機関紙7号(2005年10月31日発行)
岩崎貞明 (放送レポート編集長)
標題の問いについて、まず産業的側面から考えてみよう。放送のうち民放は、広告(CM)収入によってその経営を成り立たせている。2004年のテレビ広告費は2兆円を超え、もはや新聞広告費の2倍に達しようとしている。その広告費の大部分を拠出しているのは大企業などのスポンサーで、われわれ視聴者が直接放送局にお金を支払っているわけではない。テレビ局は常に視聴率の獲得ばかりを考えているが、それは視聴率の高低が広告費収入の多寡に直結しているからであり、資本主義経済の中で私企業として利潤を追求して何が悪い、と開き直っているようにも見える。
9月11日に投開票が行われた総選挙に際しては、ワイドショーもこぞって"自民党造反組vs刺客。の候補者争いを、面白おかしい見世物にしてみせた。また選挙期間中は、各政党が出稿する「政党CM」が事実上認められている。民放キー局は、8月下旬から9月上旬までのほんの2〜3週間に、それぞれ1〜2億円の「臨時収入」を得たという。報道機関として取材すべき対象である各政党(とくに自民・公明・民主)が「スポンサー様」になっていたのだ。これでは、各政党の政策を冷静に批判して、有権者に判断材料を提供するジャーナリズムのあるべき姿を放送局が体現することなど、望むべくもないような気もしてくる。
一方、受信料の支払い拒否・保留の増加が止まらないNHKは9月に「新生プラン」を打ち出し、民事裁判の手続きによる受信料督促などちちらつかせながら、経営の効率化、視聴者サービスの向上を訴えた。しかし、自民党議員らの関与によって日本の戦争責任をめぐる問題を扱った番組が改変された問題については、何の証拠も示すことなく「圧力はなかった」と強弁するばかりだ。放送免許と予算承認を政府・国会に握られたNHKは、視聴者よりも政治権力にばかり顔を向けてきた。免許を政府に握られている点は民放も同様だが、こうしてみると日本の放送業界は、NHK・民放とも構造的な「病理」に侵されていると言えよう。
楽天の株取得・経営統合提案に対してTBSは、ライブドアの不意打ちに遭ったフジサンケイグループ同様、「放送の公共性」を持ち出して買収攻勢をかわそうとしている。ならば、その放送局のほうにこそ、放送の公共性とは何か、公共性を意識した放送とはどのようなものなのかを、われわれ視聴者・市民が厳しく問い詰めてやらなければならないだろう。
機関紙7 もくじへ10月14日付けの東京新聞は「9条を世界の財産に」と題して、メトロポリタンWIDE面で、最近の「九条の会」、「9条連」などの活動を一頁を割いて詳しく報じました。埼玉県の95を含め、全国で3000を超えた「九条の会」の状況や結成十周年を迎えた「憲法9条--世界へ未来へ連絡会(9条連)」の市民運動の広がりを紹介しています。国会で憲法改正への動きが加速する中、「憲法九条の精神を国内外に伝えよう」との市民運動が全国で急速な盛り上がりを見せているとして、九条グッズ販売で財政を支える「九条の会・中野」やニューヨークのグランド・ゼロに憲法九条を英文で記したキルト(刺しゅう)を掲げ、首に折り鶴をかけ、浴衣で署名活動する横浜の「憲法九条を守る会」の写真もカラーで掲載しました。
また、国際的な活動も紹介し、「グローバルピースキャンペーン」(発起人・きくちゆみさん)は、都内で「日本に平和省を!」をと題する会を開き、米民主党下院議員から「米国の圧力で九条を変えてはいけない。米国こそ九条が必要」とのメッセージが伝えられたことや、東北アジア地域事務局を務めるNGO「ピースボート」は、8月15曰、世界の新聞に九条の意見広告を掲載する「グローバル9条キャンペーン」など、各地の取り組みを紹介しました。
機関紙7 もくじへ新潟を発ったのは9月5曰、7日にこちらに着きました。不在投票は済ませてきましたが、自民党の大勝というのは驚きでした。それに民主党が前原体制にかわり、憲法改正の動きがいっそう加速されると思われ、わが会の役割もさらに重要になったと思えます。
こちらでは、この一週間のあいだに、シラカバが一挙に黄葉し、ヤナギもそのあとを追ってもうその葉を落としてしまいました。カラマツの衣替えもまぢか、いよいよザラターヤ・オーセニ(黄金の秋)の始まりです。朝晩の気温はずっと10度をきっており、雪はいつ降ってもおかしくない日が続いています。ヤクーツクは自然体が室内暖房で管理されていますが、スチームが機能し始めるのはいつも10月はじめ、今が一番寒い時期(室内)にあたりますので、レインコートを着てこれを書いています。
ヨーロッパは一時期ほどの勢いがありません。ドイツ、フランスの失業者の増加、統合への歩みもブレーキがかかっていますが、この地域全体としてはアメリカに張り合う姿勢を失ってはいません。ロシアはそんなヨーロッパにエネルギー(天然ガス)を供給し、経済的結びつきを強めながら、より強い視線を中国、インドに注ぎ、アジアとの結びつきを強めています。そんな中で小泉首相はアメリカとの癒着、アジアの孤児としての地位に日本をより強く押しとどめようとしています。
日本は150年を周期とする大地震に揺さぶられるまで、目が醒めることはないのでしょうか。などと考えるより九月十一日の総選挙で日本を揺さぶるような結果を出せなかったのはなぜかということをもっと深刻に分析しなければならないかもしれません。
(現在、勝木代表は、ヤクーツク国立大学に教鞭をとりに渡航しております)
機関紙7 もくじへ「マスコミ・文化九条の会所沢」主催の「講演と、中国に遺棄された旧日本軍の毒ガス兵器による深刻な事故を記録した「にがい涙の大地から」を観る集い」が10月9日午後、所沢生涯学習センターで開かれ、市民・研究者など105人が参加しました。
集会講師に、『未来をひらく歴史』を日中緯三国の共同で編集した、梅田正己さん(高文研代表)が、「日中緯共同で近現代史の本を作って」と題して、講演をされました。憲法改正論議、小泉首相の靖国参拝への厳しい国内外の指弾や「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を採択させない運動が全国的に前進する中で、梅田さんは、「歴史認識には、1.歴史的事実についての認識2.歴史的事実についての解釈・評価について、の二つの側面があるが、事実は確定できる。それを共通認識してほしいから、この本を作った。
解釈・評価は、中・韓と日本では原爆、廬溝橋事件や台湾出兵など一つとっても国間で解釈・評価は異なります。日本の高校では、歴史を教えるのは明治までで、近現代は教えていない。だから、若者間の知識の差がおおきくなっている。
落差が大きければ対話は生まれない。この落差を埋めるのが、『未来をひらく歴史』です」と話したうえで、「自国と隣国の歴史に無知だった過去の過ちにきちんと謝罪して、誠意を持って中国、韓国に接していくことが必要、永く生きたものはもっと語らなければならない」と結びました。
また、『未来をひらく歴史』は、細菌戦・毒ガス戦と人体実験、南京大虐殺など、初めて知る事実に日本の高校生たちに大きな衝撃を与えている。日本が憲法九条を持つ意味をもう一度考えて欲しい、と訴えました。いまだ、日米の軍事条約は中国を仮想敵国にしていることや、60年前の戦争の後始末ができていないことが、この海南友子さん監督・撮影・.編集の「にガい涙の大地から」は、侵略戦争が大陸に残した蛮行をつぶさに伝えています。
終戦時に旧日本軍は毒ガス兵器を大量に中国東北部に放置したことから、相次ぐ事故で、一人が死亡、43人が深刻な後遺症を負うなど、60年後に、よみがえる悪魔の兵器・毒ガスに塗り替えられた人生をテーマにしたドキュメンタリー映画です。今年、日本ジャーナリスト会議の「黒田清JCJ新人賞」を受賞した話題作です。海外から、戦争加害者としての「歴史認識」を問われている時に、集会参加者105人は、「心に落ちる話」と「どっしりと重い映画」を観て、反戦・平和・憲法擁護の決意を新たにしました。
機関紙7 もくじへ大野 裕(小手指町在住)
私が生まれたのは昭和17年12月。開戦から一年経って戦況も雲行きが怪しくなり、大本営発表のニュースに作為が増えはじめた頃でした。もちろん乳飲み子の分際ですから戦争体験などは語ることができません。が、軍国主義一色の世相の中で、最初に口ずさんだ歌は軍歌、「轟沈、轟沈、凱歌が上がりやー…」、「金鵄輝くニッポンの、あいこでアメリカ・ヨーツロッパ…」などで、これらの軍歌は物心ついてもなお歌い続け、いわば私の愛唱歌となっていました。
私が5歳の春、ある事情から母と弟は父の単身赴任先の青森へと旅立ち、私は生まれ故郷の釧路に取り残され、祖父母に育てられることになりました。
親と引き裂かれた私を不欄に思ってか、祖父母は私を大変かわいがってくれました。風呂に入る度に「日本はかつて、一等国だったが、戦争に負けて五等国になりさがってしまった。お前たちの力で、再び一等国にもどしておくれ」と私に訴えるのが祖父の口癖でした。次第に私の心の中に「愛国心」が芽生え、今度また戦争が起きた時は軍隊に志願すると思うようになりました。軍国少年の始まりです。
昭和36年に大学の法学部に入学し、「憲法」と出会うまで、軍国少年は続きました。憲法の教授は明治憲法との比較や、軍国主義が台頭する経緯、日本のアジア侵略、当時の労働者の無権利、婦人の差別など、近代史の中で日本国憲法を位置づけ、前文から一〇三条すべてに解説を加え、それは丁寧な授業でした。高校時代の近代史を端折った日本史や社会科の授業に不満を覚えていた私には、砂が水を吸い込むようでした。「差別のない、平等で平和な国」をつくるのが私の使命と思うようになりました。しかし、軍国少年からは脱出できたものの保守的で右翼的な考えは26歳まで続きました。
今、私は憲法、とりわけ第九条を守り、生かす運動を自分のライフワークにしようと思うようになりました。残りの半生を賭けるに不足のないテーマだと思えるからです。
機関紙7 もくじへ石田道男 (所沢労音会長、南住吉在住)
県立航空公園の中に「少年航空整備兵」の像がある。昭和19年(1944)春、所沢飛行場内の建空神社参道に建立されたものだという。空を見上げる少年飛行兵(15歳-19歳)の操縦、通信、整備の協力の姿を表して作られたという。(彫刻は長沼孝三氏)
明治44年(1911)4月5日、日本で初めての軍用機が、所沢飛行場で飛んだ。高度10メートル、航空距離800メートル、滞空時間1分20秒。徳川好散大尉(後に陸軍航空士官学校長・中将)操縦のアンリー・ファルマン機だ。その前年、徳川好敵工兵(気球隊付)大尉と、日野熊蔵歩兵大尉が、フランス、ドイツヘ航空機の購入に行っている。所沢飛行場には、フランス製「ブレリオ」式単葉機、「アンリー・ファルマン」式単葉機、アメリカ製「ライト」式単葉機の4機があった。
外国から購入した飛行船、飛行機の分解、改造、製作の工場も所沢に作られた。ここで初めて作られたのが「会式1号」機(ファルマン式をもとに製作されたもので、徳川大尉の設計)。「会式2号」機〜「会式5号」機まで製作された。同じ年(1911)に、初めての国産飛行船「イ号軟式飛行船」が、所沢飛行場を出発、長距離飛行をしている。日本最初の戦闘機は「会式3号」機を改造した「会式7号駆逐機」(「沢田式力一チス駆逐機」ともいわれる)。
大正3年(1914)6月28日、第一次世界大戦が起こり、その年8月24日、所沢飛行場の軍用機4機が、ドイツ軍の占領する中国・青島(チンタオ)を初めて攻撃した。この時、所沢飛行場から解体した飛行機を牛車で所沢駅まで運び、廣島まで鉄道で輸送し、宇品湊から渤海湾内山東省の滝口桟橋に下ろした。軍用機は86回出動し、うち39回、敵の陣地を攻撃、爆弾44個を投下した。その後、大正7年(1918)8月のシベリア出兵にともない、所沢にあつた航空第1大隊から軍用機7機が出動する。その後も補強される。シベリア全面撤退は大正11年であった。
県立航空公園内に、ジャック・P・フォール大佐の像がある。大佐を団長とする46人のフランス航空教導(教育)団を大正8年(1919)〜大正9年4月まで所沢に招いて、爆撃戦闘訓練を行った。教導(教育)団は、飛行操縦、偵察、空中戦、射撃、爆撃、係留気球、航空機製造、航空写真、無線通信などを指導した。
大正11年(1931)5月1日、各兵科混合だった陸軍航空は独立した航空兵科に統一される。昭和2年(1927)気球中隊が千葉に移転。翌年、航空本部の技術部が、所沢から立川に移転。昭和4年(1929)陸軍飛行学校(所沢)の分教場を狭山、坂戸、高萩に開く。まさに所沢飛行場は、日本陸軍航空の中心であった。
昭和6年(1931)日本軍が満州事変を起こす。昭和7年(1932)日本軍が上海事変を起こす。アジア・太平洋戦争へ向かって国産機の開発、増産、兵器、兵備の増強へ進んでいった。
昭和9年(1934)2月1日、少年飛行兵の誕生。昭和12年(1937)7月7目、日本軍は日中戦争を起こし、中国侵略が全面戦争体制として取り組まれていく。昭和14年(1939)5月12日、日本陸軍とソ連軍との間でノモンハン事件が起きる。このノモンハン事件の戦争に所沢陸軍飛行学校の軍用機も参加している。昭和16年(1941)12月8日、日本はついにアジア・太平洋戦争に入っていく。
日本各地の飛行学校で教育と訓練を受けた少年たちは、敗戦までに4万5000人以上が戦場に送り出された。敗戦間際には特別攻撃隊として出撃している。沖縄では、300人近い少年兵が特別攻撃隊の戦死者となっている。
機関紙7 もくじへ中田千郷 (東所沢在住)
画家・ステンドグラス作家の中田千郷です。『9条の会・ところざわ』の呼びかけ人でもあります。
60年安保はほとんど覚えていませんが、おとなたちから『太平洋戦争』の話や『大日本帝国』社会の話はよく聞かされていました。また、小学校高学年の時に起こったキューバ危機をきっかけに世界に目を向け始めたような記憶があります。ベトナム戦争が拡大化・泥沼化の一途を辿りはじめ、非戦闘員を含む多くの人々が死に、または、元には戻れぬ体となっていった時代に高校生活を送っていました。多くの友人たちと作ったり歌ったりした反戦歌とともに過ぎた青春の日々です。
02年夏、ふとしたきっかけでレバノンのパレスチナ難民キャンプを訪れ、子どもたちへの美術指導をしました。このレバノンでの取り組みには翌03年も参加しました。この経験から、イスラエル建国によって国外に逃れた(追い払われた)難民たちの生活がどんなであるか、日本ではほとんど情報がないことを知りました。
その後、04年、05年はパレスチナを訪れて、イスラエルに虐げられているパレスチナの現実を見、人々の証言を聞きました。将来的には、現地とともに協力し合いながら、子どもたちや女性たちを支援するworkshopを発足できれば、と思っています。
パレスチナに必要なことはたくさんあります。平和・人権の回復・精神の平安・生活の保障・教育や医療・子どもたちの未来、等々、枚挙のいとまがありません。それを阻み人間としてのささやかな自由すら奪うイスラエル政府、それを助長させる一翼を担っている、わが日本の対外政策を憂います。世界各地で戦火に泣き、後遺症に苦しむ人々を尻目に、九条を変えようとする趨勢を「日本人として世界に恥をさらす」と感じています。
機関紙7 もくじへ私は、戦後50年から「核廃絶」を訴えて、宗谷岬から沖縄の「平和の礎」まで走りました。
戦後六十年の今年は、「核廃絶」と「平和憲法を守ろう」と訴えながら、東京から長崎まで走ることを計画したのですが、左膝が悪化して残念ながら中止しました。
未だ走っていない出雲街道や島根県・山口県の日本海や玄界灘も走る予定でした。
伴走者は1500名をこえました。一緒に走っていただいた方は、小学生から80歳の方々まで、現職警官、自衛隊員、実業団の選手までおりました。今年は、呼びかけは80団体にもなりました。
被爆して60年たっても被爆者は未だ30万人もいて毎年五千人もの尊い生命が失われています。
沖縄では米軍人による暴行事件や、実弾演習場の事故等後を絶ちません。1997年基地撤去をかかげて長崎から沖縄まで走りました。
東海村の原発事故で、2000年には竜飛岬から日本海沿岸を走り、新潟、福井県の四カ所の原発に対して操業中止を要請しながら広島まで走りました。山形県では保育園の園児たちの応援もあり、町長さんや議員さん、国宝のお寺のご住職も一緒に走っていただきました。
原焼で亡くなった方や戦没者に、「四国」「西国」二つの札所とも御霊の御英霊を祈って走りました。そして、「二十一世紀こそ戦争のない平和な地球」をと、祈願しました。
また、被爆者の健康祈願と、私を支えてくれ伴走者の健康も祈願したのです。
来年こそ「平和憲法を守ろう」と、走ります。が何でも、膝の故障を克服して、今年の分ま走ろうと思っています。そして、三回(3月、5月、7月)に分けるなど、計画を再検討して、長崎を目指すようにします。
第二回馬龍正雄スケッチ展は12月2日(金曜日)から11日(日曜日)「八時から二十時まで、木曜日は休み」場所喫茶店「心の風景」(狭山ケ丘東口駅前)
99年、恒久平和を祈願し、走りながらスケッチした四国札所八十八カ所など、100枚を展示します。
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