機関紙21号 (2007年2月26日発行)
「九条の会」が全国で6000を超えました。事務局によると、地域・分野別の「会」はこの1年間で約2000増えて、月平均約200の「会」が生まれています。「憲法九条を守ろう」の運動が全国津々浦々に広がっています。
05年7月から新所沢駅頭で始めた「九の日行動」もすっかり定着してきました。2月9日も、10数人の会員が駆けつけ、「改憲手続き法(国民投票法案)の成立は許してはならない」と記されたそろいのゼッケンを着用して、この日は、「所沢子どもたちの未来と教育を考える会」の人たちと一緒に、道行く人にチラシ、会報を配布して、「九条を守る」運動への参加を呼びかけました。
「九条守る」決意を込めてマイクを握った東所沢に住む会員は、「安倍首相は5月3曰の憲法記念日までに、憲法を変えるための国民投票法案を成立させたいとのべ、改憲へのなみなみならない決意を示しています。成立を狙っているこの法案は、戦争を放棄した平和憲法を戦争ができる憲法に変えるための改憲手続き法にほかなりません。法案じたいが憲法違反の疑いがあります。公務員や教育者が主権者として憲法改定に賛成・反対して運動することを規制し、最低投票率を定めず有権者の2割の賛成でも改憲できるようにするなど、現憲法が定めた改憲のきびしい成立要件を無視したものです。さまざまな問題をもった法案を民主党との水面下のすりあわせによって成立させることは断じて許されません。私.たちは、市民のみなさんと一緒に幅広い運動をつくり九条改憲を許さないために全力を尽くします」と語りました。
こぶし町に住む男性は「厚生労働省とは国民の健康から働くルール、社会福祉等国民の生活の最も大事な問題を所管する省ですが、そこの大臣が女性を『産む機械』と発言したのですから大臣の資格がないと罷免の声が起きるのは当然のことです。それを美しい国とは規律を知る凛とした国と説教する安倍首相がかばって職務を全うさせるというのですから、美しい国があきれていると思います。美しい国のもう一つの大きな問題は、戦後レジームからの脱却を言う首相が日米同盟の強化を掲げる問題です。美しい国とは世界に信頼され、尊敬され、愛されるリーダーシップのある国と説教していますが、嘘をついてイラク戦争を引き起こし、多くのイラク国民に悲惨な被害を与え、世界からも孤立し、アメリカ国民からもイラクからの撤退を突きつけられ中間選挙で敗北しているのに増兵を強行したアメリカと一体となって、憲法を改正して戦争のできる国にしようという国がどうして美しい国と世界の人は見るでしょうか」と訴えました。
山口に住む「所沢子どもたちの未来と教育を考える会」から参加した女性は、「法案の一つ一つについて、内容を吟味することなく法案が通ってしまった。多くの教育関係者が教育基本法の改正に反対する声明を出し、日弁連も反対するアピールが出されました。それにもかかわらず強行採決されて.しまいました。私も国会周辺の抗議集会に参加し、ひどく落胆しました。憲法を守っていくことを前提にしたのが、教育基本法です。それを変えたいという政府の願いはかなったが、教育現場に持ち込みさせない闘いはこれからです」と語りました。
この日、13人の会員が、チラシ、機関紙200枚を1時間で配布しました。「会」では、毎月9曰、新所沢駅西口で午後4時から、宣伝活動を行っています。ぜひ、ご参加をお願いします。
もくじへ塚崎公美(子どもたちの未来と教育を考える会・上山口在住)
数学者・大道芸でおなじみのピーター・フランクルさんが、新聞の求人広告ぺージで面白い発言をしていました(1・28朝曰新聞)。「目指すべきは幸せな国だ」というのです。別に安倍首相にあてつけて、しゃべっている訳じゃないでしょうが、われわれにはさっぱりピンとこない、首相のあの「美しい国」のキャッチフレーズより、はるかに今の日本にはぴったりな呼びかただと思います。
首相は、こんどの国会の施政方針演説でも「美しい国」を、さかんに連発していましたが、多くの国民はもううんざりです。収入滅、負担増、雇用不安、生活不安、労働強化……まずなにより安心・安全・安定が先決。「美しい国」にすることはけっこうだが、そんな気持ちになれるのは、まだ先の先というのが、一般的な国民感情でしょう。国民の多くが望んでいるのは、「美しい国」ではなく、まずは安心・安全の「幸せな国」だと思うのです。各種世論調査で、安倍内閣の支持率が落ち続けるのも当然のことでしょう。
ところが安倍さんは、国民の関心など気にする風もなく、ひたすらにタカ派の道を突き進んで行きたいらしい。さきの演説でも首相は、「いまこそ、憲法を頂点とした、戦後レジーム(体制)を、原点にさかのぼって、大胆に見直すべき時にきた」などと、大上段に振りかぶったことを言っています。「戦後レジームの大胆見直し」とは、いうまでもなく、現行憲法に、大ナタをふるうということでしよう。憲法に大ナタで、「美しい国」ができるのなら、それもけっこうなことです。
暮れの国会では、多数の教育関係者(教師・学者・研究者・弁護士)、父母等の強い反対にもかかわらず、教育基本法が強引に改悪されてしまいました。「古くなった」「占領下に作られたもの」だから改めるのだ、というのがもっぱらの理由でした。しかし、古いもの、占領下にできたものは何でもダメだと言うのなら「婦人参政権」「労働組合活動」「言論の自由」、「週休」「残業割り増し」などなど、すべてダメなのでしょうか?
説明はさっばりないまま、国会では多勢に無勢、全面的に改変された、新しい教育基本法が作られてしまったのです。この「旧」対「新」の数基法について、考えるべき点はいろいろありますが、ハッキリ言えるのは新法では、従来なかった「教育」へのシバリ(国家統制)が、ギュッと入ったということでしょう。この点にこそ、首相が掲げる「戦後レジームの大胆な見直し」の、一つがあるのです。
昨年9月東京地裁で、「日の丸掲揚・君が代斉唱の強要」は教育基本法10条違反で違法、かつ違憲だとする判決が出され、マスコミも大きく報道しました。裁判所は、国旗掲揚・国歌斉唱にともなう職務命令違反の処分取り消しと慰謝料支払いを、東京都に命じたのです。都側はこの決定を不服とし、直ちに控訴したため、事件は係争中です。控訴審は新教育基本法の下で争われるだけに、雲行きがだいぶ怪しくなってきました。
新しい教育基本法によった教育関連法作りに、いま政府は大わらわです。首相直属の「教育再生会議」の第一次報告書には、「ゆとり教育の見直し」「学力向上→授業時数10%増」「いじめ児童の出席停止制」「不適格教員の排除」「教員免許の更新」などなど、多岐にわたる“再生”意見項目がならんでいます。これまでになく抑圧的、強制的な雰囲気が色濃く感じられます。
すでに4月に予定されている全国一斉学力テストも、“再生”路線の一環ですが、安倍首相が熱っぼく語る「教育再生」には、実はネタがあります。彼がまとめた『美しい国へ』で書いた、イギリスの「サッチャーの教育改革」がそれです。この“改革”でサッチャーは、まず、それまで英国の教育で一般的だった、奴隷労働利用の“自虐的英国史”を見直したと言うのです。安倍さんはこれに、わが意を得たりとばかりに飛びついたらしい。
20年ほど前に実行に入ったこの“改革“は、教育への市場競争原理の適用として、一時注目されました。しかし昨今では、競争教育による弊害が目立つようになり、全面的修正の動きが広がっていると、マスコミは伝えています。それでも、タカ派首相は、思い込んだ既定路線を、どこまでも突き進んでいきそうです。
ほんらい、楽しい喜びであるはずの教育に、強制・統制の競争原理はなじみません。独走気味の首相の行き着く先にあるのは、混乱と破綻です。学力世界一で広く知られるフインランドの小・中学校では、15〜20人の小人数学級編成が一般的。テストも宿題もほとんどなく、協力が期待されても競争はない、子どもはのびのびと育てられているようです。教科書の国家検定もなく、その採択は学校現場の権利。教師の仕事は授業に集中することで、後の時間は自由が保障されているという。下敷きのモデルにするのなら、イギリスではなくフィンランドにしてほしかった。
首相の唱える「憲法を頂点とした、戦後レジームの見直し」ではなく、今こそ「憲法を頂点とした、戦後政治の見直し」が求められていると思います。戦後一貫して、憲法の「尊重、擁護」義務を怠りむしろ形骸化を進めてきた政治的責任こそ、追及されなければなりません。古くなったからどうのといった理屈は不要です。ニューヨークの国連本部の庭に立つ、像の土台に刻み込まれた、世紀前からの予言を、改めて銘記したいと思います。
剣(つるぎ)を鋤(すき)に打ち変え 槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す 国は国に向かって剣を上げず 人は戦争のことを再び学ばない(旧約聖書イザヤ書2・4)
もくじへ鈴木彰の「晋ちゃんの選んだ人は皆コケる」
もくじへ戦争の被害者であり加害者でもある奥村和一さん(82歳)が、“日本軍山西省残留問題“の真相を解明しようと孤軍奮闘する姿を追うドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」の上映と池谷薫監督(写真左)と奥村和一さん(写真右)のトークのつどいが2月17日、小手指公民館分館で行われました。会場満席の240人が山西残留問題の調査・究明に情熱を注ぐ奥村さんの姿に感動を受け、戦争ができる国に改憲を急ぐ、安倍首相のもとで、戦争の不条理、真実を知ることが、大事になっていると再認識しました。
終戦当時、中国の山西省にいた陸軍第一軍の将兵59000人のうち約2600人が、ポツダム宣言に違反して武装解除を受けることなく中国国民党系の軍閥に合流して、4年間共産党軍と戦い約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました。
奥村さんらは、当時、戦犯だった軍司令官が、責任回避から、軍閥と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張しています。これに対し、国は「自らの意志で中国に残り、勝手に戦争を続けたもの」と、元残留兵らが求める戦後補償を拒み続けています。
映画は、靖国神杜に初詣にきた若者と奥村さんとの出会いから始まり、戦後60年目の8月15日、靖国神社でルバング島からの生還者・小野田さんに「あなたは、あの侵略戦争をどう考えているのか」と、詰め寄ると、小野田さんが、「宣戦の詔書を読め」と、桐喝するところで終わっています。
初年兵教育の最後に中国人を刺殺した現場に60年ぶりに立つ奥村さん、公文書館で残留を指示した文書類を発見するなど、その真相に迫るカメラワークは観るものに「戦争はやってはいけない」と、雄弁に語っていました。
トークで奥村さんは、「日本に帰り、子どもが生まれ、その子が、可愛ければ可愛いほど、俺があやめた中国人にも子どもがあったろう。親を殺された子どもがどうやって生きていったかと考えると、謝らなければならない思い、その思いはだんだん深まっていった」と語っていました。
もくじへ佐藤治郎(花園在住)
いま、私が言いたいことが山ほどある。それを「ひとことで書け」と言われれば、次のような言葉になってしまう。
「ささやかな希望であれ、遠大な志であれ、とにかく自分のおもいは長く持ち続けて手離すな」そして「世の移り変わりは長い目で見きわめよ」と。
ところで、人類が家族や国家などを創り出すのに、どれだけの時間がかかったのだろうか。それは百や千の単位ではなく、万あるいはそれ以上の単位で数えられる長い年月を必要としたのであった。われわれ人類は、10年や50年前を振り返って、世の中はたいして変わらないものだ、などと早合点してはいけないものだと私は考える。
中国の古典に「愚公、山を移す」という説話があるらしい。庭さきから見える山が目ざわりだというので、他に移そうとした。愚公の計画を聞いた隣人はその無謀さを嘲笑うした。おもむろに愚公は「私の時代にできなければ子が続け、さらに孫がやり続ければ、山を移すことができるだろう」と答えたのである。
たまたま、これを聞いた親友のKさんは「いまでは、子や孫の手をわずらわすこともなく、志を同じくする人びとが統一戦線を組めば山を動かすことができたろうに」と言う。私は親友のセンスの良さに、感服することしきりなのである。
藤代洋子(美原町在住)
中国で始まった戦争から太平洋戦争終結まで。誕生から小学校卒業まで。それが昭和一桁後半生まれの私の子供時代。まさに戦争を軸とした教育、「欲しがりません、勝つまでは」で育ちました。
1945年(昭和20年)敗戦の曰を境に、がらりと変わった世の中は、ようやく自我を意識し始めた年代にとって、ただただ驚きの連続でした。周囲の大人も学校の先生も、一夜にして違う人間になってしまったかのようでした。
国定教科書の墨塗りなど、先生の指示に従い、自分の手でしていると、これは一体なんなのだ、という気持ちが湧き起こり、でも、その理由は誰にも聞けないと感じていました。命のあり様も人権も教育も日常生活も、否応なく一挙に一方向の流れとなって、自分も飲み込まれている、それが戦時下の日々だったからです。生きている中で起こる様々のことの意味は、すべて一度は自分の掌の上に乗せてみて、自分なりに確かめ、納得して行動する、それが私と同じ年代の人たちの考え方の特徴ではないでしょうか。
だからこそ、「憲法九条」だけは動かすべきではない、動かしてはならないと考えます。それでなくとも拡大解釈の現実は、きな臭さを増すばかりなのですから、せめて大本の枠だけは守られなければなりません。
この枠を外すのは、戦争だけでなく、やがて「平和」さえも風化させてしまうかもしれないことを恐れています。
鈴木太郎(「九条の会・詩人の輪」事務局長・中新井在住)
最近、ある人から自民党・中川秀直幹事長の公式Webサイト--トゥデイズアイの存在を知らされた。2007年1月4日のコピーを見せてもらった。
それは、「毎日」の1月3日付社説の引用から始まり、「この社説も含め、小泉政治を『劇場型政治』とする総括に、根本的な誤りがある。この総括の誤りが喜劇的な『劇場型政治』を産んでいる」と批判。そのあと、「今日では共産党ですら今年の参院選で憲法問題を争点にするといっている。共産党も、憲法間題は信念の決戦と受け止めているのだろう。自共は信念対信念の一大論戦を展開することになるだろう。しかし、民主党だけ憲法問題から逃げている」というのだ。さらに「復党間題は、首相主導による『美しい国づくり』、とりわけ憲法改正や教育改革に必要な勢力拡大だったのである」という。
この「本音」を見逃すことはできない。自民党が志向する憲法改正への信念と、憲法九条を守れという国民の信念とが対決する構図が描かれているのだ。
「美しい国」を逆に読めば、庶民の感覚では「憎いし苦痛」となる。これ以上の「苦痛」は真っ平ご免である。
鈴木康久(中富在住)
マスコミ・文化九条の会のみなさま、こんにちは。早いもので、もう2月の季節になってきました。今年は暖冬のため、桜も早く咲いてしまうのではないでしょうか。
そして、通常国会が開会され、論戦が始まりました。ところが、安倍内閣は、閣僚の不祥事が次々と出てきて、支持率も下降が続き、迷走しています。早くも週刊誌では、4月には「政権を投げ出すのでは」との憶測が出ています。私は、高齢者の生活をどう守っていくのかという課題を中心に活動している立場からすると、安倍内閣の高齢者いじめは絶対に許すわけにはいきません。
1月からは所得税の定率減税の廃止、6月には住民税の定率減税が廃止されます。また、毎年年金保険料が引き上げられます。
本当に高齢者にとっては、ふんだり、けったりです。私たちは、このような負担増を黙っているわけにはいきません。
昨年の11月には、全国市長会が、国に対して最低保障年金制度の実現を要請しました。私たちも、7月に所沢市長と懇談を行い要請したところです。年金月額8万円を国の負担によって受給させる運動を大きく発展させて、高齢者が安心して生活ができるよう、全力を揚げて頑張っていきたいと思います。
憲法改悪反対、安倍内閣の悪政を許さない大きな政治の流れを、二つの選挙の勝利で変えていきたいと思います。
もくじへ所沢の建設関連に働く仲間が1月25日(木)夜、「建設九条の会」結成式を埼玉土建所沢支部事務所で21人が参加して行われました。主催者挨拶を平河内所沢支部副支部長が行い、そのあと埼玉土建の組織拡大の大運動と続く地方選挙、参議院選挙のたたかいの中で「憲法を守ろう」「九条を変えるな」と声を掛け合い「九条署名」に取り組もうとの行動提起が確認されました。
結成までの動きと今後の展望について「九条の会」の担当をする山田執行委員からお話を聞きました。「名前を『建設』としたのは埼玉土建一般の組合員を対象とするだけでなく関連する建設の仲間にも一緒に運動に参加してもらうことを考えてのこと、個人参加ではなく組合運動のなかに位置づけて可能な運動を取り組もうとしているそうです。各分会で運動が出来ればいいのですが、今はまだそこまでは行かないかもしれない。地域の運動との関わりは活動する時間帯が一緒ではないので、難しい面はあるが声をかけてくれれば検討していいきたい」と語りました。当面は署名を中心に活動していきたいとのことでした。
労働組合活動と密着したところで、九条を守る運動を進める「九条の会」の発足はまた一つ運動が広がる大きな可能性を開いたと心強く思いました。
もくじへ安倍首相が国会の「所信表明」で美しい国とは大要「文化、伝統、自然、歴史を大切に、自由な社会、規律を知る、凛とした国、成長するエネルギーを持ち続け、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国」とし、これを自民・公明の与党で全力で進めたいとした。
美しいという単語は辞書には「愛らしい、きれい、さっぱりしている」を表すとあり、それを何もかも一緒くたにした首相が思い描く国の表現にまで広げると美しいとは遠く離れてしまうと思えるが、今はそれを問わないとしても、この「美しい国」論の中からは、国を支え成り立たせている人間が見えてこない。国のあり方としては国民が主権者であり主人公であるとは見ていないだけでなく、上から国作りしていくとの宣言である。
柳沢大臣へのかばい立てによって阿倍首相の言う美しい国がとんでもないものである事を垣間見せたが、進めようとしている改憲、日米同盟の強化は歴史の流れに逆行するもので、それを進める中では美しさではなく醜さを露呈せずにはおかない「美しい国」論であることを予感させる。(鴨)
もくじへ池田龍夫 (ジャーナリスト・元毎日新聞)
問題の文書は、72年6月にレアード国防長官が、攻撃型空母ミッドウェーの横須賀母港化や2隻の戦闘艦の佐世保への配備などを日本政府に認めさせるようロジャース国務長官に要請した書簡。昨年末に米国立公文書館で解禁された資料で、我都政明・琉球大教授(国際関係論)が入手した。書簡では、国務省側が核兵器を搭載している航空母艦を日本に寄港させる場合は日米両政府で事前協議の問題が生じることを心配したことに対し、国防長官は『事前協議は法的にも日米間の交渉記録で問題がないことは明らかだ。ライシャワー大使が63年4月に大平外相と話し合った際、核搭載船の場合は日本領海や港湾に入っても事前協議が適用されないことを大平外相も確認した。以後、日本政府がこの解釈に異議を唱えてきたことはない』とつづっている。
また、核を搭載せずに航空母艦を配備することができないか、という国務省の提案に国防長官は『それでは軍事的に意味がない』と拒否。結局、両長官のこの書簡から1年4ケ月後の73年10月にミッドウェーは横須賀に配備された。大平・ライシャワー会談の交渉記録そのものは明らかになっていないが、我部教授は『大平外相とライシャワー大使の密約のあった当時は米原子力潜水艦の寄港間題などで日本国内に論議が巻き起こっており、ライシャワー氏とすれば口頭でも確認しておく必要があった。書簡のやりとりを見れば、その後も米側が事前協議制度を何とか形がい化させようとしていたことがわかる』と話す。
60年安保改定時からの経緯を検証してみて、核問題が戦後政治を揺さぶってきたことが明らかになった。周期的に政治間題化してきたが、今度の北朝鮮核実験が投げかけた問題は一層深刻である。米下院・情報特別委員会が10月3日公表した報告書で「北朝鮮が核実験を行えば日本、台湾、韓国は自身の核開発の計画を検討するだろう」との警告を発したことを、東京新聞(10・13朝刊)が報じている。さらに「日本の核武装については、安倍政権もその意思がないことを強調するが、ドミノ現象は北東アジアだけでなく、イランを起点にして中東地域にも飛び火しかねない。『サウジアラビア、エジプト、シリア、場合によってはトルコまでもが核武装に走る可能性がある』と米シンクタンクCNSの部長は分析する。…半面、北朝鮮を核実験に追い込んだのは米国自身との皮肉な側面もある。ブッシュ政権はイラク、イラン、北朝鮮の『悪の枢軸』のうち、大量破壊兵器保有の裏づけを得られなかったイラクを攻撃した。核兵器を持たなければイラクの二の舞いになると考えた北朝鮮、イランを核開発に追い立てたともいえる米国。そんなねじれた立場で、いかにしてドミノ倒しを防げるか…」と、同紙は鋭く迫っていた。
前段で指摘した中川・麻生発言が、核拡散の引き金になるようだったら一大事である。二人の“核発言”は北朝鮮への抑止効果を狙っただけとの見方もあるようだが、果たしてそうだろうか、NPTを脱退して核実験を強行した北朝鮮外交に対抗して、日本がNPTを脱退することは国際信義上不可能なこと。「議論するのはいいではないか」と麻生外相が言い張っても、憲法九条・非核三原則・NPTの縛りがある現状で、性急な“核論議”は不毛であり、前向きな結論は導き出せない。例えば、「米国にならって、日本を銃社会にしよう」との問題提起をしたら“時代錯誤”との非難を受けるに違いないが、「北朝鮮に対抗するため、核武装について議論しよう」との発言も同様に愚かな発想ではないか。
中西教授が言うように、米国の核を日本に配備することが抑止力になるとは考えられない。“米ソ核均衡の時代”より複雑化した世界になったことに加え、追い詰められた北朝鮮のような国家は自暴自棄の戦術で抵抗する。従って、核抑止力が相手には通じないばかりか、却って暴発を招きかねない。この点につき、田中宇氏(国際問題評論家)は「核兵器をめぐるブッシュ政権の政策のもう一つの特徴は、イランや北朝鮮などの反米国を脅し、逆に核兵器を持たせてしまうように扇動した結果、世界で核保有しそうな国が急増し、従来の『核抑止力』が無効になってしまったことである」と指摘。さらに「日本人は、核兵器が抑止力を失いつつある今ごろになって、核武装したがっている。本当は『核兵器は抑止力が失われたので、もう全世界で核廃絶した方が良いのではないか』と主張した方が外交的に得策なのに、世界の変化が見えていない。対米従属の気楽さが、日本人を浅い考え方しかできない人々にしてしまった」と、日本外交の非力と構想力の貧困を糾弾していた(田中宇HP10・24)。
非核三原則は、「核艦船の寄港」によって「二・五原則」に変質しているが、本土への「核持ち込み」を許して「二原則」になったら、「非核三原則の国是」は解体の運命をたどる。この危機的状況を厳しく捉え、「核廃絶」を全世界に訴え続けることこそ日本の責務である。(了)
(「マスコミ九条の会」HPより転載)
もくじへ1月19日「9条の会・ところざわ」は、小田中聡樹(みやぎ憲法9条の会の世話人、東北大学名誉教授)さんを所沢に招き、「希望としての憲法9条(私たちは少数派ではない)」と題して講演会を開きました(写真)。
小田中さんは、講演の中で、「安倍さんの5年以内に憲法改定は、荒唐無稽とは言えないが、反対する人が多数いることを忘れている。賭のようなもので、成算はあるのか。9条を守る運動が進めば、国民投票でひっくり返ることもある。どうすれば若い人が運動に参加してもらえるかがカギだが、平和に対する意識は高い。9条改定反対は政治問題の臭いがして、敬遠するが、平和を掲げると若い人は集まる。入口はともかく、中味は9条を守るという、メンタリティを持っている。憲法とは、国のきまり。国民が主権者であり、その国民は人権をもたなければならない。明治憲法では、人権は法の枠内に制限され、人権より法が上に立っていた。絶対的な主権者は天皇だった。この結果、明治憲法下では、戦争の連続であったが、押しとどめる力は何処にもなかった。平和に暮らすのは、我々の権利であり、憲法の論理そのものである。自民党草案は改正ではなく、新憲法の制定である。許されることではない。しかも、国民の責務が強調され、自民党の狙いははっきりしている」と述べました。
さらに、「9条が改悪になれば、世界のいたるところに出兵することになり、首相の権限は拡大され、国会は空洞化し、国民の人権は根こそぎ無くなる。軍事力では、なにも解決しない。世界はすでに話し合いで解決の方向に向かっている。国家あっての個人は、自民党案の柱だが、国家は個人のためにあるもの、これこそ人間が獲得した最高のもので、どうやって形成していくかが問われる」と語りました。
最後に「世界に深刻な紛争があるからこそ日本国憲法が必要なのだ。人間の顔のある運動を積み重ねていき、自分の家族、子ども、孫まではたらきかけ飛躍的に運動を発展させることが求められる」と結びました。
「しんとこ9条の会」は、2月4日、大久保賢一弁護士を講師に、「新憲法制定と改憲手続法」と題して、憲法と朗読、音楽のつどいを開きました。
この中で、大久保弁護士は、「自民党のいう新憲法とは、憲法の「改正」ではなく、新憲法「制定」の押しつけであり、保守のクーデターの狙いがある。改正という聞こえの良い言葉を使ってはダメ」と述べたうえで、「新憲法が制定されたときは、戦争ができる国、国家が個人に優先する国、福祉が切り捨てられる国になってしまう。国会で憲法改正手続法の議論が行われようとしているが、ハードルを低くし、白票を除いた有効投票数の過半数という成立要件では、2割台の賛成で憲法改正が成立することになり、法案自体に問題点が多い。まだたたかえば、この悪法を阻止することができる」と語りました。
「草原の琵琶」の朗読やみんなで「ねがい」、「青い空」の合唱など、とてもなごやかな集会でした。
「国民投票法って何???」と題して、松井九条の会が、3月11日(日)午後2時から、松井公民館2階会議室で学習集会を開催します。講師は弁護士の山崎徹さん。入場料は無料です。
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