機関紙6号(2005年9月30日発行)


もくじ
総選挙後の衆院改憲派、九割に迫る!
 憲法「改正」問題の核心を見失うまい

自民・公明 早速、憲法調査特別委員会を設置へ
 100万票増えた護憲派への投票

集会講師の梅田さんが編集した
 日・中・韓の共同編集『未来をひらく歴史』

憲法とわたし 6
会員が語り継ぐ、それぞれの戦後 3
私も会員です
「九の日」宣伝に21人が参加
戦争と所沢(その2)

総選挙後の衆院改憲派、九割に迫る!

憲法「改正」問題の核心を見失うまい

梅田正己 (高文研代表)

 さる9月の総選挙は、「郵政民営化」一本槍で突っ走った小泉自民党の圧勝で終わりました。しかしその陰で、実は恐るべき事態が進行していたのです。
 朝日新聞と東大・蒲島郁夫教授の研究室の共同調査によると、総選挙後の衆院の改憲派は前回03年の衆院選後の73%から一挙に14%もふえ、87%と9割に迫る状況となったのです(自民党は96%、民主党は73%)。

 今回の選挙で自民党は一言もふれませんでしたが、衆院解散一週間前の8月一日、自民党の新憲法起草委員会は「新憲法条文案」を発表していました。憲法「改正」がいよいよ具体的な形で立ち上がってきたのです。どんな条文案だったのでしょうか。

危うい「改正案」の軽視

 これについて朝日新聞社説は、「失速気味の改憲論議」と題して次のように述べていました。「…思いのほか小ぶりな改正案になった。そのことは、改憲への党内の勢いがしぽんできていることと無縁ではない」「結局のところ、政治家の間でも憲法改正はさほど緊急の課題としてとらえられていないことが底流にあるからではないか」

 まるで、たいした改正案ではない、と言わんばかりの評価です。この通りなら、今回の総選挙でも憲法問題が取り上げられなかったのも無理はないとなります。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。問題の第九条は大転換させられているのです。

 何よりも現在の第九条の二項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は抹消、代わりに「自衛軍」を保持するとし、その「自衛軍」は「国際社会の平和及び安全の確保のために」「活動」できるとされているのです。「軍」が「活動」するとは、すなわち戦争をするということではありませんか。

 これまで自民党の防衛政策は、自衛隊を米軍の同盟軍として海外で戦えるようにすることをめざして進められてきました。自衛隊法の改正、「防衛計画の大綱」の改定もそのためでした。その路線が九条の改変で完結するのです。条文案には「軍事裁判所」の設置も明記されています。軍法会議の復活です。

 もともと改憲間題の核心は第九条です。その核心が大転換されるのに『小ぶりな改正案」などと軽視するのはとんでもない話と言わなくてはなりません。

 この11月、自民党は結党五十年を期して、いよいよ「新憲法草案」をまとめる予定です。マスコミに惑わされるのでなく、マスコミを監視しながら、第九条を守り抜きましょう。

機関紙6 もくじへ

自民・公明 早速、憲法調査特別委員会を設置へ

100万票増えた護憲派への投票

 今回の総選挙の結果は当の自民党も驚いたという自民党の圧勝、改憲派が議席の9割にもなりました。自民党の小選挙区での得票率は47・8%ですが議席では73%を占めるという弊害の多い選挙制度がもたらしたものです。

 「憲法を守る」と訴えた護憲派の政党は議席も若干伸ばし、比例代表選挙では、前回より、102万票上乗せした、862万票(比例票)を獲得しました。今度の選挙は、増税や景気の問題、そして本来は憲法を変えるかどうか、戦争をできる国にしていいのかが問われる選挙でしたが自民党の主張は「郵政民営化」一本やりでした。

 投票率が大幅に上回った中での選挙結果で、これを国民が改憲に賛同したというものではないものの、今後は改憲の風が強まることが予想されます。

 すでに、安部自民党幹事長代理などは12日の『報道ステーション』で「今後の最重要課題は」の問いに「中長期的には憲法改正」「九条を改正する」と答えています。また、自民・公明両党は14日の衆院各派協議会で「憲法調査特別委員会を設置」し、国民投票法案を促進させる考えを示しています。

 総選挙直後の動きは国民の中に広くある「平和を守り・戦争は二度としない」「憲法九条をまもろう」という深い気持ちを、もっと大きな声にしていくことの大事さと同時に緊急であることを示しています。「九条の会」の果たす役割がますます重要になってきました。
(K)

機関紙6 もくじへ

集会講師の梅田さんが編集した

日・中・韓の共同編集『未来をひらく歴史』

 『未来をひらく歴史』は日中韓三国の研究者によって共同執筆されたが、この「細菌戦・毒ガス戦と人体実験」「南京大虐殺」の項は中国側執筆者によって書かれた。被害を受けた側からの証言の重さ、初めて知る事実に高校生たちは大きな衝撃をうけたようだ。

 マグニチュード7・9を記録した関東大震災では被災者約三五〇万、死者九万、負傷者十万の犠牲者を出したが、同時にこの地震の混乱の中でデマが流され、軍隊や警察・自警団によって、朝鮮人(約六千人)や中国人(数百人)が殺害されるという事件が起きた。しかし高校生たちの多くは、この地震の背後にあった虐殺事件については「知らなかった」と述べている。

 続いて二番目に多かった731部隊による「細菌戦、毒ガス戦と人体実験」も、三番目の「南京大虐殺」も「知らなかった」ことによる衝撃が大きい。

細菌戦・毒ガス戦と人体実験

 (まず日本人が人体実験を行っていたということに本当に驚いた。ナチスが人体実験をしていたのは知っていたが、日本までそんなことをしているということは初めて知った。さらにスパイや抗日家に対して細菌実験をしていて、三千人もの人が犠牲になっていたということも全く知らなかった。人体実験ということは絶対にしてはいけないし、それを知ってショックだった高校生A)

 (私はこの文章を読んで衝撃を受けた。生きている人の身体で実験をすることなど初めて聞いて目を疑った。人の血と馬の血を交換する実験、コレラ、チフス、パラチフス等の細菌実験、信じられないことばかりで気分が悪くなった。私はこういう人たちは終戦後に裁かれるだろうと思っていたが、アメリカに実験のデータを手渡すことで免責されたのにびっくりしたし、怒りを覚えた同B)

南京大虐殺

 (今まで南京大虐殺という名称ぐらいしか知らなかった。まさか日本の行ったことがここまで残虐だとは思いもよらなかった。あまりの残虐さにすごく衝撃を受けた。中でも最も衝撃だったのは自分と年が変わらない少女が強姦、放火、略奪と、日本はやりたい放題むごいことをしていたことがよくわかった。この大虐殺の事実が当時の国民に知られないようにしていたのも最悪だと思った同C)

 (南京大虐殺と聞いて、たくさんの人が殺されたというイメージしかなかったがこれを読んで、放火や強姦、略奪といったひどいことを行っていたことがわかった。私は全然こんなこと知らなかった。中国に対して謝っても謝りきれないようなことが行われていたことを知らなかった同D)

(ジュパンス秋号から)

機関紙6 もくじへ

憲法とわたし  6

戦争放棄の条項には驚いた

長田創一郎 (日本国民救援会所沢支部長・こぶし町在住)

 敗戦後、憲法問題がニュースとして登場したのは、近衛がマッカーサーと会見して、マッカーサーから憲法改正の示唆を受けた時からであったと記憶している。その頃は私も復員直後で、未だ敗戦直後の社会・政治情勢などには全く盲目だったので、当初は食う方が先で、憲法どころではないだろうと思っていた。しかし、これからすぐ政治犯の釈放が実現して、徳田球一氏らが「天皇制打倒」の第一声を発した時には、私も少なからぬショックを受けた。私はそれ以前から天皇などは自動スタンプだと言う考えを持っていたので、天皇などいなくとも、敗戦後の日本に何の影響もないと確信していたが、まさかこの日本で天皇制の存廃が、現実の問題として論議されるようになるとは、夢にも思いおよぱなかったからである。

 今から考えると随分色々な憲法改正試案が新聞・ラジオを賑わしたものだが、自由党・進歩党の改正試案などは、読むに耐えない時代錯誤の代物だったが、中でも政府の憲法間題調査委員会の、通称「松本私案」が最も反動的で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」をただ「神聖」を「至尊」と言い変えただけという、あまりに人を馬鹿にしたやり方に無性に腹が立って仕方が無かった。

 社会党がその結成大会で「天皇陛下万歳」を三唱したというニュースにも驚かされたが、その「新憲法要綱」なるものも「主権は国家に在り」などという訳の解からぬ不得要領な文章にガッカリした。その内に憲法研究会案、日本共産党案(骨子)、高野岩三郎案、等々が相前後して発表されたが、しかし、その中で日本共産党案(骨子)と高野岩三郎試案が天皇制を認めない点で一致しているのが嬉しかった。特に高野案はハッキリと大統領制を打ち出している点で特色があり、私は高野案を一見してこれ有るかなと、思わず膝を打った程である。だがこの時点では、戦争放棄には全く思い及ばなかったが、終局的には憲法研究会の試案が、GHQに採用される事になるであろうと予測していた。後に「政府案」なるものが発表された時は、何よりも戦争放棄の条項に驚いた。

 この後、憲法改正の主導権を握って、反動的な日本政府の尻を叩き、現行憲法の定に日本政府を踏み切らせたアメリカが、その翌年には早くも憲法から民主主義の骨抜きにかかるとは、神成らぬ身の知る由もなかった。

 現行憲法は当時の反動的政府にして見れば確かに押しつけ憲法である事は明らかである。だがそれは反動階級から見ての事であって、我々人民から見れば、敗戦によってえた貴重な宝物である。

 今、我々は戦前に比較して、はるかに多くの自由を保障されているが、反動階級は隙あらばこれらを奪い返す事に憂き身をついやしている。特に第九条は眼の上のタン瘤である。しかし一旦彼等の憲法改悪の妄動を許せば、再び戦前のように一切の自由が抑圧された、息も継げぬ社会となり、行き着く処は戦争、それもアメリカの為の戦争に動員されるのだ。我々は今こそ一斉に立ち上がり、反動の企みを粉砕して、日本の平和主義を真に実りあるものにしなけらばならない。それは我々の将来の世代に対する責務である。

機関紙6 もくじへ

会員が語り継ぐ、それぞれの戦後 3

何よりも大切なのは平和

坪井俊二 (緑町在住)

 昨今の昔の学友たちの集まりで「皆おんなじことを、よく喋るなあ」という話が出た。私も多分その一人、この認知症の初期症状から出戻ろうと注意しているが、何度でも繰返さなければならないこともある。この間の総選挙の結果、小泉政権だけでなく、前原民主党も衣の下の鎧をはっきりと曝け出した。平凡だが何よりも大切なのは平和である。

 被爆六十年。あの八月六日朝、私はむくむくと立ち上るキノコ雲を眼底に焼き付けた。よくぞこの歴史の希有の一瞬に遭遇したものである。戦争の敗色濃厚だったこの時期、広島湾内の江田島にあった海軍兵学校では地下壕教室作りに早朝から懸命で、まるで炭鉱のように地下からトロッコに乗って上がってきたその時、原爆は広島市の上空で炸裂した。キノコ雲の下でどんな惨状が展開されていたのか、その日は知る由もなかった。ただ同日午後「敵は新型爆弾を使用したようだ」との学内通報が出された。男の生殖機能が冒されるから鉛の薄板を腰に巻いた方がよい、など今にして思えぱやや滑稽だが放射線禍を示唆する情報もいち早く流れた。そのあとのことは言うまでもない。

 敗戦、八月二十日、小型舟艇で広島市の湾岸に上陸、地獄そのものの焦土と化した市内を通り漸くにして国鉄広島駅に到着した。東京への復員は三十時間もかかった有蓋貨車であった。

 しかしながら、私の原爆への思いは一時風化したこともたしかであった。それは敗戦の年三月十日の東京大空襲を体験したことに起因したのだ、と思う。東京で一晩に十万人もの人々が焼死し亡くなり、見渡すかぎりの焼野原と化したことと記億が重なったからだ。つまり戦争をし敗ければこんな風になって当たり前、と東京と広島を同一視したことから起こった風化であった。それは原水爆についての勉強をし直すことで正されてゆく。

 若い頃、生活と家族のために我武者羅に働いていた時を除いて、1981年代から二十年余、毎年広島と長崎に行く。そして歴史は否応なく移り変わっていくことを痛感する。

 国際的だが草の根だけの大衆運動だった原水爆禁止世界大会に、今では大使級の国家の代表が直接参加し、多くの国家元首が激励電報を寄せてくるようになった。さらにグローバルな経済的視点から見た時に、核ミサイル防衛を呼号して宇宙にさえもそのシステムを拡大し、絶対的な軍事的覇権を確立したかに見える超強大国家アメリカが、その超強大軍事資産が重荷になりつつある。これらが巨大な負債に転化する日がすでに予見されると云えないであろうか。必ず破綻する日は訪れるだろう、と私は思う。しかしそのためには強力な人民的、大衆的な平和運動がどうしても欠かせない。

 マスコミ界とは無縁、すこぶる非文化的ホモ・サピエンスである私も、あらゆる分野での「九条の会」が力強く発展することが、核兵器のない平和な世界、人類の幸福を真に保障する歴史を編み出してゆくことを確信する。

機関紙6 もくじへ

私も会員です

「ききゅう」で歌っています

本間昭信 (中新井在住)

 一九四一年一月生まれ。戦争体験を記憶する最後の世代ではと思います。三歳の頃の都内世田谷での断片的な記憶の一つ、外出中に空襲警報が鳴り、高空にB29の機影を見て、急いで母親と家に戻って庭先の小さな防空壕に入ったことを覚えています。その後両親の郷里である新潟県の佐渡へ疎開、終戦の三ケ月前には、背が低く、近眼、片方の耳が難聴で丙種だった父親が徴兵されました。終戦は佐渡で迎えました。戦争が終わったと聞かされて、子ども心にも世の中がパッと明るくなった印象を持ったことも鮮明に覚えています。多くの犠牲者を出したあの戦争の中で、父親も無事帰還し、戦地で被弾負傷し身体中に鉄片が残っていた伯父がいたものの、近親者に戦死者がいなかったのは僥倖でした。希薄な幼児時の体験ではありますが、これが私の反戦の原点かも知れません。

 現在、産別の組合本部のパート書記、個人加盟労組の名目だけの書記長、「映画人九条の会」事務局員、出身労組OB会事務局長など、労働組合との縁もまだ切れていません。年金者組合組合員でもあります。四年前に中新井を終の住処と決め、都内杉並区から転居。同好の方々と「所沢映画フォーラム」という映画サークルを立ち上げ、日本映画にこだわってその復興発展のために、市民として何か出来ることはないか模索中。また、杉並在住の頃から下手の横好きで、混声合唱団で歌っていましたが、転居を期に地元の「合唱団ききゅう」に入団。若いリズミカルな歌声に、お荷物にならなければ良いがと思いながらも、あつかましく歌わせてもらっています。

機関紙6 もくじへ

「九の日」宣伝に21人が参加

 「マスコミ・文化九条の会所沢」は、総選挙の二日前の九月九日に、新所沢駅頭で、「憲法九条を守ろう」の街頭宣伝を行いました。当日は、機関紙の呼び掛けに応えた会員を含め、総勢21人が揃いの腕章を占め、「憲法九条を守ろう」のチラシ800枚を市民に配布しました。

 「会」の事務局長は冒頭に、「今度の総選挙の争点は、郵政民営化の是非を問うだけではない。八月一日に自民党の新憲法起草委員会が公表した、九条全面改悪こそ最大の総選挙の争点である。他にも増税、年金、暮らしと市民が直面している課題は山積しているのにかかわらず、小泉首相は何も語ってはいない。有権者は冷静に判断してほしい。二日後の選挙が引き続き憲法九条を守るのか、それとも戦争をする国を目指すのか、その選択に、この国の将来がかかっている」と、強く訴えました。

 次回(十月九日)も、新所沢駅頭で午後五時から、「九条の会」の宣伝活動を行います。あなたもぜひご参加下さい。憲法九条を守るために、一緒にビラをまき、マイクを握りましょう。

機関紙6 もくじへ

戦争と所沢(その2)

石田道男 (所沢労音会長 南住吉在住)

参考館(南倉庫)と所沢飛行場

 所沢のステーションビルの2階改札を出て西口の跨道橋の続きは、西部百貨店ワルツの2階入口だ。そこを入って、まっすぐに抜けると目の前に県道久米一所沢線がはしり、元の西武車輌工場がある。いま所沢の第4次総合計画(2001-2010年)で再開発事業の中心となっているところだ。駅周辺の「まちづくり」で、もっとも重要なブロックとなっている所でもある。ところが、ここはかつて60年前まで、陸軍航空本部にとって拠点のひとつとしての軍事施設であった。

 ちょっと100年ほどさかのぽつて、この駅周辺と所沢の戦時の状況を振り返ってみたい。川越鉄道の会社が、明治27年に国分寺一東村山間の営業がはじまり、翌年に川越まで全通している。機関車2両、客車12両、貨車19両が陣容だったという。開業当初は1日平均輸送人員は1000人ほど、輸送トン数も60トン弱。その中身は生糸、甘藷、茶というものだった。したがって、この周りは(久米稲荷林)は、江戸道と府中街道の西側で、桑畑と雑木林だった。それが明治37(1904)年の日露戦争を機に大きく変わってくる。

 ライト兄弟が、その前年に動力飛行機を空に飛ぱすことに成功したことなど、当時は「遠い国」の出来事でしかなかった。

 あの乃木将軍が苦戦した難攻不落の旅順要塞を視察するため、民間の山田気球製作所の気球2機が作戦に参加した。このとき日本で初めて航空部隊が生まれた。臨時軍用気球研究会である。気球隊は近衛旅団交通兵旅団のもとにあった。本部は東京府中中野町にあった。

 当初は、未発達の重い飛行機より、気球や飛行船の方が安定感があり、航空兵器の主力だと考えられていた。東京近辺の鉄道に便利な所沢が飛行場候補地として選ばれた。

拡張続けた飛行場

 こうして所沢町と松井村に対して用地買収が行われ、明治44年4月(1911年)所沢飛行場が完成、気球庫もつくられた。23万坪強(76万34平方メートル)。土地買収価格は、300坪(lOアール)当たり宅地300円、山林80円だったという。

 ここで初めてアリン、ファルマンの飛行が行われ、その後急速に軍事航空が発達してくる。飛行場は大正6(1917)年115万平方メートル、昭和11(1936)年53万平方メートル、昭和19(1944)年120万平方メートルの合計約365万平方メートルと拡張されていった。

 陸軍航空隊も、大正3(1914)年の第一次世界大戦中に、中国山東省で初めての実戦を経験した。大正4(1915)年、飛行中隊と気球中隊で飛行大隊がつくられた。それに伴い臨時軍用気球研究会は解散した。大正8(1919)年に航空本部の新体制を実施。大正10年2月、久米稲荷橋643番地付近一帯を買収。同年3月、中国山東省の青島ドイツ軍飛行場の格納庫を押収、鉄道で輸送して完成したのが、この南倉庫(写真上)である。

所沢、立川周辺に軍用機メーカー

 ここで軍用機飛行機製造のメカニズムが研究され、その後、石川島飛行機、立川飛行機、中島飛行機、昭和飛行機などの航空機メーカーが所沢、立川周辺に集まることになる。陸軍航空補給部支部、航空技術学校分教場、陸軍航空士官学校航空参考館として、軍用航空機分野の資料館として存在した。

 その後、西武が買い取り、復興杜として建築資材工場から車輌工場(昭和22年)へ発展させた。いまでも、この周辺の万年塀(写真下)をたんねんに訪ね歩くと「陸軍用地」の標石がある。格納庫の形もわずかに残されている。

機関紙6 もくじへ
トップページへ