前田哲男氏講演録 1 (2008年11月30日)
講師 前田哲男氏(軍事ジャーナリスト・評論家)
ご紹介いただきました前田哲男でございます。
今日の集会は、おそらくあの田母神発言、論文に触発されて、その危機感から企画されたのだと思われます。タイトルも「旧軍隊への回帰と九条の闘い」という状況告発的な視点とこれからの運動の展望をどう構築していくかという両方の側面があるように思います。
田母神論文そのものについては皆さんももうご存知ですし、いろんな論点がメディアでも示されました。
私は、田母神航空幕僚長の発言に発する一連の動きを、「田母神論文」「田母神事件」「田母神問題」という三つの側面から考えています。今日お話するのは最後の「田母神問題」が中心になろうかと思います。
田母神論文に関しては、報道されたとおり、いろんな問題点、史実誤読が既に提起されています。あれは論文じゃない、引用だけのパッチワークみたいなものだ。こんなものを大学生が書いても受けつけられない、という形式の問題があります。田母神論文は大学生得意の「コピペ」(コピーと貼り付け)という指摘、たしかにそう思います。
内容に関しても、歴史学者・秦郁彦さんのような、体制寄りといわれているような方でも、これはお粗末、間違いだらけという言い方をされています。歴史学者の評価はすべて内容に関して真面目な論評に値しないという見方で一致しているように思います。
もう一つの側面、「田母神事件」は、この田母神論文に発した波紋ということになるでしょう。防衛省のその後の対応などです。
田母神空将の退職は「依願」でした。防衛省は懲戒処分も、調査も、査問も行わずに定年退職という手続きで田母神氏を隊外に出した。臭いものにふたをするような形で処理してしまったのです。こうした防衛省の処分のあり方をめぐる問題があります。航空幕僚長の地位は閣議承認人事であるので、当然、政府の政策や歴史認識に拘束される。首相、防衛大臣も任命権者として言動に責任を持つ。それがなされなかった。
彼が確信犯であることは、参議院の安保外交委員会に参考人として招致されて、そこでまた持論を繰り返し、反省を示さなかったことでも明らかです。にもかかわらず、個人の言動として処理してしまった。文民統制が機能しなかったということになる。
また、田母神論文に対して自民党の国防族やメディアの一部から、「あれは言論の自由の範囲内である。むしろ村山談話の方がおかしいのだ」という発言もありました。そうしたその後の波紋も含めて田母神事件というふうに呼んでいいのではないかと考えます。
それらを受けて、これから考えていかなくてはならない「田母神問題」があります。
自衛隊をどうするか、軍と政治の関係、シビル・ミリタリー・リレーション、軍政関係とか文民統制という言葉でいわれる、実力集団、武器管理集団をどう統制していくのか、とりわけ自衛隊は憲法問題という古い長い問題がある。そういうものとの脈絡を考えて、この武装集団をどのように管理していくのかという問題があろうかと思います。
その意味で田母神問題は、孤立した一事象でないと同時に一過性の出来事でもない、まだ湯気が立っている出来事であり、かつこれから深く論じていかなければならない問題であると考えます。
その三番目の問題意識にたって、田母神さんの発したことをいろいろ考えていこうと思います。
孤立した出来事でも一過性の事象でもないと申しましたけれども、ここ一年ぐらいの自衛隊をめぐる動きを見て、自衛隊という組織は内部からいろいろな問題が吹きだしている、「組織のすさみ」と言っていい現象をいくつも見ることができます。
久間防衛大臣が「原爆投下はしょうがなかった」と放言して辞任しました(07年7月)。事務方のトップ、守屋武昌防衛次官の汚職問題(07年8月退官)もありました。
国民との関係で見ると、昨年の6月に陸上自衛隊・東北地方隊の情報保全隊が市民運動を監視していた、集会に潜入・盗聴・盗撮していたという事件が起こりました。イラク派遣自衛隊の第1陣が東北方面隊から出たこともあって、それに対する地域世論の動向を監視していたのです(07年6月発覚)。
それは東北方面隊ばかりでなくて、東京の陸上幕僚監部を経由して全国の情報保全隊が、北海道から沖縄までさまざまな形で市民運動を監視し、それに「反自衛隊活動」とか「反自衛隊集団」という名称をつけて、全国の部隊に回覧していたという広がりにも発展しました。
明らかに市民監視であり憲法違反の行為であったわけですが、処罰は行われませんでした。開かれた集会に対し、私服の自衛官が入ってきて録音・撮影し、かつ一方的な評価を下していたのです。私の名前は出ていませんでしたが、友人のジャーナリストたちが「反自衛隊」というレッテルを貼られました。私はその前から貼られていますから改めて問題にされることがなかったのかもしれません。
また、ほぼ同じ時期(07年5月)、沖縄で、普天間基地の移転にともなう新しい基地の建設が予定されている名護市の辺野古崎の海で、国が行う環境評価調査を阻止しようと反対派の人たちが集まっている、その調査活動を支援するため海上自衛隊の掃海母艦が出動して、水中要員が観測機器を設置するということが起こりました。米軍基地の建設のために自衛隊が出動するのは、自衛隊法の条文から見ても根拠をもち得ない。自衛隊の任務にない出動形態です。そのような掃海母艦の派遣が行われた(結局、「国家行政組織法」に基づく「省庁間協力」であると説明されました)。いずれの出来事も発覚時期は安倍内閣の時代です。「情報保全隊事件」は、小泉内閣のときのイラク派兵に始まり、続いてきたことです。
同じく、昨年大きく話題になった陸上自衛隊制服出身の佐藤正久議員の発言があります。(07年8月)参議院議員に当選したばかりの時期、TBSのインタビューに答えて、彼がイラク派遣隊の先遣隊指揮官としてイラク体験を語る中で、自衛隊には武器の行使、武器の使用の権限は与えられていないし、軍隊としても交戦基準もないわけだけれども、もし可能であれば「駆けつけ警護」という名目で行動することを予期し、考えていた、と語りました。「駆けつけ警護を」。自衛隊派遣部隊が武力を行使して他国の要員を救出する任務ですが、「イラク派遣特措法」にそのような武器使用はありませんし、また「PKO協力法」以降海外に出た自衛隊すべて、それは「できない」とされてきました。
佐藤議員はそれを知りつつ、しかし、状況が切迫して判断せざるを得ない状況が起きたならば、私はそれをやるつもりだった、といういい方をしたわけです。これは後でお話する、昭和初期の軍ファシズム運動が行った「独断専行」の論理と重なり合うものを持っている。「居留民保護」という名の「駆けつけ警護」の再現です。当時そこまで議論が深められなかったのは残念ですが、しかし法律家やジャーナリストを中心に佐藤議員の発言を糾弾する集会が何度も開かれました。
こういう、昨年起こったいくつかの出来事の中に田母神論文を置いてみると、そんなに異常なことではないとわかる。一連の流れの中で起きたことで、決して突出した、田母神さんが異様な個性を持った人物だから今回の事件が起きたのだということではない。自衛隊の土壌のなかに定着しつつある雰囲気の中から出てきたものであろう、と把握できるかと思います。
今年出版された『不安な兵士達 ニッポン自衛隊研究』という本があります(原書房08年3月)。著者はサビーネ・フリューシュトゥックというオーストリア出身の社会学者で、カリフォルニア大学で歴史学の教授をしている人です。多くの制服の自衛隊員と面談してまとめた、こちらは「田母神論文」とはちがい本物の学術論文です。
彼女は防衛省の内局を通して基地の中に入り、多くの自衛官と面談して、自衛隊員の意識分析を行っています。その中に「皇軍兵士の影」という節があって、自衛隊の中における今日のタイトルの前半のようなもののありかをさぐっております。
「皇軍兵士の影」の書き出しの部分は、
「旧日本軍(皇軍)を発祥とする自衛隊のルーツに関する議論は、ひっそりとではあるが根強く続いている。自衛隊員は好むと好まざるとに拘らず、この議論に参加せざるを得ない。なぜならば皇軍との本質的な関係が隊員の男らしさや彼らの自尊心に影響し、日本という国や組織としての自衛隊との自らの関係をどう保つか、日本社会における自らの役割をどう捉えるか、などを左右するからだ。」
ということから始めています。
いろいろな人のインタビューが紹介されていますが、そうしたものを紹介しつつ、こうサビーネ・フリューシュトゥックは書いています。
「自衛隊員はまた皇軍を悪者にすることで関係を断とうとする一方、隊員が共感し誇れるような軍の伝統を再生し、連綿と続く歴史を再構築したいという願望との間に葛藤しており、こうした葛藤が自衛隊と皇軍観との関係を象徴している」まさしく今回の事件を言い当てたような文章です。
「また自衛官の中に『新しい歴史教科書を作る会』にかかわる者がいたり、永久戦犯の霊が祀られている靖国神社へ参拝する者がいたり、三島由紀夫を崇拝し右翼とつながりを持つ者がいる。」とも言っています。
これはごく新しい今の自衛隊の内部観察に基づく報告であるわけですが、なかなか私なんかがこういう取材といいますか、調査を行うことはできない。彼女は外国人であるという特権と、学者の研究という目的で特に許されたのであろうと思います。
たまたま今年出版された、したがってごく新しい自衛隊の内情報告の一端が、田母神発言を裏づけするような風土が自衛隊の中になお色濃く、葛藤として残っている。である以上、すべてが田母神的な人ではなく、旧軍との断絶を自らの存在理由にする隊員ももちろんいるだろうけれど、そうではない人物がたくさんいることを明らかにしています。
もう60数年経つというのに依然としてこういう歴史の連続性が呼び返されている。田母神さんはそれを美化し、正当化するような解釈を行い、かつ「統合幕僚学校長」として幹部自衛官にそれを学ばせるということをやったわけですから、影響力はずっと大きいということになるでしょう。
『不安な兵士たち』を読んですぐ思い出したことがあります。『軍事研究』という雑誌の1970年12月号です。11月25日に三島由紀夫が自衛隊・市ケ谷駐屯地に乱入・自決しました。この雑誌の12月号を編集しているときに、まだ、その出来事は起きていませんでした。なぜそういうことをいうかといえば、この70年12月号の「軍事研究」に、「防衛大学校生徒心理テスト集」というアンケートが掲載されているからです。防衛大学校の上田修一郎助教授が防大1年生と防大4年生、18期100人と15期100人、合わせると200人ぐらいの自分の学生に、記名アンケートを求めたのです。
18期が1年生で15期が4年生です。田母神氏は15期で、このアンケートの4年生に該当します。このアンケート100人の中に田母神さんの名前を見つけようとしたのですが、ありませんでした。アンケートに記入していなかったのです。しかし田母神氏と同期の1971年卒業、従って1970年度には4学年であった彼らがどういう意識をしていたかということを垣間見ることが出来るだろうと思います。
全員実名で書いていて、将来の希望・尊敬する人物・感銘を受けた本・恋人・趣味・スポーツ・総理大臣への希望、などの項目があります。
総理大臣への希望一一 鬼畜米英に惑わされるな、憲法改正、というのがあります。
尊敬する人物にアドルフ・ヒットラーというのを挙げているのが5人ぐらいいます。三島由紀夫を尊敬している人も5人か6人います。三島事件はまだ起こっていない、直前ではありますが、その気配もありませんでした。学生たちは彼の『文化防衛論』であるとか『憂国』なんか、晩年の三島思想に感化されていたと思いますが、尊敬する人物に三島を挙げている学生は多い。
総理大臣への希望一一 現憲法停止、ベトナム派兵、国防軍の創設、治安維持法の制定。この人が尊敬する人物は三島由紀夫、アドルフ・ヒットラーです。
ある学生が感銘を受けた本一一 『奔馬』、『豊饒の海』の第2部でありますが、『文化防衛論』、『美しい星』、『英霊の声』、全部、三島作品ですね。
またある人は、防衛庁の国防省昇格、選抜徴兵制実施、士官の佩刀許可。士官が刀を帯びることを許可せよというようなことを書いています。
総理大臣への希望一一 憲法九条を改正し自衛隊の存在を明文化してもらいたい。
というような具合です。
田母神さんの同期が20代の初めぐらいからこういう雰囲気の中で育ってきたということもまた知っておかなければならないだろうと思います。
防大15期の時代は大森 寛が校長です。その後、猪木正道校長になります。初代の防衛大学校校長は槙 智雄さんですが、槙校長の時代は「市民としての自衛官」が強調された時代だといわれています。
事実、防大1期生から10期生くらいまで、私はかなり綿密にインタビューしたことがあるのである程度知っていますが、そのあたりの世代はファナチックではない。
しかし、シングルナンバー(1〜9期)から戦後生まれのダブルナンバーに時代が移ってからはかなり違ってきたようで、「あいつらは怖いよ」、というようなことを防大の初期の人たちが言っていたのを思い出します。防大は田母神さんのころまで、理工系だけで文系はなかったのです。田母神さんは電気工学専攻です。エンジニアでありながらああいう粗雑な論理の論文というか、これは一体どういうものなのでしょうか。74年か75年に人文学類ができて、いまは両方入っています。田母神さんが育った70年前後、三島事件前後の防衛大学校の雰囲気、彼らの思想傾向はこういうものであった。彼はそういう中で育って来たということを、フリューシュトゥックが書いている最近の自衛隊の中における制服の意識・思想の分析とともに、田母神問題の底流に迫る視点としてあげておきたい。
第2の視点は、彼らが思いを馳せる戦前の軍隊と政治の関係です。フリューシュトゥック論文にも出てきますが、それが何をもたらしたか。その結末は私たちが良く知っていますし、そこに戻りたいと誰も思うはずがないわけでしょうけれども、やはり60年以上経つと、戦前日本の政・軍関係を知らない国民、有権者が圧倒的に多くなっているので、何度でも思い返しておく必要がある。そういう意味で田母神問題の一つに、戦前の教訓から読み解く視点、伝えていく視点も持っておかなければならない。
シビリアン・コントロールということが言われます。
文民統制、軍事に対する政治の優越、と言い表されますが、一応ながら明治憲法にも「軍人勅諭」(1882年)に「政治に拘わらず」と政治不干与がうたわれていました。天皇がシビリアンであったかどうか、またシビリアン・コントロールといえるかどうか微妙なところがあります。大元帥であったのだから軍人ではないかという見方もできるし、でも軍籍はなかったから一応、文民統制という言い方をしてよいのではないかともなる。
ともかく「軍人の政治不干与」が軍隊の規律として、天皇の権威によって与えられ、服従させられていた。それが崩れるところから軍のファシズム、軍の独裁、議会制民主主義と政党政治の終焉が始まるのです。
1930年前後、28(昭3)年に中国で軍閥のボスを目標にした「張作霖爆殺事件」が起こります。現役陸軍軍人の謀略による一種の政治テロでした。事実を知りながら田中義一内閣は処罰できなかった。首謀者を「依願退職」(予備役編入)ですませます。そのあたりから始まるのかもしれませんが、軍人の政治的発言、政治干与がはっきり出てくるのは1930年代にはいってからです。1930年に「ロンドン海軍軍縮条約」という国際的な軍縮条約が結ばれて、日本はそれに加わり、批准しようとした。そこから軍部の政治干与が公然と出てくるようになります。
帝国憲法、旧日本国憲法は軍事に関して第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めました。統帥大権と言われます。陸海軍は天皇に直属し統帥権は独立している、内閣・国会はいっさい関与できないという憲法規定です。同時に第12条で、「天皇ハ陸海軍ノ編成及ビ常備兵額ヲ定ム」とあります。つまり軍の定員や予算に関する事項は天皇の大権だけれど、こちらは内閣の助言と責任に属し国会の承認を得なければならない。前者、つまり統帥権独立を「軍令」といい、後者、編成・常備兵額は「軍政」で、大権は天皇にあるけれども、内閣が天皇に対し責任を負い国会に示して承認が必要な領域である、と区分していました。
矛盾をはらみますが、一応1930年代まではこのように「軍令と軍政」は分かれていました。同時に政治に拘わらず、という軍人勅諭も実行されていました。
1930年にロンドン海軍軍縮条約が結ばれます。日本は巡洋艦など補助艦の比率で対米・英6割9分7厘5毛、69.75%、よく対米7割というふうに言われますが、7割を0.25%切るというところで政府は妥協するのです。時の浜口内閣は、確かに日本は米英に差をつけられたけれども、大きなところで軍縮は必要だし、日本は軍縮で得をするところがあると判断して、条約に調印し批准を求めるわけです。当時は国会じゃなく枢密院など別の機関ですが。
それに対し、「統帥権干犯」論争が巻き起こってくるわけです。
憲法11条の軍令事項を政府は踏みにじった、海軍の同意抜きの条約調印は天皇の統帥大権を犯すものであるという議論です。
そのときは、前の年、1929年のウォール街の証券破綻に始まる世界的な経済危機が、「昭和恐慌」という形で日本でも猛威を振るいつつあった時期に当たっていました。高まる社会不安の中で、軍部は、政府が「統帥権干犯」、つまり天皇の軍事大権を犯したというキャンペーンを張るのです。それはやがて政府の憲法解釈、憲法第12条の「定員と予算は内閣と国会に属する」という憲法解釈に軍が公然異をとなえる。さらに、東大教授の美濃部達吉は憲法理論の著書で、天皇は国家の機関であると論じているが、畏れ多くも天皇を機関とは何事だ、国体に反する学説である、と「天皇機関説弾劾」というところに波及して、美濃部さんがテロに遭うような危険にもなり、政府は「国体明徴声明」といいますが、天皇機関説を取らない、天皇は犯すべからざる尊い存在、尊厳の対象であり、機関などとは呼ばないと譲歩せざるを得なくなる。
こういうふうにじわじわと憲法解釈が、また憲法の規定が、統帥権独立の側で拡大させられていく動きが起こるのです。
それに続く1931(昭6)年という年は、憲法解釈のレベルだけではなしに、「満州事変」という日本の中国侵略の大きな一歩が始まった時期です。
田母神さんは、満州事変は蒋介石がしかけた罠である、真相はコミンテルン、国際共産主義運動の挑発であったという言い方をしていますが、満州事変が、関東軍司令官・本庄 繁、高級参謀・板垣征四郎、主任参謀・石原莞爾らによって画策された、日本側の挑発、独断専行であったことは歴然とした事実です。
満州事変は1931年の9月18日に起きますが、その年の1月に、陸軍大臣の南次郎(敗戦後、A級戦犯として終身刑に処せられたが、1954(昭29)年病気のため仮出獄)が全国の師団長、団隊長に通牒を出して、「軍人は世論に惑わされず、政治に関与してはならぬことは軍人勅諭に明示されている通りである。しかし一面、軍人は国家の国防を担任している。国防が全くなさざれば国家危うきは言うまでもない。しからば国防問題について議論することはいわゆる政治関与をもって論ずべきではない。国防は政治に先行するべきことを了承せられたい。」という「政治発言容認」を通達するわけです。
これによって、軍人勅諭にいう政治不関与は全く形骸化してしまうのです。南の論理をもう少し紹介しますと、「軍人は軍政という政治を担当するものであるから、元来政治に関与すべき本分を有するものであるともいえる。それゆえに軍人が軍務事項またはこれに関連する事項につき当然政治的意見を発表し、しかもそれが政治のいかなる部面に接触しても、その職務、軍人の職務の遂行であるから、罪となるべき事由はない。」
今の田母神論理をここに当てはめると、「自衛官の政治的発言は言論の自由」だと言っているのと同じです。
「また、軍人が軍縮論に反対して意見を公にしたとしても、これまた当然である。軍人は政治家の俗説や便宜論に媚びたり、惑乱させられて自己の信念を曲げてはならぬ。どこまでも毅然として世界に超脱して国防の安全を期すべきである。」
こういう内容の通達が全国に陸軍大臣の名前で出されたわけです。影響が小さいものであるとはとても言えない。その年後半に満州事変、関東軍の独断専行による軍事行動が始まるわけです。満州事変そのものは石原参謀らによって、これより前から計画が進行していますので、南通牒と満州事変の直接の因果関係はありませんけれども、大きな流れは通底していると思います。
こうして軍人勅諭の形骸化、と同時に軍事行動、侵略が軍隊のイニシアチブによって進行していくわけです。
政治は全く無力でした。当時の総理大臣若槻禮次郎が、『古風庵回顧録』という自伝を書いていますが、そこで満州事変についてこう書いています。
「内閣が、事件の」、これは満州事変ですね、「不拡大方針を定め、陸軍大臣」、南ですが、「陸軍大臣をしてこれを満州軍に通達せしめたのに、満州軍はなお前進を止めない。陸軍大臣にそれを責めると、そのままにしておくと居留民が被害をこうむる恐れがあるから止むを得ず進撃するのだと弁解する。それならば東支鉄道を越えてはならぬと言うと、陸軍大臣はその通り、越えさせませんというが、満州軍はチチハルに行き、さらに黒河まで行ってしまった。このように日本の軍隊が日本の政府の命令に従わないという奇怪な事態となった。」
こういうふうに進んで行くのですね。
明治憲法のもとでも軍人の政治不関与は一応規定されていたし、長い間守られても来た。しかし、箍(タガ)が一度外れるとガタガタッとなってしまう。そのタガの外れ方の背景には、経済不況も影響しています。当時はウォール街発の世界恐慌といわれました。いまも全くアメリカ発です。世界恐慌という経済的な要因も絡んでいます。同時に政治が毅然としなかった、出来なかった。メディアもまたそれをしなかった。
当時のメディア、また政治がどうであったか。
ちょうどいまのように政党政治が党利党略で動いたということがあります。軍人の主張を支持する政党があったわけです。美濃部博士の天皇機関説は天皇の権威を損なうものである、怪しからん、というようなことを軍人が言うだけでなく、政治家の中にそれを支持する声があった(犬養毅、鳩山一郎ら)。ロンドン条約を批准することに対し、海軍はそれでは国防が完整できないと言っている、それを無視するのは統帥権干犯、憲法違反だ、こういうような議論を最大野党の政友会などが国会でやるわけです。
今も田母神事件に産経新聞というメディア、また一部の学者、とりわけ自民党の議員が、あれは言論の自由の範囲以内である、むしろ村山談話の方を変えるべきではないか、と言っているのと似たような構図がある。
文民統制や軍隊を統御する国民の意思に関して、明治憲法下の日本に合意はありませんでした。現憲法でははっきりした制度的な規定もあるし国民的な合意もあるのですが、しかしそれをくつがえす動きがある。そこに当時の事を教訓として受け止めることが必要ではないかと思うのです。
三番目に、田母神発言とシビリアン・コントロールの根源を考える視点として、国際比較といいますかドイツの場合と比べてみますが、アメリカ、イギリスでも同じです。
イギリス慣習憲法の土台となったマグナカルタ(1215年)は、軍権、王の軍事権力を議会がコントロールすることから発しました。恣意的な課税を禁止し、戦争権限にも議会がコントロールする、シビリアン・コントロール、文民統制的のみなもとです。
アメリカでも、我々が知っているマッカーサー元帥が、朝鮮戦争のさい、原爆を使用して中国を攻撃すべきである、と進言したとたん、トルーマン大統領から解任されてしまいました。それは軍人の分ではない。政治が決めることである。地位にふさわしくない。2次大戦の英雄が電報一本でクビです。
逆の場合ですが、イラク戦争に反対する軍人もアメリカにいます。この人たちは懲戒されます。ベトナム戦争のときはもっとたくさんいました。不義・不正な戦いである、これに私は参加しない。そういう言論の自由はあるが、軍籍に身を置く以上、規律違反である。その責めは問われねばならない。言論の自由は制服を脱いでから言え、ということです。
日本と同じ敗戦国であるドイツは、もっと徹底しています。というより、ナチスの犯罪、ナチスの犯した大きな罪に対するけじめがつけられなければ、ドイツは国際社会に復帰することもできませんでしたし、今のようにEUの中心的な国家になることも出来なかった。ドイツはそれを克服し、その信頼を周辺諸国に確認したからこそ、今EUの中で有力な一員になっているわけです。
ドイツでは「アウシュビッツはなかった」、もしくは「あったとしても600万人というのは大きすぎて、嘘である」、と言うと犯罪になります。「国民扇動の罪」という罪が刑法の中にある。最高刑五年。「アウシュビッツの嘘」規定と言われています。つまり、アウシュビッツは嘘であったという言論の自由は、ドイツにはないということです。たとえて言えば、「南京虐殺はなかった」とドイツでは言えない。日本では、『南京大虐殺の幻』なんていう本が延々と売られつづけていますが、それはないわけです。歴史的事実としてアウシュビッツの罪を引き受けるということから、戦後のドイツの歴史認識は始まったと言っていいでしょう。
有名な写真があります。
1970年にヴィリー・ブラント(1969〜74年、西ドイツの首相、ノーベル平和賞受賞)がポーランド、ワルシャワのユダヤ人の居住地に設けられた記念碑に初めて行ったときに彼が行った行為です。ブラントはひざまづいたのです。日本流にいうと土下座をしました。予定にもなかったし、ブラントの回顧によっても、「私はその日の朝まで、自分がそういうようなことをしようなどとは思ってもいなかった」と書いています。「しかし、あそこに行ったときに、もう、そうするしかない。で、そうしてしまったのだ。」この姿勢を45秒取り続けた。ポーランドの政府関係者もびっくりしたそうです。そんなことは要求もしていないし、予定にも全くなかった。それをブラントがやった。
ブラントのこの行動に対する当時のドイツの国民の反応は、やり過ぎだ、というのが48%。やってよかったというのが41%。否定の方がやや多い。ということはブラントが国民受けのパーフォーマンスでやったということではない。決して国民が望んでいたことでもない。けれども彼はそれをやって、その結果ポーランドとの関係は劇的によくなった。ドイツの過去の克服はいろいろな形で、ブラントの前からあり、また、ブラントの後にも続きますが、この象徴的な行動がいちばん有名であることは間違いないだろうと思います。
当時は48対41ぐらいで否定的な意見が多かったのだけれども、しかしその後、ブラントの行為は次第に評価され、定着し、今ではドイツの中では受け入れられています。
71年のノーベル平和賞はブラントに贈られました。世界的にもこの歴史認識の評価は認められたと言えます。以上は『戦後五十年決定的瞬間』という本の中にあることですが、その「ひざまづいた首相」という記事の最後は、「たとえポーランドとの条約は忘れられようとも、ブラントのこの行為は語り草になるだろう。実際にそういうことになった」と結ばれています。
1995年の本ですが、ドイツは冷戦の後、ヨーロッパ共同体というEUの中に不動の地位を占め、今に至るわけです。
アジアに対し、日本の指導者がそのような態度を示したことはありませんでした。中国と韓国と日本がこういう形で向きあうシーンもなかった。ブラントの行為は、私たちがあの戦争をどういうふうに捉え、政治に生かし、外交関係の中に反映させ、かつ、語り伝えていくか、教訓にしていくかを考える大きなポイントになるだろうと思います。
以上が、田母神問題の根源ということで、三つの視点から、これは決して一過性のものではなく、組織病理のようなルーツを持つものであり、かつ歴史とも交わっているということをお話しました。