機関紙5号(2005年8月30日発行)
「昨日、衆議院は小泉首相は理念なき解散をし、郵政民営化の是非を国民に問うという暴挙に出た。民営化論争の陰で今月始め、自民党の新憲法起草委員会は『軍を保持し、戦争放棄削除』を明記した憲法九条全面改悪の改憲条文案を公表しました。9月11日の総選挙の争点は、郵政民営化ではなく、平和の路線の継続か、再び戦争への道を選択するのか、憲法改悪を許し、米国と一緒に戦争をする国を目指すのか、日本の将来を決定付ける極めて決める大事な選挙になります。他にも、大型増税や福祉の切り捨てなどの『国民からの収奪路線』を一層進めようとしている自公政権の『国民いじめ』の政治を根本的に変えることにあります。郵政民営化が『百害あって一利なし』であることは、国会論議で明白にされている。小泉首相が言う、『郵政解散』は、有権者を欺く『目くらまし』だ。選挙の争点は、平和と生活が守れるかだ。この選挙で、一人でも多くの『護憲派の国会議員』を増やそう」と、8月9日、新所沢駅頭で、会員の一人はマイクを握り熱く市民に訴えました。
「マスコミ・文化 九条の会 所沢」では、全国で3000を超える「九条の会」と一緒に、「九の日は、街頭で宣伝をする日」と位置づけて、毎月9日に新所沢駅頭で実施しています。この日10数人の会員が駆けつけ、そろいの腕章を巻き、会員の「九条を守ろうの声を全国津々浦々からあげていこう」と会員がリレートークを行い、会報を道行く人に配布しました。
次回の9月9日は、極めて大事な選挙投票日の二日前になります。新所沢駅頭で午後4時から大勢の会員と一緒に「憲法九条を守る」宣伝活動を行います。
ぜひ、あなたも、ビラを配布し、マイクを握る運動にご参加下さい。
機関紙5 もくじへ自民党の新憲法起草委員会(委員長・森喜朗前首相)は8月1日、「自衛軍を保持する」と明記した憲法九条を全面改悪する内容の「新憲法第一次案」を発表した。前文案については見送り、「国民の責務」などは、検討課題としている。自民党が条文化した改憲案を示すのはこれが初めて。改悪のポイントは次の通り。
●第二章「戦争の放棄」のタイトルを「安全保障」に書き換えるこの自民党案では、九条二項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除し、「国民の安全を確保するために、自衛軍を保持する」と明記しています。九条一項(戦争放棄)についても、戦争放棄というタイトルそのものを条文から削除し、「戦争その他の武力の行使・・・を永久に行わない」と書き換えていますが、司法の項目で、「軍事裁判所を設置する」と規定しています。国民の権利については、「公益や公の秩序」が個人の人権より優先するという考えを前面に出しました。
また、国会については、政党の項目を新設し、国が「その健全な発展に努めなければならない」として、政党の活動に国が介入する余地を作っています。
憲法改正の要件を、衆参各議院の3分の2以上の賛成から、過半数の賛成に緩和し、改憲を容易にすることを狙っています。
三枝 和仁 (マスコミ九条の会・事務局長)
7月30日、国際展示場駅前の有明コロシアムには駅から向かう人の列が途切れることなく続いていました。主催者発表では9500人が参加し、九条の会の7名(一名ビデオ発言)の発言に聞き入りました。
憲法学者の奥平康弘氏は、九条の中でも中心点は二項の「戦力不保持」、「交戦権否認」であり、これを変えさせないことが大事と訴えました。
また、九条改悪が阻止出来れば、それは日本の歴史上の画期的ことであり、その後の日本の歴史に大きな変化をもたらすと阻止後の民主主義の発展を予言する発言がなされました。
二日後の8月1日に条文として発表された自民党「憲法改正一次案」では、奥平氏の指摘のように九条一項はあまり変えられず、二項が全文削除される案となっていました。削除された二項の代わりに「自衛軍」の明示、国際平和と安全のための自衛軍の活用が書き込まれました。
奥平氏の指摘通りの自民改憲一次案ですが、国民の反発を恐れて二つのベールで包んでいます。一つは「戦争放棄」の九条一項をおおむね残すことで、「日本は戦争しない」との条文は残したとのごまかしです。今一つは、現憲法と明らかに矛盾となっている自衛隊を「自衛軍」と名称変更して「認知」するだけとのごまかしです。
この二つのごまかしに続いて「法律の定めるところにより国際的な活動が出来る」と書き込み、集団的自衛権でアメリカに協力し海外で自衛隊(軍)が戦争を行なうことが別の法律で出来るようにしています。この一次案で、自民党が狙っているアメリカと共に戦争することが100%可能となる「改憲案」です。
奥平氏は7月30日の講演会でこれを指摘し、今後自民党が宣伝してくる「九条は、戦争放棄はそのままにして自衛隊だけ軍として名称変更した」との賛成取り付けに警鐘をならしました。その直後に自民党の九条改悪が明らかになった今、その危険な内容を多くの人に知ってもらう地上戦スタートの有明演説会でした。
その直後、小泉内閣は参院での郵政民営化法案否決を受け衆院解散・総選挙の挙に打って出ました。小泉氏は総選挙のわけを郵政民営化が認められるのか、否決されるのか民意に問うと言っています。
民意は、郵政民営化だけでなく、この選挙で小泉氏を信任すれば「改憲一次案も信任された」と一気に国民投票法案成立まで走ることを見抜く必要があります。そして、今回の衆院選挙は自民九条改悪案に対する国民の意志をあらわすチャンスと捉え、郵政民営化に賛成でも、反対でも、自衛隊が戦争する九条改悪に反対なら改憲を進める議員には投票しない世論を全国の隅々まで伝える必要があります。有明講演会で発表された3000を超える九条の会がそれを担うでしょう。
その結果、奥平氏の指摘したように九条改悪が押し留められれば、日本の歴史は変わると思います。奥平氏はどのように変わるかは述べませんでしたが、私見では九条改悪を阻止した民意は、その震源地の米国政府と振動媒体の日米安保条約・自民党政府を支持しなくなるでしょう。自民党政府の次に来る政府は、民意に基づいて安保を条文十条に従って廃棄し、60年続いたアメリカの半植民地支配をなくすでしょう。そこで生まれる独立国日本の政府は、チャベス大統領のもとでのベネズエラのように国民多数の利益を擁護する政治を進め、日本国民の安全と生活を守りながら北東アジアの友好のために貢献するでしょう。
奥平氏が展望した日本の新たな歴史を作る局面が近づいていることを確信し9500人の参加者は有明コロシアムを後にしました。
機関紙5 もくじへ寺島幹夫 (小手指町在住)
所沢に居を移したのは28年前のことでした。俳優稼業が多忙で、とても地域のことなど考える余裕はなかったのですが、10年前、戦後50年の節目を迎えた時、僕はこれを自分の人生にとっても節目の時にしなければならと考えました。
50年前、中学2年生の僕は福井市の空襲で焼夷弾の下を命からがら逃げ回り、焼死体の山の間をうろついたのでした。あの忘れることのできない原体験を空しく過ごすことはできないという思いからでした。
僕は、日本全土に残された敗戦の日の子どもたちの記録を朗読劇に構成し、市民たちに参加を呼びかけ、所沢、浦和、東京での公演を成功させたのでした。その後市民たちの活動は絶えることなく続き更に10年の節目を迎え、その記念公演のテーマを与謝野晶子に決めて準備を進めているところです。
ところで先日、自民党の憲法改訂案の要旨が発表されましたが、その担当の与謝野政調会長が晶子の孫であるアイロニーなどどこ吹く風で、今の若者は、『君死に給うことなかれ』と聞いて、『なに、それ、韓国の新しいドラマ?』と答えるのが笑えない現実なのです。
しかし取り組んでいる僕の方もまた、歴史の認識では他人を笑う資格などないことを日々教えられているのです。
例えば、第一次世界大戦が終わった時、男性の戦争責任を鋭く指摘した晶子のことばから、日本の今の憲法が有史以来初めて女性が参加して創られたものであり、それは九条と同じように重要な意味を持っていることを再認識させられたりするのです。
晶子は一介の反戦詩人ではありません。彼女は『唯一つの問い』という詩の中でこう書いています。
唯一つあなたにお尋ねします あなたは今民衆の中にあるのか 民衆の外にあるのか と。その徹底した人道主義が今こそ輝かしいのです。
公演は来年、小手指公民館分館の予定です。ご期待ください。
白戸由郎 (小手指町在住)
先日当時の国民学校教科書を見る機会があった。3年生までの教科書は見覚えがあったが4年生以降はほとんど覚えがなかった。振り返ってみれば疎開から新制中学2年生くらいまでまともな授業はなかったと思い当たる。
私が国民学校に入学した年、太平洋戦争が始まり4年生のとき学童疎開が実施される。我が家では長兄・次兄が特別幹部候補生・予科練とそれぞれ志願入隊した。家業の子供帽子製造卸は「戦時衣生活簡素化実施要項」によって作ることが犯罪とされる時代になっていた。父は商売をあきらめ浅草から足利市へ疎開した。翌年には宮城県の無灯村に再疎開する。
足利では44年秋以降、近くの中島飛行機大田工場に偵察のためだろうか、毎日B29が単機で高空を飛来し、その都度空襲警報となり、防空頭巾をかぶって下校避難の日々であった。家では50センチほどの鉄棒をセメントの床にこすり付けて錆を落とす宿題? があった。またススキの穂を取る割り当てもあリ、飛空兵の救命着になるという。
宮城の山村では山の炭窯から馬車が入る道まで5年生は4キロの炭俵を1俵、高等科は2俵を背負って運び出す作業があった。都会育ちは背負い縄もなく兵児帯を持って行って嗤われた。繊維をとる桑の皮むきの割り当てもあった。8月15日は焼き畑作業をしていた。高等科の生徒が倒した木に火をつけ跡に蕎麦を蒔くのだ。今の小学生には「想定外」のことだろう。
その日重大放送があるからと作業を中断して校庭に集合した。初めて聞く天皇の声は雑音が多く聞き取れなかった。校長は何も言わずそのまま解散になった。真夏の町は深閑として真空のようであった。
9月に入って木刀や木銃が校庭で燃やされ、山のような荷物を持って集落に復員兵が戻ってきた。教科書の戦争などの記述に墨を塗らされた。そのうち陸軍士官学校から復員した区長の息子が芋泥棒で捕まったという話や、クリスチャンで知られた幼稚園長が園児の弁当のご飯を少しずつ削り自分の子に与えていたことがわかり園長を追放されたことなどが聞こえてきた。新憲法が公布され戦争は不可避ではないことを知った。その冬、町には2・1ストを呼びかけるビラが貼られ、「臥薪嘗胆」を説いた担任が赤い鉢巻を締め演説をしていた。これまでの秩序が大きく揺らいでいた。私は敗戦とはこういうことかと実感した。
鈴木正昭 (こぶし町在住)
孫が1年生となり、生まれて初めて親を離れて泊りがけで遊びに来た。好きなゲームをやりながらも、何とかやりとげようとする気迫のようなものを感じてうれしく思いながら、ふと、私の一年生の時代を想い起こしていた。
「おーい日本が見えたぞー」「帰ってきたぞー」みんなの感動が歓声となり、涙を流し、肩を抱きあった。引き揚げ船の中では子供心にも「生きて帰ってきた」と小躍りさせていた。 「赤いリンゴに唇寄せてー」歌が流れて、それが印象に強く残されている。
私は一年生の入学式を覚えていない。覚えているのは、満州から引き揚げの途中、大きな河の上で列車が停められ、武器が集められ、次々と河に投げ込まれる様子だった。
母が見重だったのでピョンヤンで列車を降りた。まもなく妹が出産したが、乳が出ず死なせてしまった。何しろ腹が減ってどうしようもなかった。口に入るものはなんでも食べたようだが、想い出せるのは、大きなドラム缶の中にコーリャンが少し入った食事がつづいたことだ。一人おわん一杯だったが、そのおわんの中にコーリャンが10粒も入っていれば上等だった。母は自分のものを子供達に与えたが足りるわけがなかった。朝鮮の人たちの態度は、がいして冷たいものだったが、中にはおこげなど両手いっぱいに載せてくれるおばさんもいて、大騒ぎしたことを想い出す。「日本に帰ろう」「日本に帰ろう」みんな口々に云いその日を待った。
ある日、トラックが一台きてみなそれに乗り込み移動が始まった。みな嬉々として、歌など唄いだした。なんの歌だったのか! 想い出さない。
それも長くは続かなかった。ガソリンがなくなったのだ。徒歩で行くしかなくなった。
母は5歳の弟の手を引き、3歳の弟をおぶって歩き出した。それからは倒れて動けなくなる人が出始め、なくなるとお墓を作って埋めた。山賊みたいな男たちも現れ、すべて奪いつくされていった。生きるために必要なものは、私達子供の衣服の中に縫い込まれていて助かった。山の中の食事はなんだったのか! それも憶えていないが、芋か根っこみそれも憶えていないが、芋か根っこみたいなものをかじっていたようだ。今まで人が亡くなると埋葬していたが、それもだんだんしなくなった。できなくなったのだろう。誰も口を聞かなくなった。ただ黙々と歩かされた。
そんな中でも、子供達が集められ「朝鮮の水は甘いんだぞう」と汲んだ水を飲まされ、本当に甘い水でビックリさせられたが、種明かしは「ズルチン」だった。こうして、みんなで北から南へ、朝鮮の三十八度線を歩いて越えて来た。
そして佐世保へ、日本を間近にして、海へ水葬された人々も少なくなかった。私は頭の先から、足の先までDDTで真っ白になりながら、日本の大地に足をつけた。
故郷に帰りついた暑い夏に、私は、また一年生に編入された。
孫や子供に私の体験は決して味わせてはならない。
九条を世界に広げ「生きる」ことを大切にする社会を残したい。
原 緑 (椿峰在住・サークル楽学舎副代表)
私は「戦争を知らない子どもたち」の一人として、この秋に還暦を迎えます。ずっと、戦争というものは世の中にないものとばかり思って育ち、またわが子を育てていました。
ところがある日、テレビの画面にとても信じ難い映像を見て愕然とさせられました。それは湾岸戦争といわれたあの戦争でミサイルが飛んでいく様子であり、油にまみれた水鳥の姿であり、ポイントを爆撃する実況放送であったのです
そしてまた、アメリカのテロ攻撃に端を発した嘘を上塗りするような戦争が起きました。
それからの日本の政治は戦争へ戦争へと転げ落ちていくようでした。私たちの親の世代が辛酸をなめて手に入れた平和な社会は、憲法があるからずっと続くと思っていたのに、その憲法まで作り変えようというではありませんか。とんでもないことです。戦争なんて絶対に嫌です。
この声を誰かに伝えたい、一人でも多くの共感者が欲しい、私は仲間と一緒にピースリーディングという構成劇の上演を思いつきました。日本国憲法の大切さを知り、それを守ろうと思う人が一人でも多くなってほしいのです。
機関紙5 もくじへ石田道男 (所沢労音会長、南住吉在住)
60年前、所沢は軍都だった。日本陸軍の航空幹部の教育と養成航空本部などの組織づくり、飛行機生産の技術と整備、施設の拡充など、明治43年(1910年)から昭和20年8月15日(1945年)まで、所沢は戦争体制推進の最も先進的な都市だった。少年飛行兵も所沢で生まれ、特攻隊のはじまりも所沢だった。
今年は終戦60年目の節目。所沢の戦争体験を風化させないために「戦争と所沢」を今月から連載する。
小沢啓司さんの「所沢陸軍飛行場史」によれば、「山口貯水池南岸の高台に高射砲6門の陣地が構築されていて、貯水池も樹木を植えた筏(いかだ)を湖上に浮かべ、貯水塔、地形等を偽装した」とある。他の資料でも、昭和12年以降の地図には、貯水池は雑木林や畑となっている。
そして、昭和20年4月4日の午前1時から4時まで、約90機のB29が来襲し、貯水池堤防の破壊を狙った焼夷弾と250kg、500kgの爆弾550発くらいが投下された。
山口の川辺・高橋近くに500kg爆弾が投下され、洋品や雑貨、煙草などを商っていた沢田さんが死亡。新堀地区では焼夷弾による山火事が発生した。
山口地区での噂によれば、山口陣地の高射砲のうち、何門かは木製の擬砲だったともいわれている。貯水池(山口、村山上、村山下)への爆弾は、羽村・村山水路に、昭和20年4月12日に1トン爆弾。下貯水池の管理事務所の取水塔付近に、硫黄島からP51が3機編隊で飛来し、昭和20年5月25日正午頃、爆弾(ロケットかも)投下。
また、昭和20年6月10日朝、8時ごろから9時ごろまで、B29が南から北に向かって300発くらい投下した。当時、山口地区には、高射砲陣地だけでなく電波探知機や兵舎があった。
昭和20年6月11日に再度、山口貯水池の取水塔付近への爆弾投下があった。堤防が破壊されていたらと思うと、今でも背筋が寒くなる。大型爆弾の所沢市内への被害は、この他に安松の駐在付近の高射砲陣地を狙ったものがある。そこでも巡査をはじめ死傷者があったことが記録されている。
また、北秋津の東村山との境に、昭和20年4月2日、B29 1機(乗員11名)が爆弾もろとも墜落し、多数の死傷者を出している。そのB29の乗員11名の遺体は、西武線秋津駅北側の都営団地近くの墓地に葬られていた。戦後、米軍が手厚く遺骨を持ち帰った。
このとき、私は北秋津の墜落現場に自転車で駆けつけ、沿道の大木の幹に人間の肉片がこびりついているのを見た。近くの川でも、米兵の航空服だろうか、衣類らしいものを、近くの老婆が木片で「この野郎、ちくしょう」と、涙でクシャクシャになりながら、叩いていたのを見た。
飛行場への集中的な艦載機による機関砲、ロケット攻撃による多くの死傷者が出た。私自身、グラマンに2度ほど狙われた。右に左に逃げまどう少年を地上すれすれに降下し、ひるがえりながら上昇する艦載機の若い操縦士の顔が笑っているのを覚えている。
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