信アンテナの更新、非常用電源の燃料タンクの新設など基地増強がいま進められている。

なぜ市内に米軍基地が…

 市民からの要望で東西連絡道路の建設のため国が実施した「電波障害調査」は「米軍通信施設の任務遂行能力に悪影響がある」と報告している。

 30万都市のど真ん中に米空軍基地が存在している現実と、米軍による基地機能の強化を「平和を守る」運動の立場から、見過ごすことは出来ない。

 所沢通信基地の全面返還の運動を視野に置き、「会」では9月20日に、周辺の米軍・自衛隊の基地の実態を学ぶ、身近な基地のウオッチングを行う。

もくじへ



マスコミよ目を覚ませ

北村 肇(「週刊金曜日」編集長)

 今年の夏はとりわけ暑い。頭がぼうっとしてくる。何につけ、やる気が失せる。

 ささいなことに腹が立つ。でもって、マスコミヘの怒りもますます沸騰する。

 過日、『週刊金曜日』と立教大学・服部ゼミの共催で「メデイアは戦争を止められるのか」というシンポジウムを開いた。冒頭、こう聞いてみた。「メディアは戦争を止められると思いますか」。大学生を中心にした約300人の手はほとんど挙がらない。そこで質問を変えた。「メディアが戦争を止めることを期待しますか」。

 予想通り、どっと手が挙がる。そう、期待しているのだ、市民はメディアに。でもマスコミは、その期待を裏切り続けている。

 ある組合に講演を頼まれた際、「こんな『常識』にだまされていないですか」と題してお話しした。たとえば「原油高騰でみんなが困っている」「社会保障充実には消費税アップしかない」「凶悪犯罪が激増している」----。

 原油の高騰でウハウハの連中がいることを、新聞・テレビが強調することはない。たとえば元売りの昭和シェル石油は、社員一人あたりのもうけが4000万円という。

 小麦などの食糧高騰にしたって、輸入を取り扱う商社はどこも大もうけ。庶民感覚からいって、「どこか変」だ。

 国は「カネがない、カネがない」と言う。だから消費税を上げるしかないのだと。
 ところが、福田首相を輩出している町村派がまとめた「『増税論議』の前になすべきこと」という提言には驚くべきことが書いてある。「特別会計の繰越金活用などで50兆円規模の財源をひねり出せる」というのである。省庁のデータはすべて把握できる与党、しかも最大派閥が出した提言だ。

 なぜ新聞・テレビはもっと大々的に報じないのか。
 「死に神」と椰楡された法相は13人の死刑囚に刑を執行した。体感治安の悪化で、市民の反発は少ないと踏んでいるのだろう。07年の殺人事件は1199件で戦後最低の記録だった。こうした事実はあまり流さず、凶悪事件をセンセーショナルに報じる大メディアの責任が大きい。

 大体、小泉純一郎氏を批判しないから格差社会が深刻化したのだし、安倍晋三氏をたたかないから愛国教育が跋扈したのだ。
 今の日本は明らかに平和的生存権が保障されない「戦争状態」である。いい加減、マスコミは目覚めたらどうか。

もくじへ


伝えたい、語りたい 1

終戦から63年目の夏 「女たちの戦中、戦後史」


できなかった「戦争に反対」

中本みよ(こぶし町在住)

 敗戦の時私は26歳でした。その頃は中島飛行機武蔵工場の製図課で働いていました。
男不足になっていて、女子機械工補導所というのがあってそこで勉強して、いくつかの職場を経てのことです。だんだん軍の締め付けが厳しくなり、設計・製図は軍の秘密事項でもあり、何を持ち込んでもいいが持ってはでられない、そんな状態でした。

 いい課長がいて傑作は、おしやべりして仕事をしていても、仕事さえはかどっていれば何も文句を言われない職場でしたが、ある時いきなり『うるさい、オレがいる間は静かにオレを寝かせてくれ』とお互いかばい合って仕事していたものでした。

パンツ貰いに田舎に帰る

 東京での最初の空襲はその中島飛行機工場が狙われたものでした。たまたま私は友達のお兄さんが亡くなってお葬式に行っていて、空襲には会わなかったのですが、その後も何度も何度も狙われました。空襲で一人が亡くなり、負傷者も出て女工達が交替で看護に当たっていて、空襲になっても負傷者をおいて逃げることも出来ず、怖い思いをしていました。

 8月15日は会社には母と別れをしたいといって、田舎の母のところに帰っていたときでした。天皇の放送を聞いても何を言っているのかよくわかりませんでした。でも、これで戦争が終わったらしい、やれやれという気持ちでした。

 田舎に帰っていたのは、実はパンツを貰いに帰っていたのです。田舎は秋田の横手ですが、母がパンツなどはかない着物だけで暮らしていたのですが、パンツが配給になりたくさんあまっているのでもらいに帰っていたのです。その頃は自分はどこで死ぬかも判らないとそんな毎日でしたから、つぎはぎだらけのパンツをはいていて、空襲にあったらどうしよう、どこかで、どこかで焼けこげになって気恥ずかしい思いはしたくない、そんな気持ちでした。

 敗戦を知って、後悔したことは戦争に反対することが何も出来なかったことです。天皇に背くなどという雰囲気はどこにもないときでしたし、何も考えられなかったのです。

もう、何もできなくて

 私の家にはマルクスの本とか小林多喜二の本が土蔵の2階にたくさんあって、小さいとき訳もわからず兄と良く読んでいました。父は右翼で県会議員までした人でもありました。母方の叔父が戦争に反対して、投獄されていたのを釈放されると家に引き取り、住まわせる人でした。

 なぜそうしたことまでしたのか、よくわからないでいましたが、何かの体験があったのでしょうか。そんなわけで、家には憲兵は乗り込んでは来ないと蔵書を全部引き取っていたのです。

 私、今は人の役に立つこと、もう何も出来なくなっているのですが、それは寂しいですね。


伝えたい、語りたい 2

終戦から63年目の夏 「女たちの戦中、戦後史」


白木の箱の前で泣いた母 いまでも記憶に残るあの日

伏木野静代(山口在住)

 今年の埼玉戦争展に私ども、「平和遺族の会」は6人の戦死した父親たちの写真を飾り、子どもである私たちは一人ひとりの想いを書きました。

 タイトルは「私の父、兄は戦争で死んだ」です。戦争になればかならず兵隊が生まれ、大けがや病気になることもあり、戦死すれば家族は取り残されます。

 父が中国で戦死したとき、母は25歳、私は3歳でした。母が白木の箱の前でワァワァ泣いていたのが、私の人生の最初の大きな出来事として、記憶がはっきり残っています。

 

 その後、母は周りの勧めもあって父の弟と結婚し、私には5歳と10歳離れた二人の弟ができました。

 実父の記憶がないものですから、この家庭が当たり前と思い、大人になってしまいましたが、今になって思えば、平凡な家庭を保つために、父母、特に養父の苦労は大きかったのではないかと思います。

 今年の6月に7回忌をすませた養父に聞くことはかないませんが、元々、口数の少ない人ですので聞いても答えてくれないかも知れません。ただ感謝あるのみです。

 一方、戦死した実父は母に言わせると片岡鶴太郎によく似ているということですが、埼玉戦争展に掲示した写真を見て友人は石川啄木に似ていると言いました。私にはどちらに似ているかわかりません。強いていえぱ養父のすぐ下の弟である叔父に似ています。そんな影の薄い実父がすごくかわいそうです。

 その叔父が私に手紙をくれました。中国まで慰霊に行ったことを喜び、中国の人々に感謝し、最後にこう書いてありました。「人は二度死ぬと聞きました。一度目は普通の死に方です。二度目は、その人を知っている人がいなくなることです」


伝えたい、語りたい 3

終戦から63年目の夏 「女たちの戦中、戦後史」


同窓の3分の2を3月9日の空襲で失う、私は北に逃げて助かった

忍足まつ枝(小手指町在住)

 昭和5年、昔の本所区で生まれました。私が長女で兄妹は5人です。女学校に入った時にはすでに戦争が厳しくなっていました。2年生の時に学徒動員で白髪橋のそばの工場に通いました。これからは学校に来なくてもよいから、毎日、工場にくるようにとの長い訓辞がありました。ものすごい騒音と油の匂いに、失神してしまいました。父が校長と交渉してくれ、学校では1年生から5年生までの選ばれた生徒が校内作業に回り、軍服など縫ったりしていました。私はその経験がなかったので、煙草箱ののり付けをしていました。

 私の家の家業が食料品を扱っていましたが、どこも商品はなく、戸を下ろしていました。父の店には多くの登録者(配給)がいたので父が一人ではできなく、私は計算が少しできることから、二人で作業することにして、配給の日は学校を休みました。  大勢いた小僧さんもいなくなり、近所は女ばっかりです。向島界隈は表通りに商店が並び、一歩入ると鉄工所ばかりです。そこにも男の姿はありません。

 防空演習があっても並ぶのは女と子どもばかりでした。毎日のように出征兵士を送る人が家の前を行列していきました。多くの人に見送られても妻は近くに行けなかったのです。柱の影から妻が無事を願って見送るのは本当なんです。

 父は年配で召集を受けず、防空演習も嫌いでした。みんなが防空演習をしてくれれば、その日は美味しいものを調達してきて、振る舞うからと女と子どもに防空演習をさせていました。そんな父でした。

みんな焼けてなにも残らなかった

 だんだん空襲が激しくなって、毎晩服のまま寝ていました。3月9日は寒い夜でした。家の前に曳舟川が流れ、向こう側の人と「今晩は冷えるね」、「川が凍りそう」と話しているうちに警戒警報が鳴り、みんな家に入りました。しばらくして「空襲だ」とのものすごい声に外に出ると空は真っ赤でした。何がなんだかわからなくなりました。

 母からは、おねいちゃんの位牌だけ持って逃げろと言われていましたので、それを鞄に入れました。隣に忍足かずさんという、私の親のような人がいました。その人と逃げなさいと言われていました。その家には重度の障害者がいました。二人で逃げなさいと言うのですが、私はその人を助けたくて、夏ふとんでぐるぐる巻きにし、二人で引っ張って逃げました。町内の人は逃げた後で、ここで三人で死ぬのかなと思いました。地面が熱くて歩けないのです。でも曳舟川に沿って、四ツ木の土手を目指しました。

 父は一人で残り、「四ツ木の土手でみんな待っているよ」と言ってくれたのですが、先に行った隣組の人はみんな死んでしまいました。そのうち、私たち三人も歩けなくなり、気がつくと3階立てのビルが目に入りました。水道がタラタラと流れていました。ここで一晩明かそうとその工場に入りました。いま考えると資生堂の工場のようです。三人でうずくまって朝を迎えました。助かったと心から思いました。

 また、夏ふとんにぐるぐる巻きにした障害者を引っ張って、向島仲ノ郷の家まで戻ろうとしたのですが、今度は重くて苦労しました。北に逃げて助かったのです。南に逃げて押上川に入った人はみんな死にました。父も南に逃げたのですが、運良く助かりましたが目をやられました。押上の駅の近くでバケツの水の雑巾を目にあてて朝まで過ごしたそうです。

 みんな焼けてなんにもありません。瓦礫の山です。向島でも奇跡的に焼け残ったところがあります。そこに住む父の知人の家に避難しましたが、食べるものはありません。父の眼の視力は回復することはありませんでした。

 学童疎開が始まっていました。兄妹4人の一番下はまだ1歳です。鴨川にある母の実家が4人を引き受けてくれました。集団で疎開するか、縁者を頼るか選択できたのです。

 夫(故忍足欣四郎都立大学名誉教授)は10人兄妹で夫から上は戦地に行き、下は長野に家を借りて疎開していました。食べ物を手に入れるのに苦労したようです。

 夫と私は一歳違いで同じ本所の生まれです。夫の実家は鉄工所で景気も良かったのですが、戦争ですべてを失いました。夫は長野に疎開したが、私は本所に残り、父と一緒に配給の仕事をしていました、卵が月に何回か配給になっても、一人が何匁目の分配です。三千人の配給を父とやっていました。車で卵がいっぱいきますが、一人一個にもなりません。一家族で一個程度の配給だったのです。粉の配分も難しかったが、納豆だけは一人一個配れたと記憶しています。それも月に一回か二回でした。東京の暮らしは大変でした。

 

 3月25日には、母の疎開先の鴨川に行きました。4人の子どもを連れていき、着物と食べ物を交換するような生活でした。私も鴨川に行ったのですが、在学証明書(学校、区役所も焼けてしまい)がないから、地元の学校に転校できませんでした。7月になんとか証明書を入手して、鴨川の私立の女学校に編入しました。毎日10キロの道を歩いて通いました。喜んで学校に通ったのですが、また、学徒動員がきて、鴨川から船橋の工場で飛行機の部品を作りました。毎度の食事はアルマイトの器に一杯のすいとんのようなものでした。バラックの宿舎で裸同然で全身シラミまみれの生活でした。

 そのうえ、夜も昼も空襲の連続です。堀切菖蒲園で間借りをしていた父は東京の配給の幹部でした。そこにハガキを出して迎えに来てほしいと訴えたところ、父は飛んできました。「子どもがいないと、配給が一人ではできないから、東京に帰してほしい」と父は交渉したのですが、「この非国民」と往復ピンタを受けました。しかし、「この子がいなくては配給ができない」と父が頑張り、その日のうちに京成船橋から電車に乗って堀切に戻りました。堀切に戻りほっとしたときに終戦になりました。ラジオもなく本を読んでいたら、隣組の組長さんから「全員集まって下さい」の声がかかり、戦争が終わったことを知りました。

 女学校5年のうち、まともに勉強したのは1年間だけです。本所高女は地元の生徒が多く、5クラスの3分の2が空襲で死にました。残ったものだけで、昨年までクラス会を続けてきました。先生はある時のクラス会で、一人ひとりの名前を大きな声で読み上げました。3月9日の夜、当直だった先生はクラス全員の写真と名簿を持って避難したそうです。「せっかく残ったんだから、このことを(戦争・空襲)を忘れないで生きていってほしい」と話しました。

 終戦になり、高女での勉強も始まりますが、野外での歌などからです。鉛筆もノートもありません。友達の消息が分かればみんなで喜びました。子どもたちは田舎に疎開して助かっても両親が戦災で死に孤児になったケースがいくらでもあります。

 戦争中、女はよく働きました。戦前の向島界隈は仕事も多く豊かな街でした。下町の女だからみんな働き者です。とりわけ長女は許嫁を戦争で失ったり、戦死した男親のかわりに働いて幼い兄妹を育てることを余儀なくされました。生涯独身という人を沢山知っております。戦争が負けるとは思っていませんでした。最後は神風が吹くと教えられました。

 こんな経験もうたくさんです。犠牲になるのはいつも弱い者です。戦争は絶対にしてはいけません。私も生きている限りこの経験したことを伝えていきたいと思います。


伝えたい、語りたい 4

終戦から63年目の夏 「女たちの戦中、戦後史」


歌と私と戦争と

松樹偕子(花園在住)

 60数年前、わたしは学童疎開先の茨城県のお寺で来る日も来る日も“疎開は勝つため国のため必ず元気でやり抜くぞ/そうだそうだ/やりぬくぞ”の歌で一日が始まる生活を経験しました。歌が心とからだをゆさぶり、この人里離れた、家庭から引き離された生活も、今与えられた一つ一つを一生懸命やっていれば必ず良いことがある……と信じて、おかっぱ頭の私は力をこめて歌ったものです。

 よきにつけ悪しきにつけ、歌は人の生を後押しし、エネルギーを満たしてくれることを知ったのは皮肉な巡り合わせだったかも知れません。気が付いたら私は音楽教師になっていました。

 縁あって知的障害児と向き合うことになり、音程も発声も…一般の基準からすれば、極めてお粗末なものです。しかし、彼らの心の奥にある何かに触れることができた時、目をむき出し、顔を真っ赤にして歌う。その歌声を引っ込めてはなりません。

 そして常に“音楽とは何?”の課題が私を支配し続けたのです。

 作曲家・林光氏の「君が代が入り込めない音楽教育」ということばに共感して、養護学校高等部の卒業式に「平和とぞうとこどもたち(“ぞうれっしゃがやってきた”より)」を含む一連の平和の歌で彼らを社会に送り出しました。

 終戦から63年、年金者組合うたごえサークル“こだま”の愛唱歌とも言える「いぬふぐり」は「くにさん」との思い出を野の青い小さな花「いぬふぐり」にたとえて歌ったものです。

 一番では、「くにさん」と登った柴山には今も「いぬふぐり」も咲いている。

 二番では、その「くにさん」は、戦争にいき、手紙も届かぬ遠い所で死んでしまう悲しみを歌う。(中略)

 五番で、「いぬふぐり」も「くにさんも」ずっと忘れないと歌い、戦争の悲しさを忘れない。

 戦争が起こらんようにする(繰り返す)。と結んでいます。

 たくさんの平和の歌がある中で、こうまできっぱり言い切っている歌は多くはありません。平和の歌のルーツだともいわれている歌です。これを80歳のTさんが朗々としかもきっぱりと言い切るように歌う表情に私は元気を貰う日々です。

 また、沖縄の“芭蕉布”の歌もそうです。挺身隊として本土に来ていた少女たちの手で芭蕉布(織物)の伝統は守られたといいます。

 20年4月1日、米軍上陸、そして迎える沖縄玉砕の6月23日。少女たちはその知らせに涙をいっぱいためて、何かに取りつかれたように黙々と仕事を続けた。後日、沖縄に帰ったこの少女たちの手で“芭蕉布”の伝統は守られました。

 一つ一つの歌に込められた思いを掘り起こし、噛み締めながら年金者だからこそ響かせ得るうたごえを引き出し守り育てる…私にとって今は老後ではありません。

 “うたと私と戦争と”とともに私の人生は続いています。

もくじへ


あれこれ 11

玲子の原爆死

増岡敏和(詩人)

 本紙32号に、剣持英子さんの広島原爆で長兄の13歳で亡くなった一文を拝読し、私の上の妹「玲子」が被爆死したのも同じ13歳だったから、私の妹への思いをここにつないで記しておきたい。

 玲子は学徒動員作業場に行く広島駅近くの雑魚場町付近で被爆(前々号の「爆心地近く」は誤り)、軍隊のトラックで宇品に運ばれ、そこから広島湾内の小島の金輪島にもっていかれた。その島には、恰度広島の私たちの家の前の二階に下宿していた陸軍中尉が勤務していたので、玲子を見つけてくれた。彼女は翌朝そこで死んだのである。

 数日後、中尉から聞かされ、母はすぐ金輪島に立つたが、玲子はもう隣島の似島の焼場に運ばれていたので、母が訪れた時は、屍は山にして焼かれていたらしい。

 母は一握りの土を持ち帰り、泣きながら仏壇に供えた。私が松山の予科練から帰ってきたのは、その十日余の後であった。

もくじへ


鈴木彰の「牛と『う』じゃ偽装の仕方がちと違う」



もくじへ


中国社会科学院に本を送る取り組みの中間報告

 「マスコミ・文化 九条の会 所沢」は、2006年5月に「中国近代史研究者から見た日中戦争」と題して、来日中の中国社会科学院近代史研究所所長の歩平さんを囲むつどいを開催しました。

 その折の交流会の中での四方山話で古本の処分に困っている話が出されましたが、歩平さんから社会科学院の図書館や日本語を学習している学生たちが日本の本を求めているので、読み終えて処分に困っているような本を送ってほしいという要望が出されました。

 本の運送費用や送り出す手だての問題も整って、「中国社会科学院に本を送る会」というプロジェクトが始動し、この5月から本を贈る活動が具体化されています。

 皆様のご協力で第一次集約締切の6月30日前に、第一次分として45箱およそ2千冊の本を送り出しました。その後今日までに20箱余が寄せられておりますが、プロジェクトでは9月30日を第二次締切に設定してご協力を呼びかけています。

 本を寄贈して下さった方々からは、有効活用が出来てうれしいと感謝の言葉もいただいています。今までご協力をいただいた方々は所沢市内だけでなく、近県にも及んでいます。

 直接回収が困難な地域の方々には、宅配便の着払いの伝票をお送りして活用していただいています。

 お知り合いにも声をかけて広げて下さるようお願い致します。

もくじへ


年齢

津森太郎(詩人 山口在住)

八十一
自分の年齢を書くと
今日まで
よく歩いてきたなあ
といった思いが
胸にせりあがってくる 突きあげるように
一九四五年八月九日
長崎市上空で
原子爆弾が炸裂したとき
徴用工として長崎の造船所で働いていたわたしも
爆風に吹きとばされていた
あれから長い歳月が流れ
いま、わたしは
老人いじめといわれている
後期高齢者医療制度と
向きあっている

もくじへ


短信

■平和の語りべと映画のつどい
 “戦争の悲惨さと平和の尊さ”をアニメ映画や「語りべ」によって知っていただくつどいです
日 時:8月23日(土)午後1時〜3時30分
▼アニメ映画「つるにのって」〜とも子の冒険
▼平和の語りべ 中島寿々江さん
▼パネル展と絵本・アニメ本の展示
展示期間:8月19日(火)〜24日(日)(21日は休館)
場 所:男女共同参画推進センター ふらっと 会議室・ロビー
    所沢市寿町27-7 コンセールタワー所沢 2階 04-2921-2220


■九条の会事務局主催学習会
 「名古屋高裁判決と派兵恒久法」

 名古屋高裁判決は自衛隊のイラク派兵について明確に違憲・違法と断定しました。しかし、政府はこれを無視し、米軍の対テロ作戦に協力を続けようとしています。秋の臨時国会での派兵恒久法の立法の動きは与党協議の不調で回避されたとはいえ、福田内閣の主要な目標であることに変わりはなく、早晩、国会に上程されることと思います。九条の明文改憲を断念することなく、かつ九条を踏みにじり、改憲を先取りするかの動きを看過することはできません。
日 時:9月13日(土)午後1時半(開場1時)〜4時
会 場:星陵会館(地下鉄 永田町駅下車6番出口・日比谷高校隣り)
講 師:小林 武(愛知大学教授)名古屋高裁イラク訴訟で鑑定意見書提出
    半田 滋(東京新聞編集委員)自衛隊の実態を克明に調査
    渡辺 治(一橋大学教授)今日の政治情勢と派兵恒久法を語る
参加費:1000円
主 催:九条の会事務局 Tel 03-3221-5075
申し込み制ではありません。直接会場においでください。



もくじへ

トップページへ