機関紙30号 (2007年12月12日発行)
福田首相との「党首会談」「大連立」を仲介したのは「さる人」だと、小沢民主党代表は語った。しかしその後、読売・日本テレビを除く新聞・テレビ、それに週刊誌はそろって、「さる人」が読売グループ本社の会長にして同紙主筆の渡辺恒雄氏である事実を、たちまち暴露した。このような政治工作に直接手を染めるものは、もはやジャーナリストではない。自分の影響下の新聞、テレビ、出版物を、この政治工作のために利用した疑惑も残り、メディア経営者としての適格性も疑わせる。
この件について読売は沈黙を続けているが、それは真実に背を向けるものであり、国民を欺く行為というべきであろう。
日本一の部数を誇る新聞のこのような振る舞いを、新聞界が黙って見守るだけで、まともな批判ができないとなれば、国民のあいだに醸し出される深刻な不信は、読売だけでなく、すべての新聞記者・新聞経営者、それに新聞そのもの全体に向けられるものとなっていくだろう。さすがに朝日「『大連立』仲介 読売で真実を読みたい」(11月10日社説)、毎日「『さる人』の説明が聞きたい」(同13日社説)など、読売を批判するかに見える論評を掲げる新聞も出てきた。だが、それらはまだナベツネ氏を、恐る恐る遠巻きにしている感じだ。日本新聞協会は10月、新聞週間に臨み、長年の新聞界に対する貢献を称え、渡辺氏に新聞界最高の賞、「新聞文化賞」を贈ったが、なんとも皮肉ななりゆきだ。
見逃せないのが、この読売が今後の新聞界再編のうえでも、台風の目となる可能性が出てきたという点だ。同社は10月1日、朝日・日経と協力、新聞販売店の統合化とネットの共同事業化を目指す3社事業提携に踏み出す、と発表した。3紙はそろって翌日朝刊でこのニュースを紙面発表、新聞界だけでなく、各方面に大きな衝撃を与えた。産業的に不振の色が濃くなってきている新聞界にあって、この3社はいわば「勝ち組」だ。
その「大連合」は、弱小政党を尻目に自民党と民主党が「大連立」を組んだみたいなもので、自分たちの優位を、いっそう強めることに役立つはずだ。
護憲の朝日は、改憲派、読売・日経と、とりあえず商売のうえで手を組むことになった。政治の世界では、また「さる人」が動き、「大連立」が仕掛けられるだろう。「さる人」はもういまから、朝日のほうを、にっこり笑って見ているような気がしてならない。
もくじへ「九条の会」の呼びかけ人の一人で作家の井上ひさしさんを所沢に招いた「講演の夕べ」が11月21日夕、ミューズマーキーホールで開かれた。木枯らしが吹くなか、会場一杯の800人は、伴場三恵子さん(賛助出演)のピアノと井上ひさしさんの講演に聴き入り、九条を守る運動を進めていく決意を新たにした。
主催者を代表して浜林正夫・一橋大学名誉教授は、「自民党の大敗で、憲法を変えようと言わなくなったが、あきらめたわけではない。改憲をめざして着々と進めている。今回の講演会も市内の「九条の会」が力を合わせて進めたことに意義があります。相手が改憲をあきらめるまで私たちも運動を進めましょう」と開会の挨拶をした。
「日本国憲法が創り出した価値」と題して講演した井上ひさしさんは、「守る守るの消極的な否定形の活動だけでは、守るものも守れない。『する』運動に切り替える必要がある」と問題提起をした。その上で、無防備都市宣言を進める運動も有効ではないかと指摘した。さらに南極の平和利用を定めた南極条約(1959年採択)に日本国憲法の前文や九条の精神が生かされていることを紹介し、南半球を非核地帯ですっぽり覆うまでに広がった非核条約にも、「憲法九条と前文のにおいや語句がたくみに取り入れられた」と語った。
「生まれた国では『押し付けだ』と邪険にされながら、世界で仕事をしてきた九条はけなげな孝行息子」と憲法の価値を語った。 集会には、当麻よし子所沢市長からメッセージが寄せられた。(講演要旨は次に掲載)
もくじへ私たちは憲法を守るという運動をしてきたわけですが、守る守るといいながら国民投票法まで作られてしまった。日本は軍人密度で世界一という状況になってしまいました。日本にいる軍人は自衛隊25万人、米軍5万人です。日本の人口は1億2千万人ですが、中国は軍人は多いのですが、人口も膨大ですから、日本は人口比率で世界第1位なんです。
その軍隊が、防衛予算で通常の価格の2,3倍で軍需品を購入しているんです。インド洋で展開していた自衛隊の給油艦はバーレーンで油を購入、無料で米艦に補給していたんです。そのバーレーンにある石油会社を支配しているのが、米高官のライスであり、チェイニーなんです。
こんなことで国を守るなんてこと出来ないですよね。崖っぷちまで落っこちている。命がけでうまく守っても現状維持なんです。それも前より悪くなる現状です。もう一つ前へ進む方法を考えてみたい。
表題の「日本国憲法が創り出した価値」ですが、憲法前文が国際法によく引用されています。1957年から2年間、国際地球観測年がありました。日本が初めて国際舞台に出たころです。米ソの対立、イギリスの領有のなかで、南極が軍事基地に利用されると、お互いが相手を疑って、壊れそうになったときがありました。当時の日本政府は日本の憲法を示して、ついに『南極条約』をつくり南極は人類共有のもの、軍事基地は作らない研究・観測の地域としたんです。
このあとに続いて、中南米でラテンアメリカ条約をつくります。核兵器をつくらない、持ち込ませない、使わせないというものです。しかし、申し合わせただけでは駄目だから、核保有国に、使わないで欲しい、使ったら国際的に訴えるという議定書をつくって約束させました。改定もやろうと、改定非核化条約もつくりました。これは、日本も批准しています。
南太平洋でも13カ国が、南太平洋での核実験を禁止、実験をやるなら自分の国でやれと非核3原則を盛り込んだ南太平洋条約を作りました。これは日本国憲法の前文を引用して作られました。アフリカ大陸でも20の国がアフリカ条約を作り、そこには6番目の核保有国となっていた南アフリカ共和国がこの条約に入っていくべきか、核兵器を保有していくかの国民投票をしました。結果は、アフリカの一員であるとの国民の意思で、核兵器を破棄したのです。はじめて破棄した国です。東南アジアの非核条約のバンコク条約も憲法前文の精神が生かされています。これで地図を塗ってみると、南半球は見事に非核地帯になっています。北半球の一部、石油のあるところで問題がおきているのです。
実は日本の憲法のもとになったハーグ不戦条約には、無防備都市というのがあり、パリは宣言していて、パリに侵攻したナチスでも破壊することができなかったのです。フィリピンのマニラもこの宣言をしていたにもかかわらず日本軍は破壊したため、連合軍から責任を問われることになったのです。日本も太平洋戦争前までは国際法をよく守り、捕虜虐待などもなかったんですが、傲慢になり国際法を無視しだしたのです。
今はもっとすすんだ、無防備地区という形で取り組まれています。世界では1978年効力を持ったのですが、日本は2005年にやっと批准しました。そこには「紛争当事国はお互いに無防備地区を攻撃することは禁止する」ということが盛り込まれています。現在世界では163カ国が参加しています。
この国際法を生かし、無防備地域宣言をしていく運動を提唱したいのです。有権者の50分の1の賛成、議会の賛成、そして首長の賛同で成立するのです。市長さんがメッセージをくれる所沢でも、ぜひこうした運動を展開していただけたらいいのではないでしょうか。
攻撃されたらどうするんだ。だから武器を持ってという意見がありますが、持っていても攻撃されたら死んでしまうのです。攻撃させないようにするのが一番いいと思うのです。無防備地区が広がったら攻撃されなくなるのです。自分を守るためには九条も守るというだけではなく、積極的な平和主義の方に動きましょう。「憲法を守る」から「憲法を生かす」運動を前進させましょう。私の住む鎌倉でも取り組みたいと思います。前に向かつてこれを「する」という積極的な運動に進んだらと思うのです。
もくじへ「九条の会」の第2回全国交流集会が、11月24日東京神田の教育会館で行われ、北は北海道から南は沖縄まで、各地域・分野で活動している「九条の会」の代表1200名が集まり、満員の会場は熱気に包まれました。
10時半から始まった全体会の冒頭、「九条の会」の呼びかけ人が挨拶。奥平康弘さんは各地の集いに参加して学んだことを話し、加藤周一さんは九条を「まもる」から「生かす」運動をよびかけ、澤地久枝・鶴見俊輔さんは亡くなった小田実さんの生き様にもふれ、一人ひとりの小さな人間がたたかいに参加することの意義を強調、大江健三郎さんは大阪地裁で行われている沖縄「集団自決」裁判で日本軍に強いられた集団死を「美しい死」として描こうとする者たちと闘う決意を表明しました。
また、各地での取り組みも報告されました。町内全戸訪問で募金を集め戦争遺跡の入口に「憲法九条の碑」を建立した沖縄・南風原町、東京・小金井公園で若者たちと対話し8000筆の署名を集め全国的に有名になった「九条おじさん」、市内15の「会」のネットワークで大集会を成功させた大阪・豊中の経験、早稲田大学で行われた学生の集い「ピースナイン9」の取り組みなど。
午後からは12の分散会、分科会(学生)に分かれて、全国で6800を超えた「九条の会」の活動経験交流。「戦争体験の話を聞く会」「9の日行動と署名の取り組み」「9条ウオーク」「9条大看板」「9条カルタ」「「第9」を憲法記念日に歌う」「入学式、成人式などで青年へ訴え」「毎月400個の手作りバッチを販売して事務所を維持している「バッチ売りの少女」」など、全国各地での多彩な活動が報告され交流を深めました。
私たちの会からは鴨川代表代行、佐藤事務局長が参加し、直前に行われ成功した「井上ひさし講演の夕べ」などの取り組みなどを報告しました。持参したブックレット『憲法をめぐるせめぎ合い』60冊が完売。各地の取り組みから学んで、この所沢で30万市民へのひろがりをもった運動を考えていきたいと思いました。(佐藤後広)
もくじへ鈴木彰の「安保優先!あ・うんの息が合っちゃった」
もくじへかつて私は、『永代までも言問わむ』と題してカンタータ(交声曲)「東京大空襲」を書いたことがある。その序章「橋の名」の終連を紹介する。東京東部を何日か歩いて取材した。火に追われて、そこら中の橋や岸から転落して10数万人が死んだのである。「白髭」「言問」「両国」「清洲」「永代」はその橋の名前である。
(合唱)
隅田川に架かる橋の名前を
心静かに唱えれば
いまも千の万の魂の あのまなこが
川面を立ち上がってくる
(独唱)
白髭 言問 言問えど
両国 清洲 永代帰らぬ人の群れ…
夕日の地を這う路地に
懐しい親らの名前を 幻に描いて呼んでも
永代帰らぬ 人の群れ…
佐藤 毅(元東京新聞編集局長・元中日ドラゴンズ球団社長)
東京新聞編集局長、プロ野球の中日ドラゴンズ球団社長など歴任し、憲法への思いを綴った『日本国憲法の危機』(河出書房新杜刊)などを出版するかたわら、東海地域を拠点に「九条を守る」運動に力を注ぐ、ジャーナリストの佐藤毅さんから編集部に「平和憲法」への思いを込めた原稿が寄せられました。
私は「生涯一記者」というタイプの人間だが、どういう因縁か晩年になって「プロ野球界」にまぎれこみ、念願の「セ・リーグ優勝」も体験した。そこはなかなか奥の深い世界で、現代社会の先端的な問題が渦巻いており、のめり込めば際限のない泥沼であった。 6年前、球団社長を引退した時、いろいろプロ野球関係の執筆依頼も受けたが、私はすべてお断りして「一記者」の本業に立ち返ろうと、心に決めた。当時、たまたま「9・11」同時多発テロ事件が起き、アメリカの一国世界支配体制が露骨に表面化してきたが、日本政府はひたすらその流れに追随するばかりであった。
「このままでは、日本はアメリカの世界戦略に飲み込まれてしまうのではないか?」「平和憲法を改悪して海外派兵を可能にすれば、日本軍はアメリカの“傭兵”と化し、もう一度“極東のならずもの”となってしまうのではないか?」そんな危機感に駆られて、私は「我、何をなすべきか」を自問した末に、ささやかながら「遺言」のつもりで、わが胸の思いをペンに託そうと思った。錆び付きそうになったペンではあるが、「一記者」に残された道は、それしかなかったのである。
そんな孤独な作業の中で、出来上がったのが『敗戦の教訓』と『日本国憲法の危機』(いずれも河出書房新杜刊)であった。日本はなぜ、あんな無謀な戦争を起こしたのか?そして、なぜ敗れたのか?これを徹底的に究明し、反省しなければならない。それは必然的に、平和憲法の擁護の問題につながって行く。
「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目となる」というのは、ドイツのワイツゼッカー元大統領の有名な言葉だが、安倍前首相の「美しい国」といった発想などには「戦後レジームからの脱却」「戦前への回帰」といった危険な願望が滲み出ていた。
敗戦後の日本は「二度と過ちは犯さない」という反省を込めて、戦争放棄の平和憲法を制定したはずであった。それは全世界への平和宣言であり、約束であった。簡単にこれを破棄して、強力な軍事国家として甦るということは、「この民族には節度がない」「いつ何をやり出すか分からない国」という印象を与えるだろう。
「海外派兵」を可能にすれば、次は「徴兵制度」と「核兵器の保有」が当然の課題として浮上してくる。日本の高い技術水準と経済力を軍事に振り向けて行けば、戦後ようやく築き上げた「平和国家」のイメージは吹っ飛び、アジア諸国は「危険な軍事大国」日本に対して、がぜん警戒感を強めて来るに違いない。
しかも、それがアメリカのネオコンの世界支配の一環としての役割、さらに言えば「極東における先兵」としての役割を担うものであるとすれぱ、結果的に日本は歴史に再びどのような「汚名」を刻むことになるか分からない。過去を反省し、平和への誓いを新たに再出発した日本が、その繁栄と裏腹に、全く主体性のない「汚れ役」「憎まれ役」の「従属国家」として、歴史の中に埋没して行く恐れも無しとしないのである。
世界史の中に生き残って行く民族は「節度」を持ち、「名誉」を重んじなければならない。何よりも重要なのは「独立」の志を保持することである。自分の足で立ち、自分の心で考える。今ほど「敗戦の教訓」を噛み締めることが必要とされる時期はないだろう。
「敗戦の教訓」とは、私流に言えば「国民にウソをつくな」という一言に尽きる。戦争下手の軍部が不意打ち作戦の成功で、緒戦に勝利して以後、敗北に敗北を重ねながら「勝った、勝った」のウソの「大本営発表」で、国民をだまし続けて来たのである。軍部が国民をだまして、どうするつもりだったのか?あの瀬島竜三氏.にインタビューしてしつこく尋ねたが、明確な答えはなかった。
私は敗戦時、中部山間部の中学2年生。「やがて特攻隊となってお国のために一命を捧げる」決意の軍国少年であった。疑うことを知らない純粋培養のロボットだっただけに、「軍部がウソの塊」と知った時の驚きは痛烈だった。子供心に、不信感が渦巻いた。それ以来、私は「偉そうな顔した大人の言うことなど、信じられたもんじやないナ」と、心に刻んだのである。
長ずるにしたがって、この「権威不信」次第に定着し、学校の先生も、親も、政治家も、官僚も、世の識者も…ひとまず疑ってかかると言う「頑固主義」として結実し、「生涯一記者」の信条として今日に及んでいる。痛感されるのは、政治家も官僚も隠し事ばかりで国民をだまし続けており、その口先がいかに信用できないかは、大ウソの大本営発表と変わらない、ということである。
話しは本業に返るが、現在、一記者の最大の気がかりは、「マスコミは敗戦の教訓を生かしているか?」という疑問である。敗戦当時、中学2年のカンツリー・ボーイが入手できる情報源は、用紙不足で「ペラ一枚」の新聞と、ガァガァ雑音入りの「日本放送協会」のラジオだけ。貧しい村では、新聞も取らないし、ラジオのない家が多かったのである。他に情報は何もなかった。その新聞は「本土決戦の秋来る」といった社説を掲げ、ラジオは「軍艦マーチ」入りで大本営発表のウソの「大戦果」ばかり。決定的な情報不足が国民の耳目を閉ざし、純粋培養の軍国少年を育てていたのである。
今日、配達される新聞はズシリと重く、テレビは多数のチャンネルが映像を流し続けている。情報は洪水のようだが、本当に必要な「真実の情報」は提供されているのだろうか?私は非力ながら「ウソを書かないこと」を信条とし、影響力の及ぶ範囲で「真実の報道」を目指してきたが、憲法によって言論の自由が守られた時代で、弾圧されることがなかったのは幸せだったと、感謝している。
しかし、軍事国家となれば、そうは行かなくなるだろう。あの戦争中のウソで塗り固めた新聞を、再び作る恐れはないか?マスコミに於ける「敗戦の教訓」を再検証しなければ、と考えている。
1931年(昭和6年)岐阜県美濃市生まれ
1954年(昭和29年)早稲田大学政治経済学部卒業
●経歴
中日新聞社入社、東京中日スポーツ総局長、東京新聞編集局長、中日新聞専務取締役編集担当を歴任。95年に中日ドラゴンズ代表取締役に転じ、99年にセ・リーグ優勝。現在は同球団相談役。
●主な著書
「日本国憲法の危機」「敗戦の教訓」「新一日一言」(以上は河出書房新杜)「ベタ記事恐るべし」(サイマル出版)など多数。
山県健二(合唱団ききゅう所属・埼玉うたごえ協議会議長)
日本のうたごえ運動は“うたごえは平和のカ”“うたごえは闘いとともに”を合言葉に、戦後平和や民主主義を求める様々な民衆の運動がすすめられるなか、平和で健康的なうたを生み出し、歌い広げる運動として労働運動や平和運動とともに発展してきました。
私たちはいろいろなうたを歌い広げていますが、特に人々の生活に密着したうたを大事に歌い継いできました。これまでの取り組みはまさに日本国憲法とともに歩んできたと言えます。
憲法「改正」国民投票が実施されるかもしれない中で、もっと平和や憲法九条の理念を広げなければならないと思います。
音楽には人々を理屈抜きに感動させる力や、平和や民主主義を考える人々の幅を広げる力を持っています。
埼玉のうたごえ協議会は、合唱団ききゅうを含め8団体が加盟し、県内にうたごえ運動を広める活動をしています。昨年は、さまざまな場面で広島の大洲中学で創られた「ねがい」など平和を願ううたごえを響かせてきました。
日本のうたごえ60周年を迎える来年は10年ぶりに首都東京で日本のうたごえ祭典が開催されます。近県の埼玉でも平和や音楽を愛する人々の共同の祭典として成功させるべく活動を進めて行きます。多くのみなさんが、東京で開催されるこの60周年日本のうたごえ祭典へ参加されることを希望します。
もくじへ三浦徳哉(山口在住)
私は敗戦直後の45年9月生まれです。憲法の施行は翌年ですが、まさに憲法とともに歩んできた世代です。
父は兵役中に防毒マスク着用の訓練で結核を移され、敗戦後に麻酔もない中で大手術をうけました。幸い右肺の全摘出が成功し長命を保ちましたが、その為か戦争中の話は思い出したがりませんでしたが口癖でお前達の時代を大切にしろ、と常々語ってくれたものです。
それこそ多大な犠牲を払った後の現憲法のことを指していたことは明白です。
憲法も還暦を迎え国民の生活に完全に定着している今、憲法改悪の黒い蠢きが急速に姿を現してきています。この蠢きが表面に出るまでには、改憲派は相当の長い準備期間があったに相違ありません。アフガンやイラク、テロのこれらは口実に過ぎないと考えます。陸上自衛隊の「情報保全隊」の長年の国民にたいするスバイ行為がこのことを如実に物語っています。
いつ戦争ができる憲法に改悪するか、を窺っていたタイミングが今なのです。国際協力の名目が「戦争が出来る、する国」なのです。まさしく英語が話せれば国際人と同じ論法です。
戦争の放棄をうたう憲法を持ち、唯一の被爆国の日本の存在と主張は、世界平和を願う人類の貴重な財産です。今も戦禍に生存を脅かされている人々に思いをはせながら、平和憲法を死守していきたいと思います。
松本さと子(小手指在住)
28歳と23歳の子どもたちの労働条件、12時間近い長時間労働はあたりまえ、それでも残業手当はなく、正社員だから社会保険に入ったと喜んでいます。上の子は、今の仕事につくまで派遣の仕事で結婚式場のウェイトレスなどをしていましたが、その時もアルバイト、派遣、正社員、パートとそれぞれの給料体系があり、その中では派遣の時給は高いのだとのことでした。
私が、労働基本法では1日の労働時間は8時間だし、残業手当も有給休暇も権利としてあると話しても、「そうは言っても、現実には通用しないよ」と言われてしまいます。
労働組合運動や労働者の権利という言葉はどこに行ってしまったのでしょうか?「ワーキングプアー」「格差社会」という言葉がアチコチで話題となっています。そして、格差の下におかれてしまったのは、若者たちや中高年で職を失った人たちです。その上、年金生活者さえ、「介護保険」や「税制」変更で所得が削られ、今度は「後期高齢者医療制度」でさらに削られることになっています。消費税率10%も時間の問題のように言われています。
私たちが戦後民主主義の中で勝ち取ってきたものが、どこまで削り取られたら、国民の怒りが爆発するのでしょうか?
もくじへ若松孝二監督の作品にも数多く出演され、異能の人と呼ばれていますが
五杜協定でスターたちが他社の映画にでられなくなり、映画産業が停滞していきます。そこで300万円で映画を作り、自分たちのやりたいことをやろうとする映画人が集まりました。作るのはピンク的な色合いで商売する会社なんですが、僕は、たまたまテレビ映画を作っていた若松孝二と知り合いました。この人、能力より度胸のある人間でした。そういう映画運動を一時期やりました。異能の人と呼ばれるのは、一方でプロデュースもやっていたからです。大島渚は松竹でヌーベルバーグ運動を始め、僕は小プロダクションで映画の運動を始めたのです。新宿のある一角に映画人が集まる飲み屋があり、映画人同士で一晩中議論と喧嘩のあけくれでした。でも、演劇しか知らない僕にはまたとない勉強になりました。
「こてさし語りの会」はもう何年続いているのですか
演劇が地域に根ざしてもっと普及しなくてはと思い、北海道から沖縄まで生協を軸として演劇の地方公演を続けました。地方の人々の芝居、映画との関わりを深めるなか、やはり新劇は知識人の演劇だということに気づきました。だから、本当の普及が日本のなかでできていないのです。しかも、観客は殆ど女性。そうなってしまっているのです。本当に貧しいなと思うのです。
地域に入って掘り起こしていかないと芝居はダメになります。最初は、教員の主任手当反対闘争で手当を貯めた資金で芝居の券を購入してくれた浦和の先生たちの熱意と、町おこし運動に共鳴して、地域の力を引き出す芝居をめざして「みんなの地球の会」を作りました。
そこでは芝居の経験のない市民が主役です。地域に入っていって、そこで学んだことを芝居に作り上げて、僕が本を書いて、みんなが演ずることを93年から10年間続けました。04年の宮澤賢治の「神の創りし子ら」を最後に浦和は解散しました。人間関係のもつれが原因です。
所沢との関わりは95年に、戦後50年記念の朗読劇「8月15日の子どもたち」を市民参加で制作し、96年には宮澤賢治生誕百年市民講座を担当しました。この時の参加者の希望で作りました。そして去年10周年で「君死に給うこと勿れ(与謝野晶子物語)」を上演しました。今年の春には「金子みすゞ物語」と先月11日にはレイチェル・カーソン生誕百年記念で、「われらをめぐる海」を小手指公民館分館で上演しました。これまでは所沢には寝に帰るだけで、地域になにも貢献できませんでした。70歳を超して、地元への恩返しと思っています。
憲法九条は守れますか
「日本の夜と霧」、「草むす屍」でも、言ってきたのですが、やはり、いかにしなやかで、したたかな組織を広げることができるかではないでしょうか。号令で全ての民衆が一つ方向にセンスを向けて雪崩をうってしまうという状況のなかで、ナンセンスと言う勇気が大事です。自分が事実と向かい合って考えて、掘り起こして、これは譲れないぞとの本当の思想を一人ひとりが自分のものにしないと、弱いという思いがどっかにあります。民衆一人ひとりが利巧になっていくという筋道が大事と思います。今度、中国共産党が科学的発展という言葉をやっと取り入れましたが、なんで社会科学の分野がこんなに遅れているのでしょうか。いまだに人と人とのコミニケーションが成り立っていません。そればかりかマスメディアが作った世論に流されているのが現状です。今こそ、マッスではなくむしろナロードニキ的運動が必要なのでは。
例えば金子みすゞと取り組む場合でも、みすゞブームにあやかって、天才詩人と誉めそやすだけでなく、なぜ彼女の絶筆は「きりぎりすの山登り」なのか、彼女を生んだ大正デモクラシーと呼ばれている時代とは何だったのか、同時代の詩人与謝野晶子や宮澤賢治の行き方と比べてどうだったのかと探っていくことで、今の我々の行き方を照らし出す必要があるのではないでしょうか。
ミューズの井上ひさしさんの講演を私も聞きました。独特の物の考え方、対象を見つめていくやり方、すごいものです。井上さんの著書に『東京セブンローズ』という小説がありますが、これは、アメリカ占領軍が、日本の文化から日本語を奪い、ローマ字の文化にしようとしていた謀略を、民衆の知恵と工夫で粉砕する物語で、そこには原爆の被災、敗戦、占領という日本人が初めて体験した歴史の悲しみ、怒りの原点が描かれています。これを読んだとき僕は、チェ・ゲバラが日本に来た時のエピソードを思い出しました。彼は夜中にホテルを抜けだして広島を視に行き『これ程の惨禍を受けても、まだ日本人はアメリカに尻尾を振るのか』と吐き捨てるように語ったそうです。これらをナショナリズムの一言で片づけられるでしようか。また井上さんは最新作『ロマンス』の中で、あのトルストイがチェホフに語る人生訓をなぜか9条だけ忘れているという仕掛けを作ってまで現在の信念を貫いているのです。その独創性、精神の逞しさには敬服あるのみです。
井上さんが、文化の根抵に置いているのは「言葉」の重さです。もっと私たちが大事にしなくてはならないものです。
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