機関紙11号より
少し古くなったが、朝日新聞が発行する月刊「論座(二月号)」で、読売新聞主筆・渡辺恒雄氏と朝日新聞論説主幹・若宮啓文氏の、「共闘宣言」と題した対談が話題を呼んでいる。渡辺氏といえば、なうての改憲論者として知られるが、学生時代に二等兵で召集され、奴隷的に酷使された、自らの戦争体験から、「戦争責任の所在をはっきりさせ、加害者である軍や政府首脳の責任の軽重を問うべきだ」と、正論を吐いている。さらにほこ先を靖国神杜に向け、「靖国神社本殿の脇にある、遊就.館がおかしい、軍国主義をあおり、礼賛する展示品を並べた博物館を、靖国神杜が経営しているのだから、そんなところに首相が参拝するのはおかしい」とまで、言及している。さらに、読売新聞の主張をはっきりさせるため、05年8月13日の紙面から、靖国参拝問題を前に、戦争責任の所在を明らかにするキャンペーンを始めたという。重慶の無差別爆撃を得意げに展示しながら、中国に対して「首相の参拝に文句を言うな」は失礼な話(朝日・若宮発言)と、両者は軌を一にしている。
憲法改正ではすれ違いだったが、戦争も知らずに机上の空論で「改憲」を軽く叫ぶ若い政治家たちに読んでもらいたい対談ではある。右に傾きすぎた読売の論調を少し軌道修正したいとのことだろう。読売が小泉と距離を置き始めた証左でもあるが、渡辺氏の最終目標が、改憲にあるのは間違いないだろう。その実現のために「過去の清算が不可欠」との認識ではなかろうか。坂本弁護士が集会で発言したように、「ならば、読売は改憲論調をやめろ」と言いたい。
(K)
桂 敬一 (立正大学教授) 機関紙9号より
新聞・テレビが、姉歯秀次元建築士らによるマンション建築などの耐震性偽装事件報道に明け暮れているが、その問題を追及する視点や方向性には、納得がいかない。端的にいえば、なぜ国の責任を第一に追及しないのか、と指摘せざるをえない。
北側一雄国土交通相が表に立って、国として被害者に対し、危険な建物から退去し、安全な賃貸物件に住み替えたりするのに要する費用を援助する---公的支援を行う、などと述べると、それをそのまま素直にマスコミがいっせいに報ずるのは、どうみてもおかしい。また、自治体が職権によって、倒壊のおそれのあるマンションの使用禁止を命じ、居住者に退去を促すのを、当然のことのように報じるのにも、抵抗感を覚える。
国や自治体がこのような「支援策」を早々と講じるのは、いってみれば、責任逃れではないか。まごまごしているうちに震度5以上の地震がきて、耐震偽装物件が倒壊、死者や怪我人が出たならば、それこそ逃れられない責任問題が浮上するからだ。
国、自治体の本来の責任とはなにか。建築基準法が1998年、「改正」され、「民間開放」の名のもと、建築確認制度の実施過程は事実上、民間検査機関に任せられることになった。しかし、これら検査機関は国または都道府県が指定した法人だ。また、その監督は各自治体が行うことになっているが、それら全体に対する最終的な監督責任は国にあるというのが、制度上の関係だ。
そして、国や自治体が、建築確認制度の維持や実施にこれほどまで無責任になっていられる事態を招いた本当の原因、建築基準法の「改正」こそ、国が負わねばならない最大の責任だ、というべきであろう。
血友病患者が被害者となった薬害エイズ事件を思い起こす必要がある。医薬品の開発・製造許可を監理する薬事法の所管に責任を負っていた当時の厚生省薬務局は、危機の進行に際して同法を適切に運用せず、怠慢・不作為に終始し、あまつさえ製薬業界と深い癒着関係にあった。それがこの事件の大きな原因となっていたことは、いまは争いようのない事実として一般に認識されている。
今回の事件も、多くの人の生命と生活が、国が当然負うべき責任を果たさないがために、重大な危機にさらされるにいたった事件、と受け止め、これに対しては、まず国にしかるぺく責任を取らせ、そのうえで国家補償を講じさせていく、という方向での解決を追求していくのが筋なのではないか。
いってみればBC級の容疑者、アネハだけではさすがに間がもてず、では本当の『犯人」、黒幕はだれかと、コンサルタント会社の大物、国会証言の場で罵詈雑言を発するマンション販売会社のボスなど、キャラの立った人物につぎつぎと焦点を移し、マスコミは事件を面白おかしく報じていく。これでは、本来問題とすべき点、解決を求めていくべき方向性は、ますますぼかされてしまう。国は安心して「支援策」の中身を小出しに発表、被害者を助けている振りができる。被害者はたまったものではない。それでは暮らしが立たないと強くいえば、ゴネ得だと、世間から白い目でみられたりすることにもなる。
そして、アネハの報道がくる日もくる日も大きく操り返される陰で、サマワの自衛隊駐留再延長、立川・防衛庁官舎ビラ配り事件に対する東京高裁有罪判決、小泉首相の「ツルの一声」政策決定・提案の数々など、危ないニュースが小さな扱いになり、その問題点が隠されたままになっていく。なんでこんな状態がつづくのだろうか。
マスコミ・ウォッチ もくじへ小林好作 (北秋津在住) 機関紙8号より
みなさん、日頃のご活躍に敬意を表します。会報を毎号ていねいに読んでいます。総選挙の残念な結果で、たちまち改憲、日米軍事基地の強化、弱者への大増税が全面に出てきました。病人を抱えるわが家にも、介護保険の改悪による負担増がのしかかってきました。
さて、NHKは9月、テレビ、ラジオを通して「新生プラン」を大体的に発表、「放送の自主自律」を主張しました。しかし、その一方でどのような「不公平」をやっているかを紹介しましょう。
総選挙の公示日、午後7時の総合テレビニュース「与野党党首に聞く」を見ました。小泉総裁15分、岡田代表11分、神崎代表9分、志位委員長・福島党首各6・5分、綿貫代表5分、田中党首4・5分の放映でした。すでに衆議院は解散しているのですから、各党とも議席数はゼロなのにどうしてこのような差をつけるのか理解できません。
同日午後8時45分からの教育テレビ「手話ニュース」でも、自民・民主各1分以上に対し、公明、共産党などはいずれも30秒以内でした。投票日前日の総合テレビ午後7時のニュースで「党首の選挙戦を追う」を特集しました。その前半の各党首への時間配分は小泉12分、岡田11分、神崎6・5分、志位5分、福島4分、綿貫、田中各2・5分です。
こうした不公平の根拠はどこにあるのか知りたいものです。NHKがいかに政権党に肩入れし、二大政党制に期待しているか伺えます。同じNHKが「自主自律」を主張してもまゆつばものです。「公正中立」な「放送」を建前とするならば、まずここから正してもらいたいです。
マスコミ・ウォッチ もくじへ岩崎貞明 (放送レポート編集長) 機関紙7号より
標題の問いについて、まず産業的側面から考えてみよう。放送のうち民放は、広告(CM)収入によってその経営を成り立たせている。2004年のテレビ広告費は2兆円を超え、もはや新聞広告費の2倍に達しようとしている。その広告費の大部分を拠出しているのは大企業などのスポンサーで、われわれ視聴者が直接放送局にお金を支払っているわけではない。テレビ局は常に視聴率の獲得ばかりを考えているが、それは視聴率の高低が広告費収入の多寡に直結しているからであり、資本主義経済の中で私企業として利潤を追求して何が悪い、と開き直っているようにも見える。
9月11日に投開票が行われた総選挙に際しては、ワイドショーもこぞって"自民党造反組vs刺客。の候補者争いを、面白おかしい見世物にしてみせた。また選挙期間中は、各政党が出稿する「政党CM」が事実上認められている。民放キー局は、8月下旬から9月上旬までのほんの2〜3週間に、それぞれ1〜2億円の「臨時収入」を得たという。報道機関として取材すべき対象である各政党(とくに自民・公明・民主)が「スポンサー様」になっていたのだ。これでは、各政党の政策を冷静に批判して、有権者に判断材料を提供するジャーナリズムのあるべき姿を放送局が体現することなど、望むべくもないような気もしてくる。
一方、受信料の支払い拒否・保留の増加が止まらないNHKは9月に「新生プラン」を打ち出し、民事裁判の手続きによる受信料督促などちちらつかせながら、経営の効率化、視聴者サービスの向上を訴えた。しかし、自民党議員らの関与によって日本の戦争責任をめぐる問題を扱った番組が改変された問題については、何の証拠も示すことなく「圧力はなかった」と強弁するばかりだ。放送免許と予算承認を政府・国会に握られたNHKは、視聴者よりも政治権力にばかり顔を向けてきた。免許を政府に握られている点は民放も同様だが、こうしてみると日本の放送業界は、NHK・民放とも構造的な「病理」に侵されていると言えよう。
楽天の株取得・経営統合提案に対してTBSは、ライブドアの不意打ちに遭ったフジサンケイグループ同様、「放送の公共性」を持ち出して買収攻勢をかわそうとしている。ならば、その放送局のほうにこそ、放送の公共性とは何か、公共性を意識した放送とはどのようなものなのかを、われわれ視聴者・市民が厳しく問い詰めてやらなければならないだろう。
マスコミ・ウォッチ もくじへ桂 敬一(立正大学教授) 機関紙2号より
5月9日、モスクワで開かれた対独戦勝60周年記念式典に小泉首相も出かけた。式典には旧連合国首脳に交じり、厳しい歴史認識のもと、謝罪と和解への道を歩みつづけてきた敗戦国、ドイツの首脳も参加した。旧敵国同士が戦争という愚行を顧み、戦争を廃絶させるための将来の方策について、ともに語り合える場がそこには成立していた。
日本はどうか。村山内閣は第二次世界大戦の日本の戦争責任、とくにアジアに対する責任を認め、謝罪の言葉を述べた。小渕内閣は、国立戦没者祈念施設の建設計画構想を明らかにした。日本政府もようやく謝罪と和解に向かう道を歩きだすのかと思われた。だが、靖国参拝にこだわる小泉首相はその道を逆転させ、中国、韓国の「反日」気運をいたずらに強めるばかりだ。いったい小泉首相はどの面下げてモスクワにいけたものなのだろうか。中国はじめ、アジア各国首脳と式典で出会って、恥ずかしくないのだろうか。
ところで、5月9日の読売新聞・社説「参列する小泉首相の微妙な立場」は、首相のモスクワ行きを批判した。だが、驚いたことにその視点は、「旧ソ連に対する日本とドイツの立場はまるで違う。ドイツはソ連に侵攻したが、日本は、不可侵条約を一方的に破ったソ連の侵攻を満州で受けた側だ。さらにソ連は、日本兵士多数を捉え、シベリアに抑留、強制労働に使役した。だから講和条約もまだ締結できない。そんなところに日本の首相がなぜいく必要があるのか」とする体のものなのだ。しかし、満州は日本が中国東北地方に侵略し、植民地にしたところではないか。このように、第二次世界大戦に関わった日本の責任全体について考察を加える視点が、完全に欠落している。
「護憲」とはなんだろうか。「九条」の視点に立てば、戦争につながる改憲を目指しながら、同時に平気でモスクワの式典にもいける小泉首相の支離滅裂が、はっきりする。また、これを諫める改憲派メディアの言説が、歴史認識についてはさらに輪をかけた無責任なものであり、いかに歴史の反動を渇望するものであるかも、歴然とする。
私たちの新憲法=現行憲法は、いまようやくモスクワで実ろうとしている反戦平和を目指す国際的合意の内容を、いち早く60年前に先取りし、明確な指針とするものである。この指針を護る「護憲」とは、憲法を丸ごと静かに抱きかかえ、じっと動かず、声も立てずにいるようなことではない。指針に従って積極的に行動し、小泉首相の支離滅裂を止めさせ、読売新聞の無責任な政治宣伝をはね返していくことこそ、真の「護憲」なのだ。
マスコミウォッチ もくじへ島田三喜雄 (元東京新聞社会部次長) 機関紙2号より
戦後60年、今年の憲法記念日の各紙社説を読むと、「改憲派」に引きずられた形の「護憲派」の論調の衰弱が表面化した。「朝日」は〈「改憲」イコール「改革」という図式の中では「護憲」は「守旧」となりやすく、どうも分が悪い〉〈憲法改正の賛否を問えば「賛成」が過半数を超える。焦点が絞られないまま、漠とした世直し気分が改憲論を押し上げている〉という。こうした前提の上に、〈憲法を改めることで暮らしよい世の中になり、日本が国際的にも尊敬されるなら拒む理由はない〉という改憲容認にたどりつく。
「毎日」は、戦後60年の間にたまった矛盾や不都合の整理、現憲法と現実の大きな乖離、不整合は放置できない問題だ、として、〈憲法改正を考えるにあたり、最低限踏まえておくべき考え方3点を確認しておきたい〉という。改憲を前提としての提案だ。
改憲の旗を振り続けてきた「読売」は、〈読売新聞の世論調査では、憲法改正に賛成の国民が6割を超えている〉〈94年試案以降、読売新聞が、時代の変化を見据えて、憲法問題を提起してきたことは正しかった、と自負している〉〈もはや、新憲法への、歴史の流れを逆流させることは出来ない〉と大見得を切る。しかし、昨年のような大型社説ではなく、通常の2本立て社説で、論点もこれまでの繰り返しばかり。これは不安感の告白ではないか。
「産経」主張は大型で〈「不磨の大典」に風穴を まず9条と改正条件の緩和〉と、勇ましい。しかし内容は、自民、民主両党の国家観、憲法観の隔たりに苛立ちを隠せない。そこで、〈国民の平和と安全を守るための九条などの見直しと憲法改正条件の緩和という緊急かつ必要なものに絞って、段階的な改憲を視野に入れるときではないか〉とする。憲法の全面的な見直しが当然だが、「三分の二」勢力がまとまれるかどうかが心配。改正条件を緩和してしまえば、いくらでも変えられるというのがホンネだ。
「日経」は、〈憲法改正をめぐる政治プロセスが着実に前進している〉〈衆院憲法調査会の多数意見はわたしたちの提案と方向性は大筋一致する〉というから、その内容は明らかだ。 在京6紙の中では「東京」だけが、健在。1、2、3日の連続社説で、〈憲法を定着させること、活かすことです。「憲法の理念に現実を一歩ずつでも近づけるのが政治だ」と作家の小田実さんが言っていますが、全く同感です〉(2日)と、論旨明快だ。
河野慎二 (元日本テレビ社会部長) 機関紙2号より
58回目の憲法記念日。日本を再び戦争する国にしてはならないとする市民の行動が全国で繰り広げられた。メディア、特にテレビはこうした市民の熱い願いや行動をどう伝えたのか。国民の公共財である電波をあずかるテレビ局の報道は、市民の願いに答えるものであったか。
5月3日の日比谷公会堂。5千人を超える市民が憲法9条を守ろうと、公会堂につめかけ、会場に入りきれなかった2000人が場外のモニターを通じて集会に参加した。集会後の大手町までのデモを含めて、各地の「9条の会」の盛り上がりを裏付けていた。
しかし、当日のテレビ報道はこうした盛り上がりに、完全に背を向けていた。NHK午後7時の「ニュース7」は日比谷の集会を30秒程、改憲派の集会を30秒程、申し訳程度に伝えた。ニュース価値は低いとの評価を示す事実上の「その他ニュース」扱いだった。民放ニュースも五十歩百歩。中には全く報道しない局もあった。
こうしたテレビメディアの姿勢は、市民の期待を完全に裏切るものだ。憲法記念日の報道については、「放送の公共性」は弊履のごとく棄て去られたのである。
もちろん、憲法改正問題の報道に努力を見せた局もゼロではない。
TBSの「筑紫哲也NEWS23」は、4月末から5月上旬にかけて、3回の特集を組んだ。4月26日には憲法9条を、27日には憲法24条を特集した。憲法9条については、「(再び戦場に送って)若い人に無謀なことをさせるな」と訴える三木睦子さん(9条の会)を紹介。男女同権を定めた24条の特集では、筑紫キャスターが同条生みの親であるベアテ・シロタ・ゴードンさんにインタビューした。ベアテさんは、24条が当時の日本政府から天皇制と並んで最も激しい反対に遭った「秘話」を明らかにし、憲法の今日的な意義を強調した。紙面の都合でこれ以上紹介が出来ないが、NHKや日本テレビ、フジテレビでも単発番組では憲法を特集していた。
今後のポイントは、メディアが憲法問題を継続して報道することである。わたしたち市民一人ひとりもテレビ報道をよく視聴し、必要に応じテレビ局に抗議や注文をつけて行くことが重要である。