機関紙8号(2005年11月30日発行)


もくじ
自民党新憲法草案を読んで
米軍所沢通信基地・システムを近代化
読者のメディア批判
所沢の人 彫金家・岡部昭さんを訪ねて
憲法とわたし  8
戦争と所沢(その4)
私も会員です

自民党新憲法草案を読んで

「軍隊の保持」をなぜ明記するのか…

鴨川孝司 (こぶし町在住)

 自民党の新憲法草案を読んで、自民党の野望はここまで来たかという思いにかられました。軍隊を持つと憲法に明記するということがもたらすものはどんなものか、その端緒がすでに現れています。

 11月15日の「しんぶん赤旗」に、「官房長官沖縄新基地埋め立て権限知事から取り上げ検討」と見出しがあり、在日米軍再編に関する閣僚会議の初会合後、安倍官房長官が「『中間報告』に盛り込まれたキャンプ・シュワブ沿岸部への基地建設のため、埋め立て承認権限を県知事から取り上げる法的措置についても『幹事会で提言していくことになる』と明言しました」と書かれています。

 前日の朝日新聞には、朝日新聞が行った沖縄県民の世論調査ではキャンプ・シュワブ沿岸部への基地建設についての反対が72%(賛成15%)にのぼっていることを伝えています。住民が反対しようが、権限が政府になく知事にあろうがアメリカと約束したことだからやるというごり押しの姿勢です。

 何のための知事の権限の取り上げでしょうか。イラク戦争で国際的に孤立してきているアメリカの戦争戦略を補うため、いつでも、どこへでもならず者の部隊を送り出せるようにするためです。そのためには、75%の住民が反対しようが、それは、ひとつの県のこと、国のやるべきことと違うのだとおごりきっているとしか言いようがない態度です。

 このような自民党の対応は憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるもの」「われわれは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努める国際社会において」からははるかに遠く逸脱しています。

 また一面では、沖縄県民に連帯して行動を具体化することの弱さ、日本国民の平和への潜在力が未だ目覚めきっていないからと思います。九条改悪を許さないという課題はこのような戦争推進策を現実に許さないたたかいと結びついているのだと考えています。
 アメリカがイラク戦争の強行を準備した2001年11月から2003年5月のバグダットヘの侵攻までのアメリカ政府の動きをつぶさに明らかにした700ページに及ぶ「攻撃計画PRAN of ATTCK ブッシュのイラク戦争」という本を手にしています。

 ここには、ブッシュが、ラムズフェルドが、フランクスがアメリカ国民の目をくらまし電撃戦争を準備した具体的内容が描き出されています。フセインを倒すこと、悪の枢軸と他国を名指しし、その実現のためにイラク国民が夜間爆撃や無差別爆撃の中でどのような苦しみを負うかなど一顧だにしなかったばかりか、それが世界の平和、アメリカの威信を守ることなのだと居丈高に叫ぶ傲慢な政治家たちの姿があります。

 このアメリカとイラク戦争後の世界戦略を一体となって進めていくというのが、今日本各地で基地再編をめぐって反対運動が起きている米軍再編問題であり、アメリカの政治家たちと結託した自民党が、軍隊を持つことを憲法に明文化させ、戦争を出来る国にする動きを強めているのだということをはっきりさせなければなりません。

 イラク戦争は今日の戦争というものが、軍事力のとてつもない発達の中で壊滅的な破壊力を有し、被害の深刻さは計り知れないものとなっていることを教えました。

 曵光弾やスーパー・エリオット・ミサイルをテレビでみているのとちがって、幼児にまで癌の発生がつたえられ、幾世代にわたる障害が残されるもので、どこかで被害を限定したものにするなどできなくなっているのが今日の戦争であることを見せ付けたのです。

 憲法九条に「軍隊の保有」を明記することの現実的意味を深く明らかにして、私たちの運動を情勢にかみ合う力を持ったものとするようもっと深くもっと広いものにし、21世紀にふさわしい運動を進めていきたいと思います。

自民党「新憲法草案」のポイント

▼前文から侵略戦争への反省、平和的生存権を削除、「国、社会」支え守る責務
▼戦力不保持と交戦権否認の九条二項を削除し、自衛軍の保持、軍事裁判所の設置を明記
▼自衛軍は自衛のほか「国際的に協調して行われる活動」に参加
▼「公益」「公の秩序」で人権を制約
▼国民のプライバシー、知る権利、環境権などは政府の努力規定にとどまるなど不明確な内容
▼政府規定の根拠となる政党条項を新設
▼憲法改正の要件を緩和し、段階的連続改憲を目指す内容

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米軍所沢通信基地・システムを近代化

米本土から遠隔操作可能に

 米空軍所沢基地(管理部隊・横田第377通信中隊)が、米大統領らによる核部隊に緊急行動メッセージ(EAM)を伝える通信機能の近代化計画「スコープ・コマンド」の対象になっていることが、このほど分かりました。

 この計画は米国防総省の統合相互運用試験隊報告書(2004年2月発行)によれば、所沢など世界に配置された14の短波地上通信局を結ぶ短波世界通信システム(HFGCS)網を「最高技術水準と最新式のコンピュータ化制御技術」で近代化を進めるものです。

 これは、日本平和委員会の平山武久理事が米国防総省などの文書を入手して、確認したものです。FAMは、「高度に組織化されたメッセージであって、核戦力のC2(指揮・管制)において第一に使用される」(05年7月25曰付けの米統合参謀本部議長指令)という核戦略システムの一つです。HFGCSは、大統領や国防長官などと核攻撃部隊を結ぶEAM(緊急行動メッセージ)が、地上局要員の手を使わずに、米本土からの遠距離操作が可能になると言われています。所沢通信基地は横田基地の送信機能をもち、受信基地である大和田通信基地(新座市)と一体運用されています。

米軍再編とリンク 遠のく全面返還の願い

 短波の通信施設は「テロ攻撃」で破壊されても、高価で復旧に時間のかかる通信衛星にくらベアンテナ構造が単純で安価、短時間で復旧が可能です。同基地は、これまでも老朽化した送信用アンテナの更新、非常用電源の燃料タンクの新設など基地増強が進められています。住民からの要望で東西連絡道路を建設するために、国が実施した「電波障害調査」は「米軍通信施設の任務遂行能力に悪影響がある」と、報告しています。

 強引な憲法改正の動きと岩国、キャンプ座間、辺野古の基地建設と、自衛隊・百里基地への米軍訓練移転など、国内の米軍再編とリンクしていることは明白です。これでは、市民念願の基地全面返還が遠のくばかりです。

平井明美市議会議員(日本共産党)の話

 スコープ・コマンドは四つの大きな役割があり、最も重要なのは、衛星通信ができないとき大統領が行う「緊急行動メッセージ」として使用される「核攻撃指令」の直接の通信を送る機能です。これは、飛行中の航空機の地上局での電子メールがたやすく使え、電子メールと短波無線で世界中に配備された部隊に対す日る指揮・統制通信を効果的に使えるものです。また、地上局要員の手を使わずに米本土(アンドリュース基地)からの遠距離操作が可能になります。現在、従来のとんぽ型ではない短波通信用の送信アンテナに変わっています。大和田基地がいまだに核攻撃指令機能をもっており、連動する所沢の通信基地も核攻撃システムの一翼を担っていることが明白です。9月の市議会で、基地機能の危険な変化を市民へ情報提供するよう市長に求めましたが、「それぞれの基地の自治体の置かれている状況や環境により情報収集に違いがある。東京防衛施設庁をとおして相互の信頼関係のもとに情報収集に務めている」など従来通りの答弁でした。

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読者のメディア批判

小林好作(北秋津在住)

 みなさん、日頃のご活躍に敬意を表します。会報を毎号ていねいに読んでいます。総選挙の残念な結果で、たちまち改憲、日米軍事基地の強化、弱者への大増税が全面に出てきました。病人を抱えるわが家にも、介護保険の改悪による負担増がのしかかってきました。

 さて、NHKは9月、テレビ、ラジオを通して「新生プラン」を大体的に発表、「放送の自主自律」を主張しました。しかし、その一方でどのような「不公平」をやっているかを紹介しましょう。

 総選挙の公示日、午後7時の総合テレビニュース「与野党党首に聞く」を見ました。小泉総裁15分、岡田代表11分、神崎代表9分、志位委員長・福島党首各6・5分、綿貫代表5分、田中党首4・5分の放映でした。すでに衆議院は解散しているのですから、各党とも議席数はゼロなのにどうしてこのような差をつけるのか理解できません。

 同日午後8時45分からの教育テレビ「手話ニュース」でも、自民・民主各1分以上に対し、公明、共産党などはいずれも30秒以内でした。

 投票日前日の総合テレビ午後7時のニュースで「党首の選挙戦を追う」を特集しました。その前半の各党首への時間配分は小泉12分、岡田11分、神崎6・5分、志位5分、福島4分、綿貫、田中各2・5分です。

 こうした不公平の根拠はどこにあるのか知りたいものです。NHKがいかに政権党に肩入れし、二大政党制に期待しているか伺えます。同じNHKが「自主自律」を主張してもまゆつばものです。「公正中立」な「放送」を建前とするならば、まずここから正してもらいたいです。

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所沢の人 彫金家・岡部昭さんを訪ねて

作るものに、巡り会えることが喜び

 「マスコミ・文化 九条の会 所沢」には、市内にお住まいて、文人、美術、映画、工芸などの分野で活躍されている大勢の方が加入しております。今回は、山口にお住まいの、彫金家・岡部昭さんを訪ねて、金属板から、金づちとタガネだけで、レリーフを生み出す労苦をいろいろ、お聞きしました。岡部さんは、祖父も父も彫金家の家に生まれ、1961(昭和36年)年、日展工芸部初入選、以降連年入選22回。現在は光風会常務理事に就任されています。

▼所沢にお住まいになり、何年になりますか。

▽引っ越してきてから、8年かな。それまでは、石神井にいました。最初のアトリエを石神井に作り、そこが東京都の再開発に引っかかり、所沢に転居しました。育ったのは、文京区の道坂の生まれです。

▼私も、父親が青森から上京して、駒込で育ちました。お屋敷町にある六義園は塀を乗り越えて、タダで入り遊んだ思い出があります。三井団地が出来たときからですか。

▽いや、三井団地はもっと古いのですが、石神井の駅から見える高層のマンションのところが前の住まいでした。昔は、みんな平屋でどこも空が広く見えました。遺坂から、父は都電で美校に通い、母も同じ都電で第一高女に、そこで知り合ったようですね。

▼これだけの作品や道具があると引っ越しも大変てしょう。

▽そりゃもう、大変でした。

▼彫金家とお呼ぴしてよろしいのでしょうか。

▽そうですね。昔とは違ってきましたが。

彫金の原点は灌頂幡

▼彫金の歴史は古墳時代までさかのぽるといわますが。

▽ギリシャとか、中近東に彫金の原型があるのです。金は叩くとくっつく性質があります。簡単に板になってしまいます。その金の板に少し模様を付けたり板にいろいろ加工して、女性が着飾ったものが、レリーフのはじめではないでしょうか。

▼ギリシヤ展を見に行ったら、そういうものが沢山ありました。あれが彫金のはじめなのですね。

▽そうですね。日本に渡ったのは仏教と一緒でしょうね。法隆寺の灌頂幡(かんちょばん・写真)が日本の彫金の原点です。材質は黄土版といって、銅と亜鉛の合金です。一枚の板を透かし彫りをしたものです。少しずつきりぬいたものです。仏様の周りを飾り付けたのです。

▼最初は渡来人の技術。

▽そうでしょうね。昔は大変でしたでしょうね。これ、銅の固まりを溶かしているのです。それを割らないようにして作っていくのは、これは大変な仕事です。最初の板を作るだけでも…。仏教の財力が豊富だったから、できた仕事です。金けしもかけています。柔らかい金を上から塗りつけています。最初は光っていたのでしょう。

▼金箔ですか。

▽いや、それよりも厚いものです。塗ったものを焼いて水銀を蒸発させると金だけが残ります。仏教の力が衰えて、鎌倉時代になると、灌頂幡が吹き流しのようなものになってしまいます。灌頂幡は作らずに布になってしまいました。彫金は武士の刀の柄や蕪菁(かぶと)のレリーフに変わっていきます。

▼家彫り、町彫りとの名前を聞きますが。

▽それは、職人さんの仕事で、キセルや根付けなど、身近な仕事をしている人が大勢いたのですが、みんな食えなくなっています。依頼されて作る職人さんもいなくなりました。昔は美術家仲間も職人仕事がいくらでもあったのですが、いい思いをした人もいたようです。芸者屋に入り浸ったり。機械が物を作るようになってからは、ダメですね。職人さんの作るものは高くて、手が出なくなりました。

宇宙工学にも彫金の技

▼岡部さんは二代目ですか。

▽いや、三代目なんです。祖父も父も彫金家です。昔はレリーフも小さかったのですが、私の代から、こんな大きな物を作るようになりました。本当は絵描きを志したのですが、日展に出したら入選してしまって、それからは…。外国にいる息子が彫金に興味があるようだが、勧めません。この道は食えませんから…。戦後、結核がどんどんひどくなり、清瀬で入院を断られたほどですが、奇跡的に治りました。学校は東京農工大に進み、馬の解剖もやりました。筋肉、骨格を良く知っていましたので、馬を金属で作りました。玄関に飾っています。ブナの森も最初は小さいものでした。それが、だんだん大きくなって…。できあがってみると面白ですね。最近、やっとブナらしくなりました。美術家といのは、作るものに、巡り会えることが最大の喜びです。

▼このアトリエ以外に「ブナの森」は、どこで会えるのですか。

▽そうですね。東洋英和小学校や味の素文化センターにも、飾ってあります。近くでは、武蔵野市立吉祥寺美術館のは、永久の預かりということで、まああげてしまいました。アトリエを持つからプロになれると言われますので、あのころ、一番安かった練馬に作りました。家賃を払わずに済みますから、企画してくれる友人がいまして、五十歳ごろから、個展を開いて、毎回、大小30点ほどの作品を出しています。絵画は美術として確立したものですが、彫金には、安いとのイメージがつきまとい、型抜きで作るのですかと、個展で的はずれな質問も出るくらいです。何回も私の個展を見て、買い求める人もいます。そんな高いものではありませんので、女房も苦労したようです。このように、一枚の金属板から、つなぎ目のない、花瓶も作れるのですよ。これは、金属に熱を加えてすこしずつ曲げ作ったものです。

▼瀬戸物と違い、絶対に壌れませんね。

▽これも今では、失業です。こういう技術はロケットの頭を作るようなことで生かされていますね。

▼若い人に一言。

▽病気から立ち直り、好きなことをやってこれたのも、戦争がなかったからです。戦争は絶対いけません。憲法を守りましょう。

岡部昭さんのプロフィール

1927年、文京区動坂に生まれる。彫金家覚弥(東京美術学校彫金家一期生。メトロポリタン美術館日本部主任を務める)を祖父とし、彫金家達男(東京美術学校彫金家卒、日展審査員)を父とす。1947年、東京農工大(旧制)獣医科卒。その後父より彫金を習得し、光風会研究所中央美術研究所で美術の基礎教育を受ける。1961年、日展工芸部初入選、以後連年入選22回。2004年、.光風会常務理事に就任。

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憲法とわたし  8

「五月の樹」

鈴木太郎 (詩人・中新井在住)

五月の風にゆれる一本の樹よ
緑の葉は空にひろがって輝く
人はだれも愛し愛される
 それは樹のように生きること
 まっすぐに伸びる心を育てること

風雪に耐えた一本の樹よ
新しい色彩のなかで育むいのち
夢はだれも語りあうだろう
 それは樹のように生きること
 いのちの証をその胸に刻むこと

大地に根を張る一本の樹よ
朝の光にきらめいて季節を告げる
人はだれも希望に満ちている
 それは樹のように生きること
 年輪の大きさをその手に感じること

心のなかで育む一本の樹よ
歴史の中で確かめる五月の樹よ
いまさわやかに風に鳴れ
いま太陽に向かって燃え上がれ

 三年前に「五月の樹」という詩を書いた。憲法をイメージに、「うたのためのうた」を意識したものである。残念なことに、まだ曲はつけられてない。したがって、まだうたわれたことはない。詩の書き手のひとりとして、「憲法」のために、なによりも「九条」のために、できることは何かといえば、詩を書くことしかできない。その思いでつくった作品であった。

 いま、「九条の会・詩人の輪」の事務局長という任にあたっている。「詩人の輪」は「九条の会」のアピールに賛同して昨年10月に結成され、分野別の「九条の会」では、いちばん早いスタートだった。一年を経て全国の詩人800名が参加している。そして、「輝け九条 詩人のつどい」を二回開催することができた。「戦争をする国」にしないために、これからも多彩な声を集めていきたいと思っている。

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戦争と所沢(その4)

石田道男 (所沢労音会長、南住吉在住)

敗戦と占領

 所沢市域の敗戦前後の人口は、約45,O00人(約8000戸)。1931年(満州事変)以降、1945年(敗戦)までの所沢出見の戦没者は1311人。人口の約3%弱が、この戦争で死亡し、六戸に一人の割合で戦没者を出している。(所沢遺族連合会編「所沢市戦没者遺族名簿」)戦没者の平均年齢は、26.8歳。まさに若者が中心。私の血縁でも4人が戦没者となっている。

 昭和20(1945)年8月15日。日本はポツダム宣言を受諾し、連合軍に降伏した。

 その一ヶ月後、9月12日に、米陸軍第5970部隊第13航空通信隊が、所沢に進駐。その後、11月には米陸軍97師団1180技術工兵隊と、同第97師団第771工兵隊が来て、この部隊が翌年統合され、第43建設工作大隊として、昭和32(1957)年4月まで、全国の基地の改修、新設工事を行った(主に北海道、青森、宮城、山形、東京)。

戦車など山積み、ここから戦地に

 同じく11月には、すでに97師団386部隊憲兵隊も進駐し、第97師団第3013兵器隊もきている。この部隊は、所沢兵器廠(オーデナンス)から、昭和37(1962)年、所沢兵站廠(ロジスティカル・センター)と発展していく。在日米軍の東京・横浜とともに三大兵器廠だった。

 1950年代は、兵器廠の下請け会社としてビクター・オート株式会社が、基地北西部分につくられ、東南アジア地域の米軍供与兵器の解体・修理・再生を行っていた。ちょうど、現在の美原小・中学校や体育館のあたりで、野天に無数の軍用自動車や戦車などが山積みされていた。西武鉄道の引き込み線が、現在の弥生町のあたりから基地内に敷かれて、朝鮮戦争やインドシナ紛争、ベトナム戦争へ、ここから兵器、物資として送られていった。

 米軍は国有地の所沢飛行場、300.8ヘクタールを整備するために、入間川から橋ぐいが浮くほどの100万トンともいわれる砂利が、大型トラック5台から10台が一班になり、10数班のトラックが連続して毎日運行され、巻き上げる土ほこりで、道沿いの市民は非常に迷惑をした。

 また、軍用トラックによる市民の被害は大きく、交通事故の死傷者も多く出ている。所沢市役所の幹部の一人も幼児のとき、御幸町駅ガード下の曲がり角で、遊んでいた5,6人と共に被害(死傷者)を受けている。

市民はただ見守るだけ

 進駐してきた米軍兵士の横暴は、今の沖縄のように、民家に土足で侵入して、女性を暴行をしたり、金品の強奪などもあった。一時期、治安や生活に不安と恐怖があっても、進駐軍、占領軍ということで、ただ黙って市民は見守るだけだった。町には英語の看板を掲げる店も多く、パンパンと呼ばれる米兵相手の街娼も、所沢だけで672人(昭和27年岩岡又四郎氏調査より)もいた。また、基地内の軍事車輌による農地への油の流出は、雨水と共に神米金、中富、下富、三芳村や大井町までの畑に被害を及ぼした。

朝鮮戦争が勃発

 基地内に働く労働者は、ビクター・オートで約2000人、オーデナンスなどを含めると昭和36(1961)年6800人にも達した。全駐労もここで生まれた。また、昭和26(1951)年ビクター・オート労組の分裂をはかったレッドパージが行われた。朝鮮戦争のなかでの反対闘争は、当時のモスクワ放送のニュースにもなった。

 私は当時、日本共産党所沢細胞群委員会機関紙「所沢新聞」にかかわっていた。日刊でガリ版刷り1000部近く発行していた。昭和25(1950)年6月の「マッカーサーへの質問書」事件で、編集幹部が逮捕され軍事裁判にかかった。その後に、編集長代理を務めたが、発行禁止となった。しかし、次々に反戦・平和の共闘新聞を発行した。政策違反、プレスコード違反などと、やたらに政令が発令され、警察予備隊が発足したのも1950年であった。

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私も会員です

新米の隠居生活者です

山本 衛 (久米在住)

 1941年7月石川県の農村生まれ。戦争中の記憶はほとんどありません。敗戦間際に東京の伯母が二人の従姉妹をつれて疎開してきていたとのとですが、記憶にありません。1947年に満州から叔母と四人の従兄弟が引き揚げてきました。本当は五人兄弟でしたが、引き揚げてくる途中で男の子が一人亡くなったとのこと。満鉄に勤務していた義叔父が引き揚げてくるまでの一年間一緒に生活しました。従兄弟たちと思いきり遊んだ楽しかった小学校一年生から二年生にかけての一年間は良く覚えています。

 石川県はほとんど戦災にあっていませんので、現在も古い街並みがあちらこちらに残っています。

 終戦直後は、農家といいながら、採れた米はほとんど供出させられてしまったらしく、じやがいもややさつまいもを多く食べさせられたように思います。ほとんどの人が栄養失調で、多くの子供達は青鼻を垂らし、大人も胃下垂の人が多かったように思います。今では、こういう人はほとんど見かけません。

 それでも、他家を訪問するときのお土産は、大抵お米や野菜でした。買い出しの人達にも野菜等の食料を分けてあげることができましたから、都会の人達に比べれば随分と恵まれていたと思います。

 平和を守ることの重要性は、労働組合活動などを通じて理解していたつもりなのですが、今回の選挙で自民党が圧勝し、海外で戦争ができる国へ向かって改憲の動きが活発になる可能性をひしひしと感じ、ますます憲法九条を守る戦いの重要性を感じています。

 これまで厚生省や厚生省の関係団体に勤務していましたが、今年八月末に退職し、隠居生活に入りました。これまでと違い、毎日が自由な時間という条件を生かして、何かお手伝いができればと思っています。


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