機関紙4号(2005年7月28日発行)
昭和20年8月15目、日本は終戦を迎えた。以来、マッカーサー元帥の厚木到着、降伏調印、占領軍の進駐など相次いだ。国民は恐怖と期待を胸に秘めながら新しい時代を迎えた。占領開始2か月後憲法改正の調査が始められ、戦争放棄を盛り込んだ日本国憲法が昭和21年11月公布され、国民の支持を得るものになり、民主主義の定着が始まった。終戦から60年。いまその憲法が危ない。会員が語り継ぐ「それぞれの戦後」を特集した。
藤原秀法 (山口在住)
終戦の時は北海道の北見地方の生田原国民学校2年生であった。
夏休みの宿題にクローバーの種をさかずき二杯採ってくるというのがあった。戦争で使う油をとるのだという。まだ、7歳の子供には大仕事であった。あの日枯れたクローバーの花をもんで、さかずき5分の1くらいとって帰ってきたら、大人たちが神妙な顔をしていた。敗戦を知った瞬間だった。これからは、種とりをしなくてもいいのかな?と思ったことを覚えている。
戦後の食糧難は北海道でも大変で、ごはんは米がほんの少しで、豆やジャガイモをたくさんまぜたものだった。
ある日、学校から帰って、何かの話の中で「ああ、ぼくも米のごはんが食べたいな」といった時のこと、母が真顔で「母さんが死んだら葬式で自いごはんを炊いてくれる。そしたらそれを食べな」といった。
私は、それから米のごはんがたべたいと決して口にしなかった。
谷口明嘉 (久米在住)
1930年生まれの私にとって、2005年は区切りの良い年です。
15年間、軍国主義の臣民少年として京城(現ソウル)で生れ、商家(材木店)でなに不自由のない当時としては贅沢ともいえる坊ちゃん生活を送り、空襲、機銃掃射・飛行場での勤労奉仕(赤とんぼの歌)等、戦時中の苦労はありましたが、「食う」ことに関しては、腹一杯食べていました。
8月15日敗戦、一転して9人家族の引揚げ者として、食うや食わずで、いろいろな事件に遭いながら、玉島村(佐賀県)の伯母宅へ転がり込みました。急激なそして極端な環境の変化のため「茄で蛙」にならなくてすんだのですが、祖母、父母、6人兄弟姉妹の長兄として、なにはともあれ食うことなしには生きていけない現実と、親戚はみんな農家で中学生はいなく、中学を続ける雰囲気ではなく3年中退で学業は終わりました。小さい時から本は大好きなほうでしたので、時々汽車で福岡へ行き、古本屋歩きをしましたが、カストリ雑誌の反乱するなか、17才のとき衝撃的な本2冊にあいました。
一冊は「共産党宣言」で、もう一冊は「パブロフの大脳生理学(条件反射学)」でした。
この二冊の本は、私の意識を根本から変えました。読み終わったときは、身体全体が天空に昇りそこから地平を見下ろしているような感覚を感じました。小君民から、小人民へ、「自前の頭を持っているのだから、自分の頭で調べて、そして考えろ」と、一瞬のうちに180度の転回が起こりました。
人間性にとってマイナスである軍人勅諭・大日本帝国憲法・教育勅語そして治安維持法。この四本の柱のもとで有事専制が明治に人工的に作りだした。これまたマイナスの「天子(現人神)天皇・大元帥」は、この二冊の本で、その「尊厳」は私の頭から完全に消去されました。そのあとには、マイナスかけるマイナスはプラスであるように、マイナスが大きいほどブラスは大きく、今、主権者として政府を縛る、日本国憲法と教育基本法が燦然と輝いています。
九条があってこその平和と戦後経済の発展でした。私は「もしあなたが、九条を変えたいとお考えなら、まず、幼い乳飲み子もふくめて、あなたの家族全員で『10日間、飲まず食わず』の体験をしていただいて、11日目に、これでも『戦争する国』にしたいとお思いでしたら、私は止めません」と話しています。
もうひとつ、「よその国に押し入って、そこの子供さんを親ともども殺せますか?『民主主義のため、国際貢献のためなら、私はいつでも殺すことが出来る』と自信がおありなら、私は止めません。よその国も、当然同じように考えるでしょうから、あなたの子供さんが『民主主義的』に『国際貢献の名』で殺されても文句はいいません、それでよけれぱ私はとめません」と話しています。
私の20%は侵略戦争の真只中でした、不正義はかならず滅びます。80%は、戦争をしない時代でした。妻と共に生き、孫が7人元気で学業に勤しんでいます、苦労はあったが平和でした。憲法九条は、今、孫たちの「命」のなかで生きています。孫の命と憲法九条は同じです。それを大切に護りきるのが、これからの人生だと思っています。
機関紙4 もくじへ永島顕一 (若松町在住)
私はある企業の送迎車の運転手をしております。毎日数十名の人たちを近くの駅まで送り届けるのが私の仕事です。私は今年で60歳になりました。送迎の仕事は私のような年齢の者ものにはちょうど良い仕事だと思っています。
もとより話し好きの私の性もあってか、車の中は話がつきません。政治のことから生活のことまで、つまり現世のことといいますか、話題はつきません。
そんな中でのある日のこと、70歳は過ぎた紳士然とした方が、世間話の最中に「私は被爆手帳をもっています」と発言されました。私はとっさに「どこで被爆されましたか」と聞きました。「長崎です」。その瞬間私は死んだ父に会ったような感覚を覚えました。といいますのは、私の父は長崎の原爆で爆死しました。それと同じ時に生きのびた人に会えたのは、私にとって初めてのことだったのです。
あれから60年、私は毎年、遺骨のない「父の墓」に手を合わせてきました。
いまこの文章を書くにあたり、世の人々に問いたいことがあります。原爆で多くの人が死んでいったことは、みんな知っている。被爆者のことも知っています。では、原爆で家族を亡くした遺族たちのその後を知っていますかと。
この60年のなかで、この遺族に光が当たったことは一度もないのです。
私は「だからどうかしてくれ」と言っているのではありません。「英霊」のおかげで平和があるとか、九条は時代に合わないなどと、歴史を省みない動きに対して怒りをおぽえるのです。
今年も8月がめぐって来ました。暑い長崎へ、墓参りに行ってきます。
機関紙4 もくじへ藤原絢子 (山口在住)
東武伊勢崎線に野洲山辺という駅がある。<>br 山辺国民学校には、界隈で一番と言われる大講堂があった。奉安殿という戸袋のような空間が、講堂の壇上正面にすえられていて、中には御真影(天皇、皇后両陛下のお写真)が納められていた。
全校児童が集められて儀式が行われるときに全員が中央正面に向かって最敬礼をする。
毎日清掃を怠らない。事あれば、命を賭けてお守りする、という任務が校長には課せられていた。
その奉安殿に突然視察に来た視学(今の教育委員)が案内せよと言う。
当時視学という制度があって、先生たちはその学校訪問に恐れおののいた。突然やってきてあちこち見て回る。
当時名校長の誉れたかかったM氏はとっさの機転で「しばらく、お待ちください。礼服に着替えてまいります」と言い、隣接する校長住宅に走った。奉安殿の挨に難くせつけることで日ごろの任務をはたしていた軍国主義の権化たる視学も、これには、まいってすごすごと引き上げていったという。
この話は、共働き教師であった父母から繰り返し聞かされた国民学校下での実話である。
礼服を着ての視察もないものだし、M校長の頓智に、視学の粋な計らいがあったのかもしれないと想像している。
今井俊夫 (緑町在住)
1927(昭2)年生まれで昭和っ子の走りの私が終生忘れ難い年といえば、1945(昭20)年。青春とは無縁の一八歳だった。
1月4日、ぺらの折詰め一個のおせちや乏しい餅も底を尽く。「欲しがりません勝つまでは」の戦時下でも正月くらい、もっと餅にありつきたい一心で、15歳の弟、12歳の妹を連れて群馬県後閑の知人宅を訪ねた。飽食の現代では想像もつかないほど、銃後の庶民は飢えとも戦かう日々を過ごした。
3月10日、B29、334機による前夜からの東京大空襲、無差別爆撃で下町壊滅、当時、平井の軍需工場に動員中の弟は、焼け残った総武線鉄橋を渡るとき、眼下の隅田川に折り重なる焼死体を見たショックを後日語った。東京を離れた日立では切迫感が少なかった。戦中派学徒動員世代の私は工事2年生で日立製作所多賀工場で潜水艦捜索用の音波探知機を作っていた。私らの二年先輩が学徒出陣組、5〜6年下が国民学校、学童疎開組である。死傷者12万、焼失23万戸の大惨事を大本営発表は「我が方の損害軽微」と報じた。
5月25日東京小石川白山の自宅が空襲て止めを刺され焼失、郵便て父から知らされた。不幸中の幸いは両親と弟全員無事で、豊島区高松の親戚の留守宅に転居とのこと。
6月10日、動員先日立製作所の中核の日立工場が一トン爆弾の空襲で壊滅。この日、祖母と妹が疎開していた宇都宮で泊まっていたため難を逃れ、翌日惨状を目撃、息を呑む。
7月19日、米機動部隊が室蘭、釜石に続き日立を襲う。艦砲射撃は校長官舎と寮玄関の植え込みを直撃。校長一家と下級生数名が即死。この時裏山に避難。焼夷弾攻撃で日立市街地は焼け野原となった。
8月15日、動員先の日立製作所も被災し、やる事もなく、食糧難の寮生活に嫌気がさして逃避行。祖母と妹の疎開先の宇都宮郊外で汗だくで防空壕補強に励む。正午「玉音放送」で終戦を知り呆然自失。当時の言論統制で地方ではポツダム宣言受諾への動きを知らなかった。8月6日の広島、8日のソ連参戦、9日の長崎と悲報が続き、いよいよ本土決戦、一億玉砕の一歩手前で生き残った安堵感と敗戦の虚脱感。終戦前後10年位の体験は記憶喪失者の如く定かでない。神風は吹かず、国も軍も国民を守れなかった。聖断は遅すぎた。二度と戦争は真っ平だ。戦争体験を風化させ、次世代への語り継ぎを怠った事を悔やむこの頃だ。
機関紙4 もくじへ方山みどり (松が丘在住)
イラクに自衛隊が派兵され、憲法九条が危険な状況にある中、何の力のない一主婦である私が自分でも何か出来る事はないか、憲法九条を守るためにどうしたらよいか考えていました。
そんな時、澤地久枝さんら、日本の知性と良心を代表する9氏がアピールを出し、「九条の会」が結成されたのを知りました。私は『これだ!』私が住んでいるこの町にも「九条の会」を作ろうと決心しました。
2人、3人と声をかけ、ようやく今年3月わが町に「九条の会」を立ち上げることが出来ました。会員はお隣の奥さん、犬仲間の人、おしゃべり友人たちです。本当にご近所さんです。大きな組織に入るだけではなく、自分の身近な人達から広げていきたいと思っていました。会では、講演会のビデオを観たり、憲法の学習をしています。先日の会では、一人の方が自主的に勉強会資料をまとめてきてくれました。「押しつけ論」や「戦力についての政府の見解」「自衛権」等々、そのおかげで議論が深まり、疑問に思っていた事なども、理解でき、内容の濃い学習会となりました。また、地域での具体的な行動として、全世帯に「九条の会」ができたことを知らせるビラ作りや、全世帯に賛同署名を取りに行くことを確認し合い、いま取り組んでいます。
私たちの会は、とても小さい会です(現在、会員七名)。このような小さな会でも、全国に、星の数ほどできていけば、必ずや、憲法九条を守りぬくことができるはずです。
子供や孫たちに、平和な未来を残すことは我々大人の責務です。これからも、粘り強く、そして楽しく活動していきたいと思います。
機関紙4 もくじへ長田武雄 (元編集者・77歳、美原町在住)
動員先の海軍の航空機工場で迎えた1945年8月15日、誰によってどう敗戦が告げられたのか、作業中止で宿舎に戻ったことしか思い出せない。その記億は空白のままだ。太平洋戦争勃発の朝、通学途上で感じた街の異様な静寂さが、今なお、はっきり刻まれているのに、である。
『わたしたちのアジア・太平洋戦争』の編集委員の一人、古田足日は陸軍造兵廠に動員され、「広がる日の丸の下で生きる」自らの戦時体験を語りながら、その日のことを「ぽくは松林のなかでその放送をきいたように思っている。その日は1945年8月15日、(中略)ぼくたちは泣きながら海に走りこんだ。真っ青な空、真っ青な海だった」こう書いている。長い戦争の重圧から解放された思いが滲み出ている。
まえがきで「日本は、今から70年あまり前の「満州事変」に始まるアジア・太平洋戦争を起こし、中国はじめアジアの国々とそこに暮らす人びとに大きな被害を与えました。また、日本の国民も大きな被害を受けました。(中略)今ならまだ間に合います。この今だからこそ」と、体験集に近いこの本の意図を古田は明らかにする。
例えば1巻「広がる日の丸の下で生きる」では、少年時代、その後.強まる軍国主義.日本軍はなにをしたか、の3章に分かれ、生々しい証言が並ぶ。さらに2巻、3巻と戦争が人々に何を与え、戦争に勝つためという号令が人々をどんな行動に駆り立てたか、そして戦争の渦に巻き込まれたアジアの人たちの叫びが聞こえてきて、修羅場が目に浮かぶ。
この『わたしたちのアジア・太平洋戦争』は、小学生中学年からでも十分理解できるようにまとめてある。だから意味がある。全体が総ルビで、写真・資料が大きく取り上げられ、各ページに脚注(本文下の解説)、各章ごとに重要事項の解説がつく。巻頭のみにギャラリーは、これが戦争なのだと訴える。
各巻末には、日本の戦争の歴史に沿い、1895年日清講和条約〜2004年自衛隊先遣隊イラクに派兵までの年表、各巻記述に基づく「さくいん」があって、戦争を知らない世代の大人たちは、衝撃を味わうことになろう。
戦後60年・平和憲法下の現在、この『わたしたちのアジア・太平洋戦争』が子どもと一緒に勉強し直すきっかけを、私たち大人にも強く呼び掛けてくれたのである。加えていいたい。小中学生・高校生・大学生ばかりか、父親・母親も含め、読んでもらいたい本であると。
機関紙4 もくじへ津森太郎 (山口在住・詩人)
ここのところ、最近の靖国参拝問題をめぐる政府関係者などの発言を、新聞紙上などで見てきたが、それらの大半は、かっての侵略戦争を美化し、合理化するもので、つまるところ、九条改憲と連動するものであった。戦争体験者の目から見れば、歴史的な事実を無視したものが多くて、読んでいると、なんとなく胸に怒りがこみあげてきたりした。
頭蓋の窪みでふるくからこれは最近、書いた短詩「かれらの仕事」の一部で、前首相のかつての「神の国」発言を比喩的にとらえてみたものである。
「昭和」と一緒に歩かされて、敗戦時からあらためて人間形成をしなければならなかった世代にとっては、憲法は精神的なよりどころのひとつであった。私もそのひとり。改憲勢力は九条を改変し、日本を外国で戦争のできる国にしようとしている。冗談じゃない。いつかきた道は、ごめんだ。九条をまもろう。
機関紙4 もくじへ大関俊雄 (北秋津在住)
一月ほど前、久米の岡本さんから「マスコミ・文化 九条の会 所沢」に誘われました。私は元郵便局員で「マスコミにも文化にも縁のない、一現場労働者でしたからノ」と即座にお断りしました。ところが岡本さんの曰く「大関さんは、年金者組合でコーラスをやっているそうではないですか。うたごえは文化の最たるものですよ」とかいわれて、会に加入する羽目になりました。音痴で楽譜も読めませんが、確かに年金者組合のうたごえサークル「こだま」の事務方をやらしてもらっています。
九条の会に入った以上は、何かをしなければと思いました。そこで私の提案です。
「うたごえは、平和の力!」、それこそ九条を守ることです。その運動の一助になればと、うたごえを通じて、九条の輪をひろげられればと思いました。具体的には、「うたごえ喫茶」のようなものを開いて、うたごえを通して九条を守る人の輪を広げてはと思います。
時期は、10月上旬、出来れば10月10日(土)。会場は550〜60人位入れる市内の会場。参加対象は、うたごえ世代のお年寄りから、若者まで。音楽のジャンルも、平和の歌声は勿論、邦楽やお囃子が入ればなおベターです。
こんな、曖昧模糊とした企画に、賛同して一緒に力を貸していただける方を募ります。
楽しくなければ運動は続かない! 楽しくなければ、運動は広がらない! そんな思いを込めて、改憲勢力に負けない運動を、楽しみながら作り上げましょう!
機関紙4 もくじへ世界から見た私たちの憲法とサブタイトルされたビデオがあります。
小泉首相が憲法改悪の意図をあけすけに語り、それがどんなに時代に逆行し、多くの人々の願いを踏みにじるものであるかを、時には熱っぽく、時には冷静に、多くの人の証言とフイルムによってえがき、日本国憲法の輝きを映像が語りかけてきます。
「マスコミ・文化 九条の会 所沢」では、このビデオとDVDを貸し出します。見たい方は、事務局か近くの世話人(機関紙を配布している人)までご相談ください。
語る人 日高六郎(作家・社会学者)、Cダグラス・ラミス(作家・政治学者)、ジョン・ダワー(歴史家)、ベアテ・シロタ・ゴードン(元GHQ民政局・憲法草案作成メンバー)、チャルマーズ・ジョンソン(政治学者)、ミシェール・キーロ(シリアの民主活動家)、韓洪九(歴史家)、ノーム・チョムスキー(マサチューセッツ工科大学教授・言語学者)など。
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